第6章 丹波の山奥 その3 太郎とクガ王
クガ王が目を覚ますと、辺りには夕闇が迫っていた。
よく眠ったせいか、気分が良かった。それに腹も空いていた。
人家も見当たらず、辺りを見回しても食べられそうな木の実なども見当たらない。
これでは空きっ腹のまま朝まで耐えなくてはならないのか、と覚悟を決めようとした時、悲鳴が聞こえた。
クガ王はピンと来た。罠に掛かったウサギだ!
静かに辺りを探し回ると、程なくして岩の下で潰され掛かったウサギを見つけた。
岩を支えた枝が、ウサギが通ることによって外れて、ウサギの上に岩が落ちてくるという単純にして効果的な罠である。
クガ王は息絶え絶えのウサギを引っ張り出すと、生きながらにして前後の脚を引きちぎり、むしゃぶりつく。
新鮮な血の味のおかげで元気が湧きたってくるようだった。
火を起こしたいところだったが、暗くなろうという中で火を起こすのは遠くから見つかる危険を増すことになる。
安全を見極めるまでは慎重に振る舞おうと彼は心に決めた。
食べ残しのウサギを懐に入れると近くの茂みに身を横たえ、もう一眠りしようかと考える。
今度は腹も満ち足りた心地よい眠りとなるであろう・・・・・・・
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日もまだ登り切らないうちから太郎が山々を駆け巡っている。
彼の生活では当たり前のことであった。
昨日仕掛けた罠の猟果を確認しなければならない。
獲物は早いうちに回収しておかないと、別の獣に横取りされる恐れがあるのだ。
弓矢で鳥を射るとか武具で獣を狩るという機会に恵まれることは稀だ。
それだけではなく、毛皮を取引の材料にすることを考慮に入れるのならば、罠猟の方が毛皮の損傷を少なくできる。
綺麗な毛皮であれば多くの米や衣類と交換が可能だ。
物々交換の取り引きで占める割合を見れば、圧倒的に罠猟の成果への依存度が高くなるのは致し方のないことだ。
それに、罠は狙いの獣の種に伴う習性だけでなく、個体ごとの癖なども考慮しなければならない。
ある個体が普段から何に警戒感を抱き、どのように反応するのかを見抜ければ、罠の種類や設置の仕方が決まってくる。
特に狙いなく、漫然と罠を掛けて仕留められる幸運もなくはないが、そんな罠は見抜かれて避けられてしまい、場合によっては人間の仕掛けを出し抜き、餌だけをせしめる賢い個体もいるのだ。
だが、そんなふうに罠が出し抜かれたとしても、どんな反応を示したかという痕跡が残っていれば、こちらも新たな作戦を立てられる。
こうした探り合いや駆け引きこそが罠の醍醐味なのだ。
罠猟は静かなる戦いなのである。
だから、罠に掛かった痕跡がありながら、獲物がいないというのは、ひどく腹立たしいものなのである。
逃げられたのか、それとも横取りされたのか。
今回は罠が壊されており、明らかに横取りされたことが窺える。
何ものによって獲物が奪われたのかと問われれば、答えは直ぐそばで茂みの中に寝込んでいる男であろう。
太郎は眠っている男を観察した。
着ている服は上物であるだけではなく、裾も袖も長く垂れ下がり、森の中で活動するには不向きな格好である。
顔つきはと言うと、顎髭は長いが見事に整えられており、その上で引き結ばれた唇の格好からは普段から他人を見下す高慢さがにじみ出ている。
額から後頭部までしっかりとはげ上がった頭は、普段ならそばに置いてある帽子の下に隠され、自尊心を高めているのであろうか。
虚勢と見栄を精一杯膨らませた身なりからすると、かなりの身分の者と見受けられる。
それがこんな森の中で野宿し、しかも罠に掛かった獲物を盗み取るとは・・・・・・
