第8章 ローマ帝国のミトラ教 その2 新天地

それから幾年月、シルクロードを越える長い苦難の末に、ミトラ教の使節団が辿り着いた「世界の東の果て」と考えられた場所が中華帝国「晋」であった。


この晋帝国は、巷間で三国志と呼ばれる乱世の後に統一を果たした王朝である。

三国時代に最大勢力を誇った魏帝国から司馬懿の子孫が帝位を禅譲されて成立したものである。


だが、統一から僅かに二十年、早くも晋帝国は崩壊が始まっていた。


使節団にとって晋帝国は安住の地から程遠かった。


東の最果ての帝国であっても、辺境を異民族が掠め、遊牧民の侵略が繰り返されている。

そんな事情は彼らからすればローマと変わりなく写ったことであろう。


晋帝国の辺境ではそうした危険が頻発していると言うのに、首都・洛陽では賈皇后とその外戚・賈氏一族が権勢を欲しいままにし、まともな治政が行われていない状態である。

法と秩序は皇后一族の思いのままに操られ、その権力と財力の前では法はあってなきがごとし。

賄賂や買収が堂々とまかり通るし、貧民は打ち捨てられる一方で大金持ちは瀟洒を競い合っている。

都の周囲では風紀・治安ともにすっかり弛緩しきっている。


「ローマ帝国と大して変わらないこの地が、布教すべき場所なのだろうか」というのが副神官ミリウスの抱いた印象であった。


皇太后一族の惨殺とそれに続く王族殺害から十年というのが、当時の洛陽の状況であった。

政変から十年しか経たないというのに、同じ都では、再び皇太子の殺害とそれに続く賈皇后一族の誅殺という変事が起こっていた。

おびただしい量の血が流れ、数多の命が犠牲となっていた。


王族達は権力を握るまで、同族達と殺し合いをしていくことになるのであろうか。


「果たして、ローマ帝国の使節として、このような情勢の首都に留まることに意義があるのであろうか」と副神官ミリウスは迷う。


民衆の生活は不安定であり、ある時は逃げ惑い、別の時には暴徒となる。家財も人命も、その価値は信じられないほど軽い存在でしかない。

そのような環境では、使節団がもたらそうという教えも、一顧だにされることはない。


目的である布教の許しを公的に求めた場合に、もしも権力者側が後援を申し出ても、一旦政変が起こりでもしたらどうなるか。

新たな権力者によって旧勢力と一緒に粛正されてしまうであろう。

このような場所で布教をすることが神の御意志に叶うことであろうか。


故国へ帰るかとまでミリウスは検討したが、晋帝国の西域では更に多くの人々が動乱の中に放擲されていることを考えると現実的ではなかった。

何らかの物資や財産を持つ集団は、遊牧民の武装集団や匪賊などの襲撃対象となるし、そうした不安定な世情を倦んで民族ごと移動してしまおうという集団もあった。

そういう集団もまた襲撃される運命になりかねないのだが、それを防ぐための武装兵や、あるいは同じ事をやりかえしてやろうという盗賊などが道中の草原には隠れ潜んでおり、とても無事にローマまで戻れそうにない。


こうした動乱の波は西へ広がるにつれて大きくなり、ゆくゆくは大きなうねりとなってローマ帝国に・・・


考えれば考えるほどに、自分達には帰る場所がないと思い知らされるのだ。


そんな中で彼らに情報がもたらされた。


「船で渤海を渡った楽浪郡ならば治安は保たれているとのことです」


「しかし、そのような夷狄しか住まぬ未開の地で、人は生きていけるものか。まして、ミトラ神の教えが理解されるものかどうか」


「おや、あなた方もすっかり漢人らしい考えに染まりましたね。

天命を受けた皇帝の治める場所以外に天の威光の届く文明は存在しない、等という文言は漢人の戯言です。中原から離れるに従い天子の威光は伝わりがたくなり、人は獣に近くなるなんて信じていないでしょう?

