第9章 出雲の変 その3 兄弟

二人は泳ぎを競ったり戯れたりしながら、アサザのない深みへ深みへと泳いでいく。

オーラの立つ岸辺から更に離れていく。

これはオーラにとっても想定外のことだったようだ。

だんだんと小さくなっていく兄弟の姿に不安そうな様子を浮かべている。


そのうちに居たたまれなくなったのか、護衛役のオーラは急いで鎧を外すと、駆けるようにして水の中に入っていった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「策の通りにございます」とササモリヒコ(楽々森彦)は自慢げに顔を上げる。


「なぜ、今、襲撃の命令を出さなかった」


「予想外に動きが速かったものですから」


「次は予想外でないと分かるのか」


「ですが、こうして隠れていれば戻ってくることは確かです。鎧というものは脱ぐよりも着ける方が手間取るものでございます」


「そんなことは言われなくとも分かっておるわ!

今、あの大男がイリネ様を水底へ引きずりこもうとしたらなんとする」


「そのような強引な暴挙ををご懸念されましても・・・・・第一、そんなことをする機会なら既に幾らでもあったはず」


「それはイリネ様も武器を持っていたからな。だが、今は丸腰」


「三人ともが丸腰にございます」


「そのようなこと、少しも気休めにならぬ。もう鎧を脱いだのだぞ」


「今、襲いかかっても、ローマ兵は逃げ延びてしまうでしょう」


それでも構わぬではないか、と言いかけたところで誰かが彼の肩に誰かの手がかかるのを感じ取った。

振り向くと、手の主はヨモロヅミコト(世毛呂須命)である。

出雲国主はその場にそぐわぬほど穏やかな表情で「もう良い。彼を信じようではないか」と言った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


オーラは二人を追って深みへと泳ぎ入ってくる。


二人は和やかに戯れているというのに、それにそぐわぬほど険しい顔をしているのが目に入ってきた。

彼が案ずるような殺伐とした気配は微塵も存在していないというのに、とフリネは笑う。


「フリネ様」と、その彼が声をかけてきた。


オーラの声にフリネの顔から笑顔が消える。


「うるさいのが来た。のんびりしていられるのもここまでか。

イリネよ、岸まで競争しないか」


「いいとも。昔のおれと思うなよ」とイリネが答えるが早いか、二人は同時に岸へ向かって泳ぎ始める。


それを見定めると、オーラも来たばかりの方向へ泳いで戻り始めた。


兄弟での競泳は、言葉の通りフリネの方が早く、先行したイリネを抜き返すとそのまま先に岸に上がる。

岸に上がると素早く衣服を身に纏う。


「やっぱりフリネの方が早いな」とイリネが続いて岸に上がってくる。


そのイリネの言葉には答えず、フリネはいきなり剣の鞘を払った。


「イリネ、悪いが命をもらうぞ」


ハッとして顔色を変えたイリネは剣の切っ先を避けるようにして自分が服を脱いだ場所に駆け戻り、剣を手に取った。

だがそれは・・・・・!


イリネは自分の目が信じられないような顔をして自分の手の中にあるものを凝視している。

そこにあるのは剣ではなく、木剣に模様を刻み込んで似せただけの模造刀であった。


そこへ躊躇なく、フリネの剣の切っ先が腹から胸へと貫いていく。

血しぶきを浴びながら「恨むなよ。恨むならおまえの神を恨むのだ。信心を抱かぬおまえが悪いのだ」とフリネは言い放ってみせる。


イリネはただうめき声を上げただけで、返事をすることもなく、ばったりと倒れこむ。

すぐにオーラが岸に上がってきて「見事です」と賛辞を送った次の瞬間には十人あまりの兵が取り囲んでいた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