何の準備もする暇なく、大慌てで森の中に入り込んだのだろう。
となれば、それ程遠くはない所で戦の睨み合いが続いていたという話は伝わっていたから、負けた側に属していて逃げ出した者ということか、と太郎は推測する。
服装や顔つきからすると、一軍の将というよりかは、むしろ支配者階級の人間ではないかと見当を付ける。
太郎は男のそばにしゃがみ込み「おい」とその頭を小突いた。
「何だ、無礼であろう」と男は目を覚まし、その眠い目をこすりながら頭を持ち上げる。
「おい、おまえ、おれの獲物を横取りしただろう」
「何の話だ」と男は半身を起こしながら聞き返してきた。
「そこの石の下に獲物が掛かっていたはずだ。しらばっくれるんじゃねぇぞ!」
男は辺りを見回しながら、やや考えて「ははぁ」と状況を飲み込んだようであった。
ただ、太郎の期待とは違って、じろりと睨み返してくると、子供が一人っきりかと明らかに見下した顔つきになり、高慢な口元に半笑いを浮かべてくる。
「あぁ、あのウサギか。岩の下で息絶えていたから、ありがたく頂戴したぞ」
ウサギと聞いて太郎は自分の空腹を思い出した。
皮を剥いであぶれば、立派なご馳走になるし、毛皮を集めれば幾らでも使い道がある。
「そいつは盗みだぞ。返すか、代わりの品をよこすか、どっちかにしろ」
「確かにウサギは頂戴したが、既に腹の中、返せるはずもない。
それに元々がお前の所有物という訳でもないだろう。森で生まれ育った縛られることのない自由なるウサギだ。誰かの持ち物だったことのない生き物だ。そうであるならば、代わりに小童に渡す必要などあるまい」
「なにおぅ!子供だと思って舐めたら痛い目に遭うぜ」
太郎が啖呵を斬ってみせても男は少しも悪びれずに却って笑い出す始末。
太郎を見下した目で見ると、からかうように言ってきた。
「そんなに文句があるなら、どうだ、力比べで決めようではないか。おまえが勝ったら、何か代わりになるものをやらんでもないぞ」
「そんな勝負をする謂われはねぇぞ!おれの仕事に対する正当な代価を渡せと言っているだけだからな!」
「おまえはそう言うが、おまえだって野山に対して、その代価とやらを渡してはいないだろう。自分だけがそういうものを求めるというのは、虫が良すぎやしないかい?」
「おれは真っ当に動物と勝負しているんだ!山に仕掛ける罠だって、アイツ等との知恵比べだ。そうした苦労の末に仕留めた獲物だぜ。そいつを横取りするってのは、相当に性悪な盗人だぜ!」
盗人呼ばわりされて男は頭にきたようだった。
「こいつ、あんまりしつこいなら、痛い目に遭わせてくれようか」
と言うなり殴りかかってくる。
太郎はその拳骨をひょいひょいとかわしてみせ、次いで男の鼻面に自分の拳を叩き込む。
男はもんどり打って引っ繰り返った。
男は鼻面を押さえて起き上がると、恨みがましい目を向けてきた。
太郎はそんな男に向かって吠えつけるように叫んでみせる。
「なんだ、口ほどにもない。それでおれと力比べをする気だったか」
屈辱と怒りで男の顔面がみるみる赤くなるのが見えた。
「このクガ王に手を上げておいて只で済むと思うなよ」と男は吐き出すように叫ぶと、顔に当てた手の下で何やらブツブツと唱えだす。
「何をぶつくさ言っている!」と太郎が叫んだ途端に男はポンととんぼを切った。
何事?と思った時には、太郎の目の前に巨大な熊が二本の脚で立ち上がっていた。
見上げるような大熊は、太郎が考える暇もない内に、その巨体で突進してくる。
大熊の突進をかわそうとするや、素早くその前足が太郎に振り下ろされてきた。
百貫に迫ろうかという化け物じみた大きさの熊から繰り出される一撃。