もしもそんなことが本当なら、あなたの故郷は西戎よりも遙かに劣る獣に近いことになる。そんな馬鹿げた話がありますか?

実のところ、遼東半島から韓半島を越えて、更に東にある海には倭国があります。漢人は東夷とでも呼ぶようですが、昔の秦人には蓬莱と呼ぶ者もおり、仙人の住む別世界と考えられていた国です」


「まだ東に国があると?」意外な言葉に副神官は驚いた。


ローマ東方首都ニコメディアにいた頃に大神官からは「東の最果て、日の出る国にミトラ神の役目がある」と告げられていた。

その地で布教をするように命じられたのだ。


もっとも中華思想からすれば、それは説明する以前のことだった。

世界の中心にあるから中華なのだ。

東西南北それぞれに東夷・西戎・南蛮・北狄がいるのは自明である。


副神官は使節の教徒を集め、協議を行った。


「更に東に国があるのなら、我らの目的地はその地であるべきだ」と直ちに結論づけられた。

混乱の極みにある晋帝国から早く立ち去りたかったのも結論がすぐに出た原因であろう。


一旦決定がなされたならば、彼らの行動は早かった。


渤海を渡り、遼東半島に着くや、足を落ち着けることなく半島を南に下ろうとした。

だが、その半島内も北部では他の遊牧民や蛮族の襲撃が繰り返されていた。


護衛役のローマ兵も次々に打ち倒されたが、生き残った者は遂に倭国を目指す船を調達し、海に乗り出すことに成功する。


彼らは倭国の中で最も文化が進んでいると伝え聞く筑紫の国を目指したはずだった。

ところが、ミトラの神が更なる受難を望んだものか、あるいは八百万の神々が行く手を阻もうとしたものか、彼らの船は海流に流され、海岸線を目前に転覆してしまった。

なんとか生きて辿り着いた先は別の国の海岸であった。


ミリウス副神官は見知らぬ土地に降り立つとミトラの神に感謝の念を伝える。


山々を覆いつくして広がる深い森からは神々しい息吹が感じられ、自ずと畏敬の念を抱かずにいられない。

なんという美しさを湛えているのであろうか。

確かに晋帝国にあったような石造りの建物はなかったが、地面に穴を掘ったような住まいの他に木造の建築物が幾つも建ち並び、整地が施された土地には田畑が広がっている。


自然は厳しいようであったが、人々は正直であり、当たり前のように困った時には助け合う。

盗みや暴力と日常的には無縁な場所・・・・・・・・・


海岸に何とか打ち上げられた彼らに手を差し伸べたのは地元の民だった。


ミリウスが辿り着いた国の名を聞くと「出雲」という答えが返ってきた。


時に西暦で言う三〇一年のことであった。


「確かにこの地だ。こここそが大神官のお告げになった地であろう」と、ミリウスは使節団の教徒達に告げる。


既に使節団には五人しか残っていなかった。

副神官ミリウスの他には、技師が二人とローマ兵が二人のみ。

副神官の手助けをすべき教団の助手たちは皆行方知れずか亡くなってしまっていたのだ。


だが、副神官ミリウスは楽観的であった。


「ローマ人がいなくなっても、この地で信者を作れば、それが家族となり、力を合わせることが出来るはず。何も心配することはない」


技師達は集落の周囲に広がる未開の土地に呆然とし、後悔のため息をつくのみ。

生き残りのローマ兵のほうは信仰心に厚い兄弟である。

二人は未知の土地を目の前にして微塵も絶望などしていなかった。

兄にも弟にも何ものをも恐れない勇気が備わっていた。


彼らの名前はオルランドとアントニオ。

互いに「オーラ」「トーニオ」と呼び合っていた。


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まさしくこの年、但馬(現代の兵庫県北部)に程近い播磨の山奥で太郎は生まれたのだ。

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