フリネの前にはイサセリヒコ(五十狭芹彦)とワケノミコが立ち塞がり、その足下ではヨモロヅミコト(世毛呂須命)が変わり果てた姿のイリネを抱きかかえている。


「愚かなり、愚かなり・・・・」と、ヨモロヅミコト(世毛呂須命)は声を上げて嘆き続けるばかり。


フリネは、と見れば、事の次第に呆然と立ち尽くしている。

だがそのすぐ脇では、武装した兵を相手に素手のオーラが大暴れしている姿があった。

あまりに対照的な姿にイサセリヒコ(五十狭芹彦)は何がどうなっているのか不可解な気持ちにさえなったほど。


オーラはといえば、武装兵が揮ってくる矛の切っ先を素手で何度も払い落とし、その両腕には既に深い傷が幾つもできていた。

それでもなお、その闘志にはいささかの衰えも見えない。

オーラは何度か武器を奪い取ろうとし、遂には一人の兵を取り押さえ、まさにその矛をもぎ取ろうとしたところで背後から剣に刺し抜かれる。


「うーん」と一声だけ呻きを上げたまま倒れ込んだ。


その姿を見届けるとフリネは叫ぶ。


「父上もまた、私の命をこうして奪おうとしたのではないですか。私は先手を打とうとしたまで」


「愚かなり・・・・・愚かなのはおまえだけのことではないぞ。愚か者は、わしら全員よ。

フリネよ!我らはおまえの命を奪う気など少しもなかった。ただ、おまえの身を教団から切り離し、取り戻したかったのだ。そのためにあのローマ兵が邪魔だった。

今なら・・・・今なら・・・・・、そのような策が全て馬鹿げたことだったと分かる。

策を弄したばっかりに、わしは息子を二人とも失うことになってしまった。

しかも、先祖神を祀るこの地で兵の指揮を執って戦うことになるとは・・・・・!

こうとなっては、仕方がない。

今まで出雲に住まう者なら誰であろうとも、その信仰に口出しなどしてこなかった。だが、それがこのような災厄の原因なのか・・・・・

わしは戦神とも鬼ともなり、これには決着は付けねばなるまい。

他の神々と相容れずに、全てを支配しようとするならば、共存することは出来ぬ。そのような神は出雲では受け容れられぬ。

罪は償わなければならない、例えそれが我が子であっても。だが、・・・・・・だが、それでも息子を自らの手で始末することは出来ぬ。

イサセリヒコ(五十狭芹彦)殿、わしに代わって我が息子に罪を償わせてやって下され」


「本当によろしいのか」


「本来ならば、父親としてわしがけじめを付けなければならぬとは分かっておるのじゃが・・・・・・そればかりは、いかに鬼となろうとも、わし自身で出来ることではない・・・・・・

親子の情に免じ、わしに代わってこやつに自らの罪を償わせてやって下され」


「・・・・・・・・分かりもうした・・・・・・・・」と答えつつも、イサセリヒコ(五十狭芹彦)にしても剣を抜くことが出来ない。

彼はためらい逡巡する。

遂には自分の目付役に命じる。


「ワケノミコよ。大王に成り代わりそなたに命ずる!フリネを斬れ」


命じながらも、これこそが上に立つ者のわがままに過ぎぬとイサセリヒコ(五十狭芹彦)は「済まぬ」と恥じ入る・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


極秘裡に兄弟の遺体が運び出され、急遽、出雲にこしらえられた殯の宮に安置されてしまうと、ヨモロヅミコト(世毛呂須命)は間を置かずして解散せずに待機させておいた兵に命令を下す。


「ミトラ教団は大国主神のみならず、八百万の神々全てを滅ぼそうという邪神である。教団を攻め落とせ。誰一人として教団の建物の中から逃がしてはならぬ!」


出雲国主ヨモロズミコト(世毛呂須命)はミトラ教団を根絶やしにすると決意した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ところがトーニオの元にはいち早く兵が迫ってくるという情報が届けられていた。

至る所にミトラ教団は間者を放っていたのだ。


この報せをもたらしたのは阿曽という女である。

彼女は吉備の踏鞴(たたら)職人の娘で、踏鞴の技術を交換するために出雲までやって来た父親に付き従っていたのだ。

その父親は既にミトラ教に入信している。

そこで彼女を間者に仕立て上げ、出雲の宮に女官として参内させていたのである。


オーラのイリネ殺害案は突発的に計画されただけに粗さが多かった。

それでもイリネがオーラに殺されたと見做されることを避けることは配慮したつもりであった。

疑いは、出雲の国主から教団の討伐や迫害の命令を出す口実になるからだ。

不審死であっても傷口などからオーラに疑いが及ぶおそれはあった。


イリネを殺した場合に、教団迫害の口実に利用されない方法は、犯人がフリネの場合だけである、というのがオーラやトーニオの認識である。

その場合でも卑劣な殺害ではなく、できれば兄弟喧嘩の末の偶発的事件になるのが望ましい。


発覚後にフリネが悔恨と共に犯行の告白をする。

つまりはフリネに剣を取らせなくてはならない。

フリネに剣を取る決心を促すのには、イリネの剣を模造刀に取り替えるというお膳立てまでが必要だったのだ。


むしろ暗殺実行後のことは安易に考えていた。

そのため単身でイリネが教団にやってくるという千載一遇の機会に目がくらみ、オーラが計画実行に踏み切ったのである。


十分な検討が成されないままでも総神官ミリウスが認可せざるを得なかったのは、教団内でのオーラとトーニオ兄弟の存在の大きさのせいであった。

特に出雲上陸当初の危機の中では、ローマ重装歩兵の兄弟に頼りっきりであった。

彼らの腕っ節がなければ生き延びることもままならなかったであろう。

その後、正式に布教を認められたことや、教団の建築物造営の許しを得るのにも彼らの存在は大きかったであろう。

本来は護衛に過ぎなかった二人だが、それ以来、教団運営方針の決定権を徐々に握っていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る