いかなる人間でもその下にいては生きて二度と日の目を見ることはないはずだった。
ところが――
「あやつ、熊の化け物だったか!」と、太郎は爪の直撃を避けると、その前足を肩で担ぐような位置取りで諸手を使って受け止めようとした。
だが、化け物じみた大きさの熊の一撃ではなにものであっても耐えられるはずがない。
人間如きが支えられるはずのない、凄まじいまでの打撃が振り下ろされてきた。
そこを「えいっ」とばかりに太郎が二本の足で踏ん張ると、か細くさえ見える太郎の身体だというのに、その衝撃にいささかも屈しない。
これには熊に化けたクガ王も驚いた。
こんな子どもが、これほどまでの怪力の持ち主であるとは、いったいどうやって倒す?――そんな悠長に考えている暇はない。
さっさと片付けなければ大和の兵に見つかるかもしれない――
大熊は勝負を急いだのか、反対側の前足を振り下ろしてきた。
その前足が向かってくるよりも早く、太郎が捉まえた前足を捻じり上げるようにしながら身体を半回転させてみせると、その怪力には堪らず大熊もどうっとひっくり返る。
熊は直ぐに四つ足の姿勢になると、子細構わずそのまま太郎に向かって猛進してきた。
瞬間、その昔にイサセリヒコ(五十狭芹彦)にいなされて投げ飛ばされた記憶が蘇る。
太郎は低い姿勢から突進してくる熊の顎下に左腕を差し入れて、ちょうど相撲で言う喉輪の要領で相手の頭を持ち上げながら、その突進を受け止めた。
そこから熊が頭を下げようとしてきたところで身体を左回りに回転させながら右肩に背負い込むように熊の首を掴んだ。
そこから熊の頭を下げようとする力も利用して自らしゃがみ込みつつ、鼻面を引き寄せながら地面に叩きつけるように引っ張り落とす。
たまらず大熊は前につんのめって来た。
まさにその瞬間に背中の力で跳ね上げるようにしてみせれば、遂に熊の後ろ足は宙に浮き上がり、そのまま一回転して巨体を背中から地面に叩きつけてみせた。
いや、熊の巨体が宙を舞うのと一緒に、投げたはずの太郎自身までが空中に跳ね飛ばされる。
勢いよくゴロゴロと転がったのを起き上がってみれば、大熊の姿はどこにもなかった。
思わず「ちっ、あれだけの大物の毛皮なら、良い稼ぎになったのに。それに肉も干し肉にしたら、当分食うに困らなかったろうに」という無念さが漏れ出る。
人にも姿を変えるような熊の化け物の肉が食えるだろうか?などという疑問も思い浮かぶが、そんなことを考えているそばからガサガサという物音がしてくる。
奴か、と身構える間もなく少し離れた茂みから鳥が飛び立った。
「ここでまた獲物を逃しては」と太郎は慌てて弓を取り、狙う暇もなく矢を放つ。
それでも放たれた矢はその鳥に命中した。
太郎の見事な腕前の証である。
ところが、飛ぶ勢いを失った鳥は矢に貫かれたまま谷に墜落していく。
「しまった」と谷の際まで走り寄った太郎はもう一度嘆きの声を上げた。
深い谷に落ちていった獲物の行方は皆目見当も付かない。
谷底を見下ろしながら太郎は我が身の不運を嘆くより他ない。
今日は罠に掛かったウサギは横取りされる、代わりかと思った熊の化け物には姿をくらまされる、挽回の機会かと思った鳥も谷に落っことしてしまう・・・・・しかも最後は大事な鏃までなくすというおまけまで付いてきた・・・・・・自分の迂闊さにうなだれながら太郎は帰途に就く。
そんな太郎の嘆きとは裏腹に、谷の底では鏃がクガ王の護符を貫き、心臓にまで届いていた。
それがクガ王の最期であった。
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