第8章 ローマ帝国のミトラ教 その1 東方への使節派遣
事件がいつ始まったのか、と問われれば、イサセリヒコ(五十狭芹彦)が認識するより遙か昔と答えるしかないだろう。
それはヨモロヅミコト(世毛呂須命)が気づくよりも遙か昔でもあった。
どこで始まったのか、と問われれば、日本列島よりも遙か西、中華帝国でこそ大秦国などと認識していたかも知れない、かのローマ帝国というのが答えになる。
現代のイタリア半島にかつて勃興したローマ帝国はその領土を広げ、二世紀初めにはその版図をユーラシア大陸の西の端から地中海周辺部と旧オリエント世界にまで拡大していた。
だが、三世紀になると早くも帝国は危機を迎えた。後世の歴史家が言う「三世紀の危機」到来である。
危機の原因は、表面的には食糧不足からゲルマン民族が南下してきたことと、ササン朝ペルシア帝国の侵入とすることができるであろう。
本質的には二世紀が比較的温暖で高緯度地方まで人口が増えたのに対し、三世紀は逆に寒冷化が進み、増えた人口のせいで飢饉に拍車が掛かってしまったせいと捉えられるだろう。
こうした気候変動の影響はローマ帝国の版図にとどまらない。
同じ時期に中華の「漢」帝国も「黄巾の乱」に始まる三国志の混乱期へ歴史が大きく動き出している。
表面上は宦官と腐敗政治が原因とされているが、地球規模の気候変動にこそ真の原因が潜んでいそうである。
ローマ帝国はいわゆる軍人皇帝時代を経て、ディオクレティアヌス皇帝によって一旦はその「三世紀の危機」を乗り越えたとされている。
といっても、それはテトラルキアと呼ばれる四分割統治のような奇異な体制でのものだった。
その後はコンスタンティヌス大帝により再統一を果たすのだが、既にしてかつてのローマ帝国とは変容を遂げた、かろうじて統一性を維持したものに過ぎなかったようである。
分割統治のような無理矢理感の強い体制にした最大の理由は帝国防衛に対する便宜であった。
防衛の前線に近い場所に司令所があった方が即応性もあるし、方策の柔軟性も発揮しやすい、ということである。
帝国防衛のためにローマ帝国がローマ帝国である源とでも言うべき市民階級制度も変わらざるを得なくなる。
市民兵制度では間に合わず、傭兵が常態化したり、ローマ市民以外の異民族も徴兵に狩り出されたりするようになったのである。
これによって異民族――ローマからすれば蛮族――の地位が向上し、相対的に市民階級の地位は低下する。
まさしくローマ帝国の価値観や社会制度を覆す大きな変化であった。
ローマ帝国を防衛するために、守るべきローマ帝国そのものはすっかり変わってしまうことになったのだ。
ローマ市民の地位の相対的低下のみならず市民の間での経済格差も拡大していった。
価値観の変化はローマ帝国をグローバル化させ、新しく世界帝国化させることにもなった。
世界帝国となった大ローマ帝国は、その内在する多民族・多文化・多言語を寛容に受け容れる度量を備えざるを得ない。
周辺国や支配国・属国から流入した多種多様な宗教も容認されていく。
それと同時に社会の変容や政治体制の流動性は、市民階級に属する個人の行く末に不安を想起させるようになる。
国境防衛の戦争にしても、伝統的ローマの神々にすがっているだけでは済まなくなり、他の信仰に拠り所を求める者も増えてくる。
代表的なものにはキリスト教やユダヤ教、それにマニ教・ミトラ教・ゾロアスター教などがあった。
現代の政教分離が当たり前の社会とは異なり、信仰に基づく世界観を持つ人間の方が多いため、宗教の異なる信者同士での争いも起こりやすい。
こうした信徒達の争いは為政者にとって悩みの種である。
帝国の宗教を統一することで、こうした争いをなくし、更に皇帝を宗教の法王とすることで権威を高めることまでが画策されようとしていたのであるが、それはまだ先のことである。
さて、そうした宗教の一つ、ミトラ教はこの時期興隆を極めようとしていた(事実、四世紀初頭に最盛期を迎え、直ぐその後にコンスタンティヌス帝がキリスト教を国教としたことで衰退し、やがては消滅してしまうのである)。
そんな中にあって、ミトラ教の最高位・大神官パテルパテラノは、神ミトラの予言におののいていた。
