3.椿の怪
「お前、そこにいると絵みたいだねぇ」
多良は、椿の木の下が好きである。
夏も冬も、葉の下で体を丸め、惰眠をむさぼっている。
今日も今日とて、境内を少し離れた家屋の裏庭に咲く椿の根本に身を寄せ、黒と緑と赤の濃い取り合わせがひとつの絵のように映えている。
その様子を見て、師走は緩い笑みを浮かべた。
多良は大きくあくびをした。
師走は、多良に助けられた日のことを思い出していた。
「あれ…」
雪の降る夜。
師走は空を見上げて動けないでいた。
ぼやけた意識で、ここ数日何も食べていないことを思い出した。
その上、最近依頼を受けたつくも物の件でひどく体力を消耗していた。
手足の感覚はなく、牡丹雪が頬に舞い落ちては体温を吸って溶けて流れていく。
獣の荒い息使いが聞こえるような気もする。
視界の端に、黒い影が映ったが、師走は瞼を開けていられず、そのまま意識を投げた。
黒猫は、よれた着物の端を噛んで、昏倒した見知らぬ師走を、白い雪道を引きずっていた。
大通りから少しずつ移動し、脇道を通り過ぎ、とある屋敷裏の椿の木の下まで辿り着くと、ようやく口を放した。
そうして疲れた体を預けるように椿の根本に横たわる。
椿は、大きな幹につややかな葉を幾つもつけ、桃色の花を咲かせていた。
甘い芳香に鼻がうずいて、師走は意識を取り戻した。
目の前が黒い葉の影で覆われている。
「おい、あそこに誰かいるぞ」
「あらやだ、大変」
やがてそこの住人に気づかれ、慌てて医者を呼ばれた。
「やぁ」
師走は倒れた時、何故かこちらを漆黒の瞳でみつめていた黒猫に気が付いた。
猫は動かない。
「死んでしまえ、なんて、酷いなぁ」
心を読んで腑抜けた笑みを浮かべると、多良は耳をけいれんさせて、ゆっくり瞬きした。
そうして、言葉の通じる人間がいるのかと、面白半分に助けてやることにしたのだという。
後に聴くところによると、多良は例の椿を友人と思っているようだったが、なぜそこまで引っ張て来たのかは悟らせてくれなかった。
家の者は親切で、医者はもちろん、食事や寝床を提供してくれた。
「死んでいるのかと思いましたよ」
特に、世話をしてくれた女中頭は、母親のようにこまめに師走に気を配ってくれた。
「すみません」
「あ、ほら起きないの。今日はちゃんと食べましたか」
「はい」
叱られていると、この家の一員になったような気になりそうになる事もあった。
そうして数日が過ぎ、師走は立って歩けるまで回復した。
「あの、何かお礼はできませんか」
その日、師走が食べ終えた箱膳を片付けようとしていた女中頭を引き留めて聞いてみた。
根気よく看病までしてくれた女中頭は頭を悩ませた。
「私は修繕屋をしています。あとは、胡散臭いですが、怪異とかを」
「あら、そうなの。なら、今旦那様と相談してきますね」
「はい」
やがて廊下を旅で歩いて来る音が聞こえ、家の男主人が、師走が休む部屋の障子戸を引いて入ってきた。
旦那と呼ぶにはまだ若さの残る面立ちで、師走に真摯な様子で頭を下げた。
「女中からお話はうかがいました。なにとぞ、ご助言いただきたいことがあります」
ふり絞るような声だった。
怪しまれると思っていただけに意外にも真面目な体で頼み込まれたので、師走は内心驚いたが、常のように平静に振る舞うことにした。
「分かりました。私でよければ。いやまぁその、面を上げてください」
師走が言うと男は頭を上げたが、暗い面持ちで正座した膝の上の拳を強く握った。
「ご助言というのは、あなた様が居られました、椿についてでございます」
男は庭を見やった。
その椿は、家が代々世話をしてきたもので一体いつ植えられたのか分からないほど、立派な幹と美しい桃色の花を咲かせていた。
しかし、いつからか季節を問わず咲くようになり、家の誰かが亡くなれば白い花、子が生まれれば赤い花を咲かせるのだった。
そのため、家の者は体調を崩したり懐妊することがあると、椿の前で手を合わせて思い思いの祈りを捧げるのだった。
師走は、開け放した障子の向こう、裏庭の椿を改めて見て言った。
「しかし、あの椿、枯れていますね。もう長くはない」
男は肩を落とした。
「そうですか。やはり、死んでしまうのですか」
