第10章 新世界 その3 比婆山
翌日になると、昨日までのトーニオの杞憂が嘘のように順調に行程が進みだす。
朝早くに出発したおかげで、昼前には比婆山のたもとにたどり着いてしまった。
「どうやら暗くなる前に山頂に着いて、暗くなる頃には『イムホテプの儀式』の準備を整えられそうだ」と安堵する。
ミリウスは元気なく見えたが、山頂まで登り切ることは可能であろう。
山頂に到達できさえすれば、後はどんな手段を使ってでも儀式を行わせるつもりである。
阿曽にしても疲労を隠しようがないとはいえ、体力的にはミリウスよりは余裕がありそうに見えた。
道行きの当初こそ「どこで女を捨てていくか」などと考えていたが、この国でオーラと逃げ延びることを考えるのなら、言葉を話せる彼女は得がたき人材かもしれない。
儀式が済めば邪魔物になってしまうミリウスよりも有用ではないか、とさえ考えてしまう。
だが最大の問題は、『イムホテプの秘術』なる儀式が本物なのかどうか、という一点である。
まやかしであるのなら、オーラはこのまま死ぬであろう。
トーニオは心に決めていた。
『イムホテプの秘術』がまやかしであるならば、生きて山を下りる者はいないであろう・・・・・・
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夕闇の中、比婆山の頂上と思しき場所に到達した。目印になるようなものはない。
ただ、どうやら自分達いる場所よりも高いところは周囲のどこにもなく、そのおかげで山頂に着いたらしいと推察された。
トーニオは剣を使って山頂周辺の藪をなぎ払う。
儀式をするのに十分な広さを確保しなければならない。
ミリウスと阿曽も根を掘り返したり、地ならしをしたりして、甦りの儀式を執り行えるだけの場所を整える。
十分に場所が整ったのを確認すると、トーニオは兄・オーラの遺骸を横たえた。
日はまさに沈もうとしており、太陽の光は消え去ろうとしていた。
トーニオがミリウスに囁く。
「さあ、全てはおまえの望み通りに整えた。
高い山の頂上で、ここには誰も邪魔立てする者はいない。あまえが望んだ通りに、昼の光は消え失せ、夜の帳が下りてくる。
『イムホテプの秘術』を執り行うのに妨げとなるものはない。
ミリウス、いまこそ兄・ミリウスを生き返らせてくれ」
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トーニオの願いの言葉はミリウスを震えあがらせた。
それまでの苦労で忘れかけていた恐怖であったが、それが如実に心の中に沸き立った。
果たしてこれから自分が執り行う儀式が人間にとって許された行為なのか、未だにミリウスには結論づけられない。
そもそも、なぜ大神官はミリウスにハオマなどという秘薬を託し「イムホテプの秘術」などを習得させたのか。
そんなものを覚えても自分自身を甦らせることはできないというのに。
もしも自分に選択権があったとしても誰に術を施すのが正解なのか・・・・・・
答えのない疑問であったから、これまで深く考えてこなかった。
だが、もっと前に自分の心の中だけであっても結論を出しておくべき問いだったのではないか。
今となっては後悔しても何の意味もない・・・・・
大神官達の思惑を推理すれば、ミリウスの自尊心を満足させるためではなかったか。
このような遙か東の果てまで苦難の旅をさせるには、それに見合う報償が必要だと考えたのだ。
自分はまんまとその飴に釣られた馬鹿者だったことになる。
奴らはミリウスを褒め称えながら、裏では嗤っていたに違いない。
ならば、これは本物なのか、それとも疑似餌のようなものに過ぎないのか。
疑似餌ならば何も起こらず、後はトーニオの手で自分も阿曽も殺されるだけだ。
一縷の望みは、大神官が心底から任務の苦難を推し測り、最後の最後にどうしても必要な者に秘術を尽くしてでも目的の達成に協力させようという思いやりで決断を下した場合だ。
本物である場合には、これを本当に必要とした場面は遙か前にあった。
ここでオーラを生き返らせることは、主旨から外れる。
倭国に来て以来、使節団の中での兄弟の地位は高くなる一方であった。
確かに少数の使節団が生き残るのには武力を背景とした交渉が必要であった。
それでも武力に訴えることなく、もっと平穏な活動が出来ていれば、出雲に在っても全然異なった性格の宗教として大国主神の信仰と折り合って行けた可能性がある。
武闘派の二人が倭国でのミトラ教を、まるで一神教のような非寛容な神にした結果がこれだ。
もっと前に、自分と考え方を同じくした者を救わなくてはならなかった。
もはや手遅れだが・・・・・
いや、大神官達は自分を手のひらで踊らせているだけであろう。
このハマオやイムホテプの秘術も、そうやって自分を操るための小道具なのだ。
本物のはずがない。
何も起こらないとしても自分に何の責任があるだろうか。
それでも術式の後には殺される運命が待っている。これは、これまで積み重ねてきた失敗や怠惰の罰なのか。
その時、阿曽という娘の姿がミリウスの目に入った。
彼女こそは何の責任もないというのに、ミトラ教に関わったばかりに殺されてしまうのか?