世界の終わりが迫っており、ミトラ教の教えが消える時に、世界は消滅するという・・・・
大神官とその側近の神官達は何日も話し合いの末に打開策を探り、ミトラ神の新たなお告げから、一つの方針を決定した。
一人の若く情熱的な地区神官ミリウスが彼らによって選び出され、ローマ帝国の東方首都ニコメディア(イスタンブールのアジア側に程近い内陸部の都市、現在のイズミット)に呼び出される。
到着早々に、ミリウスは地区神官から大神官の側近筆頭である副神官に取り立てられた。
「どこであろうとも、私のいないところでは、あなたが大神官なのです」との言葉に、情熱的な新任の副神官は有頂天になった。
次に「あなたが選ばれたのは神のお告げによるものなのですが、苦難の使命を果たす覚悟はありますか」と優しく問われた。
「私の申し出を断ることはあなたの自由です。それによって私が認めた地位が失われたり、今後の活動に不利益がもたらされたりしないと保証しますが、どうなさいますか」最高神官の代理を任じられたばかりの若者は躊躇なく「もちろん、いかなる困難も厭いません。私にその覚悟がないとお疑いなさいませぬように」と力強く肯定の返事をする。
信仰への情熱と興奮にミリウスは陶然としていたのだ。
「遙か東、日の昇る地にある王国へ向かって欲しいのです。
そこではローマ帝国とは全く異なった教えがはびこっていることでしょう。それでも、その地で邪教を排し、ミトラ神の教えを広めることが必要なのです。神の教えが絶たれた時に世界は消滅すると神は告げられました。
いまや世界は混乱の極み。大ローマ帝国といえども存在し続けられる訳ではありません。古の多くの王国が滅んだように、この帝国にも崩壊が迫っています。
世界は滅亡の危機に瀕しているのです。終焉の時は迫りつつあります」
若い副神官ミリウスは予言におののく。
「ローマ帝国を襲った嵐は東から来ましたが、既に嵐の過ぎ去った地が東の果てにあると神は告げられました。その地で教えを広め、滅亡から世界を救わなくてはなりません。
その役を担うべき人物を神は指名されました。それがあなたなのです」
役目の困難を想像すると震えが身体の奥から恐れと共に伝わって来るのを感じたが、副神官は身に余る名誉に対する喜悦でそれを抑え込む。
「自分はこのために生まれてきたのだ」とミリウス自身が自分を信じさせようとする。
「神の奇跡の証明を求められる場面もあろう」と大神官パテルパテラノが取り出したのは小さな素焼きの瓶であった。
「中には純粋な秘香アルキフが入っている。多くの信者に神の奇跡を体感させるであろうが、強力なだけに注意が必要だ。急性の中毒では死ぬ場合もある故に使用に際しては細心の注意を払わねばならない。害多くして理なしでは、邪教と変わらない」と大神官は注意深く素焼きの瓶を厚い布で何重にも包み込んだ。
「封印されているから、効力は長い年月に耐えるであろう」
大神官の説明から察するに、アルキフは現代で言う麻薬に近いものであっただろうか。
次に取り出されたのは青銅色の鈍く光る玉であった。
片方の手のひらにすっぽりと包み込むように持つことが出来る大きさだ。
「秘薬ハオマが中に入っている。エジプトのイムホテプより伝わりし秘術と共に使えば、死を遠ざける妙薬となる」と別の粘土板を指し示した。
「秘中の秘である」と言った瞬間に大神官の瞳が恐ろしげに煌めいた。
「ここで覚えよ。別々に保管すべきものである。そなたは粘土板を所持せずに出かけなくてはならない。
このこと、他言無用である」
副神官は何度も口の中で復唱した。
「それを使うのは最後の最後。みだりに使ったり、誤って使用したりするくらいならば、失われてしまった方が良い。使い方を誤れば、魔に取り込まれることであろう。そうなれば災いは計り知れない。
奪われるくらいなら破壊するように。そして、事が成った暁には完全に処分するように。
この世に在ってはならないものなのだ」
大神官はそのことを幾度も副神官に誓わせた。
そうしてようやく、副神官ミリウスは、幾人もの信者からなる使節団を率いて東の果ての地の帝国へ旅立つこととなったのである。
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