第5章 丹波道の戦い その5 天叢雲剣

「国主、あれを!」と言われて出雲の国主ヨモロヅミコト(世毛呂須命)は我が目を疑った。


三上山山頂からたなびくように広がった靄は、やがては霧となり、上空遙かな高さまで達しようとしながら分厚く磯砂山を包み込む。

今や、その場所に山があることは微かにも窺いようがない程である。

それでも大江山山頂からの煙は衰えることなくますます沸き立ち、数時の後には峰山までも覆い尽くしてしまう勢いだった。


ヨモロヅミコト(世毛呂須命)は直ぐに決意した。

霧の中を進めば気づかれることなく宮津に近づけるであろう。


「出陣の準備をせよ」


タタスヒコは驚いた。

「ヨモロヅミコト(世毛呂須命)様、それは計画とは違います」と思わず問うた。


「この霧はまさに天佑。臨機応変、これが戦ですぞ」と国主は答えて準備を進めさせた。


ヨモロヅミコト(世毛呂須命)の見立て通りに靄はますます勢いを増して、一刻も経たずに峰山を包みだした。


「お互いを見失わないように、密集隊形を取れ」とヨモロヅミコト(世毛呂須命)は命令し、出雲の兵達約二千は部隊ごとに密集隊形を取った。


靄はますます濃くなり、峰山周辺も霧に包まれ出した。

霧の中では声をかけながらでなければ動くこともままならないほどだ。


ササモリヒコ(楽々森彦)がタタスヒコのそばに来て言った。

「妙でございますな。三上山が霧を産じ、それが広がることも朝方なら珍しくありますまい。しかし、日の高い中、靄が広がるほどに行く先で濃くなって霧となるとは、奇っ怪。普通とは逆でございましょう。

或いはクガ王の怪しげな術のなせる技かも知れません。

タタスヒコ様、ご用心下さい」


「ササモリヒコ(楽々森彦)、おまえの言う通りだとするとヨモロヅミコト(世毛呂須命)様が出陣の準備をしているが、あれは大丈夫なのか」


ササモリヒコ(楽々森彦)はちょっと考えてから答えた。


「兵達が術に惑わされなければ、この霧は却って我が方に優位に働くかも知れませんね。

ただ、術がどんなものなのかによっては危険も伴いましょう。まあ、それが戦でございますから。

しかし、この霧の出方から推察するに、クガ王は三上山において方術を施しているようでございますから、ヨモロヅミコト(世毛呂須命)とは別に我らに出来ることもございます」


「どういうことだ、申して見よ」


「私の裁量で動かせる者は十人ほどございますから、この者達と共に三上山に潜むクガ王を襲撃するのです」


「邪悪な法力を持つ道士を襲うのは危険ではないか」


「それを承知の上での今回の戦でございますから。

タタスヒコ様、どうかヨモロヅミコト(世毛呂須命)様に申し出て、三上山への別行動の許可を了承して来てはいただけませんか」


イサセリヒコ(五十狭芹彦)から頼りとするように言われた当人からの頼み事であるから、タタスヒコはすぐさまヨモロヅミコト(世毛呂須命)の前に行き、計画を話した。


「それは妙案。

是非ともお願いしたいところじゃな。

わしの配下からも十人の兵をお貸ししよう」


ヨモロヅミコト(世毛呂須命)が快諾したので、ササモリヒコ(楽々森彦)は早速、自分の部下と出雲兵、それにタタスヒコを連れ立って大江山と思しき方向に霧の中を進み出した。


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霧はますます濃くなり、ちょっと先も見通しが効かなくなってきた。

昼の日中だというのに驚くほどの薄暗さでもある。

このまま進軍を命じたら兵は散らばり、遭難する者まで出そうな様子であった。


「このまま待機」とヨモロヅミコト(世毛呂須命)は命じて、辺りを窺った。

偵察を出したら、その者が戻って来れないだろうから、何もせずに立っているほかはない。


霧が身体に纏わり付くほど濃くなってくると、辺りに怪しげな紫の光が瞬き始めた。


これは吉兆か、凶兆か?と思う間もなく、地の底から不気味な地鳴りが聞こえてきた。

天変地異の前触れかと構える暇もなく、滝のような水瀑音が轟き渡り、四方の地表がひび割れた。

その地割れを避けるように兵達が逃げ惑う中、その割れ目から大量の水が吹き上がってきた。

水は勢いよく溢れ出し、みるみる水位が上がってくる。


「落ち着け、これはクガ王の妖術なり」と叫びながらもヨモロヅミコト(世毛呂須命)は迫り来る水から避けようと周囲の高みへと駆け出していた。

既に水は胸元まで迫っているのだ。


そこへ大きな物が水をかき分けてくる音が不気味に響き渡る。

途端に水しぶきが上がり見上げるような竜が首を持ち上げてそびえ立った。

首は一つではなく、八つ。

目は真っ赤に爛々と輝き、開けた口からは青白い息が吐き出されてくる。


その首の内の一つが頭を下ろしてきて、地の底から響くような声で宣した。


「クガ王の命により、出雲の者どもを食い殺しに来た。皆殺しにせよとの命令、ありがたく承ったぞ」


これはヤマタノオロチ(八岐大蛇)の復讐か、と出雲の兵達は心の底から震え上がった。


しかし、このヤマタノオロチ(八岐大蛇)の言葉に唯一人、ヨモロヅミコト(世毛呂須命)だけは我に返った。


ヤマタノオロチ(八岐大蛇)を倒したスサノオノミコト(素戔嗚尊)の血を引く自分ではないか。

先祖の復讐に来た相手に、逃げ惑うようでは死んでからご先祖様に合わせる顔がない。

ましてや、今の自分はスサノオノミコト(素戔嗚尊)から伝わった天叢雲剣と共に在るのではないのか。


冷静になると同時に彼は腹が据わった。


「ヤマタノオロチ(八岐大蛇)よ、ようく聞け!