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トーニオが火を起こし、オーラの遺骸が横たわる四方にロウソクを灯す。
これは倭国になかったため、晋から持ち込んだ残りの最後であった。
ミリウスは暗記した通りに呪文を唱え、おもむろに懐から青銅製の珠を取り出す。
定めの呪文を唱えながら、指輪に付いた飾りを外すとそこには鋼製の針が付いているのだ。
それをあらかじめ教えられていた通りに珠の窪みにはめ込む。
ピッタリと指輪は窪みにハマりそうだが針の分だけ浮いている。
これで針は珠のもっとも青銅が薄い場所に当たっていることになる。
ミリウスが力を入れると難なく針は壁を突き破り、カチリと音が鳴った。
そこでトーニオに命じる、「オーラの口を開けよ」と。
命令に従い、トーニオは剣の切っ先を使って硬直した口をこじ開けた。
そうして開いた口の上で珠を逆さまにする。
そこでミリウスは再び上側に針を当てる。
カチリと再び金属音がすると、珠の中から液体がこぼれだす。
液体はロウソクの明かりで赤く輝きながらオーラの口の中に落ちていく。
珠の中の液体がすっかり流れ落ち、珠が空になるとミリウスはそれを脇に置いた。
再び彼はその残りの呪文を唱えだす。
ロウソクの炎が揺らめく中をミリウスの声だけが響き渡る。
横たわるオーラは少しも変わることなく身を横たえたままだ。
「何も起こらないではないか」とトーニオが憤慨して口を開いた途端に四つのロウソクの火が消えた。
と、どこからか生暖かい風が流れてくる。
そのうちに顔に水滴が落ちてきた。
雨が降り出したのだ。雨は徐々に強くなってくるが、ミリウスの呪文は終わらない。
ミリウス自身はロウソクの火が四つ同時に消えたことで恐ろしさを覚えていた。
「これは本物だ!」と感じ取ったからだ。
雨足は強くなる一方で、彼らのまとった衣服はみるみるぐしょ濡れになり、身体もすっかり濡れて冷えてきたというのに、もはやミリウスには呪文を止められない。
最後までやらなければ、もっと恐ろしいことが起こるのではないかという恐怖にとらわれていた。
とうとう最後の一章節が口の端に上る。
上空では青い稲光が煌めきだす・・・・・・いや、うなりと共に光っているのは空ではなく比婆山の地面の方ではないか。
空の雲が地面からの青白い光に照らし出されているのだ。
なにかとんでもないことが起ころうとしているという予感に、三人とも慄きを覚える。
遂にミリウスが呪文を唱え終わると地面がうねったのを三人とも等しく感じる。
それと同時に地の底から轟くような声が響き渡った。
「願いは聞き入れられたぞ」
ミリウスもオーラも言葉の意味が理解できない。
だが、阿曽はその声に歯の根が鳴るほどガタガタと震えだした。
「なんだ、今の声は何だ!声であったな?」とトーニオが叫ぶ。
「分からぬ」とミリウスが怒鳴り返すと「『願いは聞き入れられた』と!」と阿曽がラテン語で叫んで答えた。
次の瞬間、大地から青白い光が閃光の様にほとばしり、比婆山の山頂はその一瞬だけ昼の光よりも眩しくなる。
その光は四方へ、ほんの刹那だけ広がり伝わっていったが、瞬く間に周囲は元の漆黒に戻り、いつしか雨も止んだ。
何があったのだ、と誰しもが訝しんだが、そんな疑いの時間は長くはなかった。
四つのロウソクに再び明かりが灯り、それと共にオーラの目が開いたのだ。
その目は爛々と赤く輝き、その吐く息は青白く光っている。
「何があった」
その声は確かにオーラから発せられた声のはずだったが、地の底から発せられたような響きがあり、何もかもが恐ろしく聞こえてくる。
勇気を振り絞ってトーニオが声を掛ける。
「オーラか」と。
「なぜ、そのようなことを聞く。おれがオーラであることは間違いようもない。
・・・・・・・いや、ここは一体どこだ。なぜ誰もいない」
トーニオが、教団に出雲が攻撃してきたことと斐伊川で息絶え絶えのオーラを見つけたことを説明する。
「なるほど。おれは死にかけていたという訳だ。それからほどなくして死んだ。
なのに、おまえ達がおれを黄泉の国から呼び戻したということか」
「そうだ。アケローンの川を下りきってしまう前に、呼び戻さねばならないと思ったから急がねばならなかった」
その言葉にオーラが赤く輝く目で睨み返してきた。
どう見ても常人のものではない。
「それをおれがありがたがるとでも思ったか!おれはそんなことを頼みはしない!