大きく育ち枝を伸ばす椿の木ではあったが、その大部分が水気を失って色褪せ、師走が香りを嗅いだ花も根本近くで数個咲いているだけである。
落ち込んでいた男は自嘲の笑みを漏らした。
「しかし驚きました。もう何年も花など咲かなかったのに、あなたが倒れられておられた時、どれだけぶりか花が咲いていたのです。実を言えば、あなた様をお助けするよう言いつけたのは、何か縁あってのことと思ったからなのです。邪な思いにてお世話したことお詫びいたします」
恐縮する男に、師走は眉尻を下げて苦笑した。
「いえ、助かりました。素性もわからぬ者をこんなに手厚く診て下さるとは、ちょっとできることではないでしょう」
そして口調を明るく変えた。
「それと、その花ですが、生を終えようとはしているようですが、最後に友人を見つけたようですよ」
「え」
「出ておいで。雪の上は嫌いだろ」
縁側に向かって言うと、慎重な足取りで先の黒猫が軒下から姿を現した。
師走は掛布団をめくり、敷布団を掌でたたいた。
助走といくらか目線を交わした黒猫は、やがてそこに飛び込んだ。
師走は掛布団を戻して、上から丸いふくらみを撫でた。
姿が布団にすっかり隠れてしまう直前、師走は黒く2つに割れた尻尾を見て、恩猫は猫又であると知った。
呆気にとられる男に師走は答えた。
「花を咲き分けるとは、珍しい。獣は聞こえない声を聴くと言います。私をこちらまで運んでくれたのもこの子なのです。この子も椿の思いを悟って、どうにかせよと私を助けたのかもしれませんね」
布団の中で、余計な付け足しをしたことに抗議するように猫が唸った。
「そうだったのですか」
感慨深げに言うと、男は眉尻を下げた。
「それにしても立派な椿なのに、なんだかもったいないな」
「まったく、その通りですね」
含みのある言い方をして、苦虫をかみつぶしたような顔で男主人は嘆息すると、足を崩して胡坐をかいた。
「あれを枯らしたのは私なのです」
男主人は続けて語った。
「今日も綺麗だね、椿よ」
父は、椿の前を通ると古い友人に出会ったようにいつも声を掛けていた。
男は子供のころ、その背中を見つめて育った。
家の椿は家族にとって生死を左右することができるものとされていた。
男が生まれる前も、毎日祖母が手を合わせて無事生まれることを祈っていたという。
無事生まれた男は、一家の長男として家族から愛情を一身に受けて育った。
中でも祖母は優しく、互いに離れようとせず、いつでも一緒にいた。
「お前様!大変でございます」
冬のある日、それは起こった。
階段で足がもつれた祖母が床に落ちて意識を失ってしまったのである。
祖母は床に伏して、なかなか目を覚まさなかった。
「婆様、ずっと目を覚まさないよ。ねぇ死んでしまうの。お願いです、母様。婆様をお助け下さい」
男はすすり泣いて祖母を失う恐怖を家族に訴えた。
しかし、母をはじめ家の者たちは首を横に振るばかりであった。
「婆様ののご年齢を考えてごらん。重い病で起きながら痛みに苦しむ事もあるというのに、こんなに静かでいらっしゃる。このまま眠るように逝かせてあげるのが、孝行というものですよ」
母の言葉は男を打ちのめした。
「くそ、くそぅ」
感情の行き場をなくした男は、数日後とうとう我慢の限界を迎えた。。
裏庭に裸足で降りると、竹棒をつかみ椿の前まで来ると、怒りに任せて大きく振り上げた。
「生死を左右する妖しい花など、あるからいけないのだ!」
泣きながら男は力の限りに竹棒を振り下ろした。
何度も叩かれた椿は、まだつぼみもつけていないまま竹棒で茎を滅多折りにされ、屍のように雪に埋もれていった。
狂ったように暴れる男を両親は見つけて、やっとの思いで止めさせた。
「なんてことをしたんだい」
「いつか罰が当たるよ」
両親はたいそう怒った。
男も一時の感情に流されたことを深く後悔していた。
その翌日、祖母は意識を取り戻した。その後、老衰で亡くなるまでの間、祖母は何かに特に祟られるような事も無く、静かにこの世を去っていった。
一方で、祖母は時折椿の方を見ては、己のためとはいえ、楽しみにしていた椿が二度と見られないことをひどく残念そうに目を伏せていた。
