第9章 出雲の変 その2 アサザの花

その振る舞いにフリネはムッとした表情に変わる。


それに気づいてイリネは苦笑を返してくる。


「この話は、もう終わりだ。

そんなことよりも斐伊川へ行かないか。アサザが川面に生い茂り、花を咲かせているとか。子供の頃によく遊んだだろう。あの場所だ」


イリネの誘いにフリネは気を取り直す。泳ぎなら得意中の得意であるフリネは、小さい頃によくイリネを誘い出しては泳ぎで負かしてやったのだ。

斐伊川は、その良き思い出の場所である。


二人して道々子供の頃のことなど思い出しながら語り合う。

イリネは変わっていない、とフリネは感じた。

話すほどに昔の記憶がまざまざと蘇ってくる。

なのに二人の関係が変わってしまったのはフリネのほうに責任がある――そう結論するとフリネ自身は申し訳ないような気にもなってくる。


そんな感慨を抱きながら斐伊川に着いてみると、川の淵からはアサザが水面を覆うように茂り、黄色い花が咲き誇っているのが見えた。

その光景を見た瞬間、二人とも本当に幼く信頼しあっていた昔に気持ちに戻る。

あの頃、二人は仲の良い兄弟だった。


暑い夏の日々には、この場所へ毎日のように揃って水浴びに来た。

アサザが水面に茂り出すと、茂みの少ない深みへ深みへと行くのだが、子供の頃のイリネはそれを嫌がったものだ。

仄かな記憶がフリネの気持ちを温める。


夏の盛りが終わろうとしている。


二人とも気づいていないが、川辺から程近い茂みにはイサセリヒコ(五十狭芹彦)とヨモロヅミコト(世毛呂須命)、それにワケノミコ達が手勢とともに隠れ潜んでいた。


「ちと距離がある」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)は密かに舌打ちをする。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


遡ること三日。


予てからの約束通りに、出雲軍は米子に留まっていた。


大和から来たのは予想に反してワケノミコ――オオヒコ(大彦)の息子、かつてオオヒコ(大彦)の越遠征軍に従軍していたイマキの大王の従兄弟――であった。

イサセリヒコ(五十狭芹彦)は伝令を頼んだタタスヒコが戻ってくると思い込んでいたので、これには驚かされる。


「タタスヒコはどうしたのだ」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)が問うと「丹波を治めるために既に任地へ向かわれました」とワケノミコは返答してきた。


「人使いが荒いな」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)は嘆息する。


イサセリヒコ(五十狭芹彦)の大王への批判じみた言動はワケノミコを驚かせたようだったが、イサセリヒコ(五十狭芹彦)の方はそんな彼を「若い」と思いながら観察する。


「それで、イマキの大王からの伝言は?大王は何と言っておるのだ」


ワケノミコは促されて居住まいを正すようにした。


「大王は、出雲の件についてお許しになられました。全面的にイサセリヒコ(五十狭芹彦)様に一任する、と仰せになられました」


「お許しが出たということだな」


イサセリヒコ(五十狭芹彦)は返事を聞くと、そのままじっとワケノミコの姿を眺めながら推し測る。


「タタスヒコでは頼りないと、大王も考えたのだろうか。出雲でこれから起こることにミマキの大王が興味を抱かないはずはない。この男を自分の目の代わりにしようということだろうか。ならば希望に応えてやるか。ちっとも自分に任されたことへの自覚がない本人の目を覚まさせてやるか・・・・」


イサセリヒコ(五十狭芹彦)は命令口調で断じた。


「ではワケノミコは私と同行せよ。このまま大和に帰ることは罷り成らんぞ」


「ど、どういうことですか」


「大王が全権を委任した以上、ここでは私の言うことは大王の勅命と同じ重みを持つ。

そういうことだ」


「ご無体な!」


「なに、タタスヒコもイマスの王(彦坐王)もいなくなってしまった。ワカタケル(稚武彦)も帰してしまった。つまり、これより先はワケノミコが私の目付になるしかあるまい。見たこと、聞いたことを過不足なく大王に伝える役ということだ。