おれが今欲しいのは・・・・・・・おれがほしいと望むものは・・・・・・
くっ!・・・・・人の生き血だけだ!
分からないのか。おれは死んでいる!
この身を保つためには人の生き血が必要だ!もう既に人の血に飢えている。
身体は渇きを癒やそうと生き血を求めている!」
トーニオは恐ろしさのあまりミリウスのほうに目を向ける。
それから阿曽の方を見た。
そんな思考を遮るようにオーラの声が響く。
「女は役に立つ」
その声にミリウスが震え上がった。
それを見てオーラが嗤った。
「そうだミリウス、おまえのおかげでおれは生を受けた」
震えながらミリウスが怒鳴る。
「私のおかげだ。私がイムホテプの秘術を使わなければ、おまえは生き返らなかった。おまえは私に感謝しなければならない」
「ミリウス、分かっていないのはおまえだ。おれは生き返ったのではない。血の乾きに放り込まれたのだ。こんなものを望む奴はいない。
これは忌まわしい呪いと呼んでもいいだろう。これから先、何年もおれは人の生き血を啜って肉体を維持していく運命だ・・・・おれの望みとは関係なく・・・・」
オーラの赤い瞳のひとにらみにミリウスは震えながらも言い返す。
「望んでやったことではない。おまえの弟が切実に望み、半ば強制したことだ」
「そんなことは分かっている。トーニオはおれの弟だ。血を分けた兄弟だ。
おれに死んで欲しくない、なんとしてでも生き返らせたい、と願うのは自然な感情だろう。それに、おれが弟を殺したくないというのも、おれに残された数少ない人間的感情だ」
その言葉を終いまで聞こうとはしなかった。
いきなりミリウスは茂みに向かって駆け出した。
その場から離れなければ命がないことは理解できた。
あれ程までに疲れ切っていたはずなのに必死で走り出した。
ミリウスが茂みに駆け込むと、オーラは目を閉じた。
次の瞬間、カッと見開いた真っ赤な瞳から赤い閃光がほとばしり、ミリウスの行く手にその光の滴がこぼれ落ち、炎を上げて燃えだした。
総神官は火を前に立ち尽くす。
どうなっているのか分からないが、考えている暇はない。
「逃げなくてはならない」の一念である。
だというのに目の前の中空にオーラが姿を現す。
背中から炎に照らされているというのに、その真っ赤な眼光は眩しいほどに煌めいている。
「ミリウス、最期に自らの罪をあがなえ。おれを更なる罪を重ねていかねばならない境遇にしたのはお前なのだから」
「嫌だぁ」と恐怖の叫びを上げてミリウスは背中を向けて逃げだそうとしたが、途端にオーラの手で首を後ろから鷲掴みされた。
「助けてくれ!」
「おまえの願いを聞き入れる者はいない」
オーラの指の爪は鋭く長く伸びており、その手に力が入ると首から血が滴り始める。
オーラはそのしたたる血に舌なめずりし、がぶりと首筋に噛み付く。
血が溢れ出し、断末魔の叫びが響き渡る。
それも長くは続かなかった。
血が流れ出なくなると、オーラはミリウスの身体を引き裂き、心臓にかぶりつく。
見るもおぞましい姿だったが、ロウソクの明かりに照らされたオーラの顔は歓喜に満ちていた。
実の兄の忌まわしい姿にトーニオは顔を背け、阿曽は恐ろしさに目を伏せる。
オーラはミリウスの体をしゃぶり尽くすと、その残骸をぞんざいに放り投げた。
見れば今やオーラの身体は暗闇の中で炎に照らされているだけでなく、自ら青く光を放っているではないか。
「女!」
その地響きともつかない声に阿曽は震え上がるほかない。
「出雲には戻れぬ。この身体ではすぐに万余の兵と戦う訳にも行かぬ。
おまえの故郷に案内せよ」
阿曽は震えが収まらずにいたが、選択の余地はなかった。
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