「ごめんなさい。婆様」
膝にすがって言い募る孫を、祖母はいつも頭を撫でて許した。
「いいんだよ。いずれ、花にも寿命はくる。お前が怒りで鬼に転じなくて良かった」
そう冗談を言いはぐらしたが、喜びを奪ったうしろめたさは男について回った。
祖母が亡くなると、今度は母が懐妊した。
喪失感に打ちひしがれていた男だったが弟か妹ができると知ると、悲しみから立ち直る機会を得たとばかりに、毎日母の腹に耳を当てて命の動きを感じ取ろうとしていた。
「誰か!だれかぁ!」
ある日、男は母親の悲痛な悲鳴で目を覚ました。
布団を跳ねのけ急いで駆けつけてみると、母の敷布団は真っ赤に染まり、泣く母親を父親が沈痛な面持ちで抱きしめていた。
男はその時、父親が遠く椿に目をやっていたのを見た。
「祟りだ」
男はそう思ったという。
「それ以来、母に子はできず、私は一人息子として育ち家を継ぎました。おかげ様で商売はうまくいっております。いっそ、あの椿も処分して一切忘れてしまおうとも思ったのですが、数は減っているとはいえ、毎年花をつける様を見ると、昔の自分と祖母の悲しい顔を思い出されてしまって。それに、下手に引き抜きでもしたら、また家の者に不幸があるかもしれません。そう思うといかんともしがたく、困っておる次第なのです」
言い終えた男に耳を傾けていた師走は、くぐもった獣の鳴き声を聴いて、布団をめくった。
「おや、思うところあるのかい」
師走と視線を合わせ、ひと鳴き。
しばらく見つめ合ったままの1人と1匹を男は交互に不思議そうに見守っていた。
師走は黒猫の頭を撫でて笑んだ。
「じゃあ、お前さん。私が友人を助けるから私の相手もたまにしてくれるかい」
少し低くひと鳴き。
苦笑した師走は、男に解決策を提案した。
翌日、まだ枯れていない椿の枝の一部をいくつか切って、椿は庭師の手によって挿し木にされていた。
師走は職人が作業をするなか、身支度を整えた師走は、残った枯れかけの椿と向かい合い、立膝あくぐらをかいてほぼ一日過ごしていた。
雪で着物が濡れようと師走はいっこうにかまいはしなかった。
黒猫も寄り添うようにして師走の白い小袖にくるまっていた。
「主人、お話が」
「えぇ」
師走は職人が去って、すっかり挿し木が済んだ頃、男に椿から聞いた話を話すことにした。
「あの椿は、確かにずいぶん昔から生きたために半精霊となって力を持っています。ただ、呪ったり物事に変異を起こすことは、この類のものにはできないのです。せいぜい、己で悪戯をしかける程度。この椿も例外ではなく、何代にも渡って可愛がってくれたこの家の方々に哀悼と祝福の思いを伝えるべく、紅白の花を咲き分けていたそうです」
男は正座していたが、驚きに後ろに手をついて瞠目した。
「なんと。では私はそんな優しい花に無体を…。子供だったとはいえ、なんということを」
師走は続けた。
「椿どのは、気にしないで欲しいと。世話される身に、幸せ不幸せはいつかあること。私もそう思います。しかし、この黒猫が大そう椿どのを気に入っているようで、生かす知恵を貸してくれました」
「それが、あの挿し木ですか」
「また紅白を咲き分けるには何十年も必要でしょうが、うまくいけば、あの1株からいくつもの不思議な椿が生まれることでしょう」
「そうか、そうか」
師走が言うと、男は裏庭に降りて行ってうずくまった。
「あぁ、あぁ」
男はさめざめと雪の中男泣きに泣いた。
「挿し木なんて、どこで覚えたんだか」
その後、多良は椿の老若を問わず、時折例の椿の子供たちの下で、眠っている。
予想外だったのは、挿し木にした椿が瞬く間に成長して植えた翌年にはすでに花をつけるようになたことである。しかし、声を聴くことはできない。死に行く椿が残した最後の力だったのだろう。
男は来年、子ができる。
師走は、しゃがみこんで多良の頭を指先で撫でた。
「いくら寿命が長いとはいえ、先にお前が死ぬかもしれないのに、待つんだね。優しいやつだ」
からかうと、多良は尻尾で地面を叩いて反対側に顔を向けて再び眠る格好に戻ったのだった。
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