なにぶん、私も年だ。いつ死んでも悔いはないが、死ぬ前に何をしていたか伝える者がいなくては大王もお困りになるであろう。おまえがその役を担わねばならん。

それからな、年寄りの身の回りの手伝いもしてくれ。もう耄碌しているから物忘れやとんでもないことを口走ったりするかもしれん。そういうときはおまえが私に耳打ちして、間違えを訂正するのだ」


「そのようなことは、私でなくても」


「他の者は忙しく働いておる。おまえはここにいる分にはすることもないであろう。だから命じておる。

これは大王から全権を委任されているイサセリヒコ(五十狭芹彦)としての正式な命令と受け取ってもらおう」


大王から全権委任されているという言葉に、ワケノミコが恭しげに頭を下げつつも腹を立てているのが見て取れたが、耄碌の介護は別にして、これからすることと起こることをイサセリヒコ(五十狭芹彦)とは別の目で見て、大王に伝える者が必要なのは間違いなかった。


命じた通りにイサセリヒコ(五十狭芹彦)がヨモロヅミコト(世毛呂須命)と話したり、ササモリヒコ(楽々森彦)とイリネを呼んで策の確認をしたりするのにも一々ワケノミコを同道させる。

そうして過ごすうちに「どう感じておる」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)は出雲入りする直前に、この若者に意見を求めた。


「さすがはイサセリヒコ(五十狭芹彦)様の陣中一の知恵者、見事な策に感服いたしました」


追従めいたワケノミコの返事にイサセリヒコ(五十狭芹彦)は不満の色を浮かべた。


「私が求めているのはそのような答えではない。

ワケノミコはそのうちに東戎を治める遠征に向かわれると聞いている。

配下の者のすることには批判的な目を向ける習慣を身に付けていかないといかん」


「イサセリヒコ(五十狭芹彦)様はササモリヒコ(楽々森彦)の策に御懸念があるのですか」


「さて、全てがササモリヒコ(楽々森彦)の予測通りに事が運ぶものかどうか。なんにせよ不測の事態はつきものだ。その場合に代償となるものは何か。それを考えだすと心配でならぬのだ。

と言って、他に良い案がある訳でなし・・・

ヨモロヅミコト(世毛呂須命)様とイリネ様とが同意して下さった以上、この線で決行せねばならないが・・・・・・」


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その三日後の斐伊川の淵に、こうして彼らは隠れ潜んでいる。


隠れ場所から兄弟と護衛兵までの距離が少しありすぎることがイサセリヒコ(五十狭芹彦)には気がかりでならない。

イリネの身の安全第一と考えるイサセリヒコ(五十狭芹彦)を不安にさせるには十分すぎる距離が存在していた。


「もっと良い場所はなかったか」と考えてみても、兄弟の思い出の場所がここではどうしようもない。

「下見も出来ずに策を弄するとは、こういうことか」と歯噛みする。

果たして、悪い予感が現実のものとならなければ良いのだがと願うしかない。

そんなイサセリヒコ(五十狭芹彦)の心配をよそに、自信ありげな様子で悠然としているササモリヒコ(楽々森彦)に腹が立ってしょうがない。

本来ならば最も心配するべき立場の人間じゃないか、と。


――と、二人に動きがあった。


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「どうだ、あの時みたいに水浴びでもしないか」というが早いかイリネは服を脱ぎ、さっさと川の中に入っていく。


フリネがチラリと振り返るとオーラは黙ったまま頷いた。

それを確認してフリネも服を脱ぎ「イリネ、おまえはまたおれに負けたいのか」と喚声を上げながら川に入った。


そんな二人の姿を見送ると、オーラはゆっくりとイリネが脱いだ服の方へ近づきしゃがみ込む。

懐から何かを取り出す仕草をしてから再び元の場所へ戻っていく。


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「おい、あれは何をしていた」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)はすぐそばに控えるササモリヒコ(楽々森彦)に問いかける。


「分かりませぬ。ですが、特に問題はないかと・・・・」とササモリヒコ(楽々森彦)が口ごもった。


「問題ないだと!そんなことがどうして分かる」と怒りの色を見せながらヨモロヅミコト(世毛呂須命)のほうを見るが、その彼は毅然とした態度で黙って首を振るのみ。


「天命に委ねるのみ」


「いや、だが・・・・・」

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