我こそはスサノオノミコト(素戔嗚尊)が子孫にして大国主神が直系の一族・出雲国主ヨモロヅミコト(世毛呂須命)なり。

我が祖先への怨讐が消えぬのであれば、先ずは我を相手せよ!

このヨモロヅミコト(世毛呂須命)、どこにも逃げたりはせぬ!」


そう叫ぶと彼はスラリと鞘を払い、天叢雲剣の剣を高々と掲げた。


抜かれると同時に剣は青白く光を放ち、一陣の風が吹いた。


と見る見るうちにヤマタノオロチ(八岐大蛇)はその風にかき消されるように姿が崩れ、跡形もなく消え去ってしまった。

と、気がつくと溢れんばかりに湧き上がってきていた水もなくなっていた。


天叢雲剣が呼び起こした風のせいなのか、霧も薄くなって来ていた。


「そうだ。あのような一寸先も見えない濃い霧の中で、なぜヤマタノオロチ(八岐大蛇)があんなにハッキリと見えたのか。なぜ、湧き上がる水がハッキリと分かったのか。

全てはクガ王の妖術のなせる技か・・・・・・」


改めてヨモロヅミコト(世毛呂須命)は天叢雲剣を見た。

剣は今なお青白く輝いていた。


と、急に彼の手の中で剣がグイッと引かれるようにある方向を指し示し、その方向に光の筋が伸び出した。


それを見ると、ヨモロヅミコト(世毛呂須命)は大音声で叫んだ。


「これぞ、神剣・天叢雲剣なり!我らは神助と共にあるぞ!

この光は神のお導きじゃ!宮津の方向を指し示している。光の指す方向に向かって進め!

勝利は約束された!」


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その頃、三上山の山頂では祭壇から転げ落ちたクガ王の介抱に追われていた。


見習い道士達は、直ぐそばにいたというのに、霧の中の祭壇が見えなくなり、それでも身動きできずに祭壇の下に待機していたのだ。

霧の中からはクガ王の呪文を唱える声と叩き鉦の音だけが聞こえてきていた。


それが、突然として雷のような閃光が走ったと思った次には、祭壇からクガ王がうめき声を上げて転がり落ちてきたのだ。

彼らには天叢雲剣が威力を発揮した様など分かりようもなかったから、まったく唐突な出来事だった。


見習い道士達が助け起こしても、クガ王は意識がない。


「王よ、王よ!」と彼らは必死になって呼びかけたり、汗で濡れた顔を布で拭き取ったり、汲んであった水で額を冷やすなどする。


相当な時間が経っただろうか、クガ王はようやく目を開けた。

最初は事態が飲み込めなかったようだが、弟子達が賢明に説明をしていると急に記憶が蘇ったように、立ち上がった。

しかし、すぐにクラクラと膝が折れてしゃがみ込んだ。


彼は懐に手を入れ、そこに護符がしっかりとあるのを確認して、少しだけ安堵した。

これがある限り我が身は護られていることであろう、と。


「我が術、破れたのか」と言うと、祭壇によろめきながら登った。


香の煙はまだ上っていたが、三上山の上空は霧が晴れだしており、磯砂山から峰山にかけての霧も薄くなってきていた。


「これでは・・・術も掛けられない」とクガ王は無念そうに唇を噛んだ。


だが、まさにその時、クガ王は気づいた。

四方に人の気配がする!


次の瞬間に矢が飛んできた。


「はぁっ!」とクガ王が叫ぶと、彼を目がけて飛んできた矢は砕け散ったが、他の矢は次々と見習い道士達に突き刺さっていく。

ばたばたと部下が倒れていくのを見ると、クガ王は再び呪文を唱えるや、かけ声と共に宙返りをした。

と、一羽の鷹に姿を変え、一直線に森の中へと飛んで行ってしまった。


ササモリヒコ(楽々森彦)が慌てて茂みから飛び出して、祭壇周囲を探し回ったが、クガ王の姿はどこにもない。


「どういうことだ」と続いて姿を現したタタスヒコが問うたが、ササモリヒコ(楽々森彦)は「ぬかりました。目くらましではなく、あやつは本当に変化の術が使えたようでございます」と答えた。


「どういうことだ」と再びタタスヒコは問うた。


「先ほど森の中に飛び去った鷹こそが、姿を変えたクガ王だったかと」


その言葉にタタスヒコは目を見開いて森の方を見た。


「逃げられたのか」


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宮津では霧の中から突如として現れた出雲兵の奇襲に、丹波の兵達は算を乱して逃げ出した。

逃げ戻ろうかと見ると、遙かに見える青葉山からは煙が上がっている。


彼らは無理矢理徴発されてきた兵達ばかりであったから「これでクガ王も終わりだ」と思えば、危険を冒して戦う必要もない。

蜘蛛の子を散らすようにばらばらに逃げ始めた。


その辺の事情はヨモロヅミコト(世毛呂須命)にも十分に察しられる所であったから、彼は自分の兵達に無理には追わせなかった。


戦に勝った後の統治の方が難しいことを、彼はよく知っていたのだ。


おかげで戦闘の方はあっけなく出雲の勝利に終わった。


敵兵が完全に撤退し、組織的な退却も抵抗もないことが確認され、次々と各部隊から戦勝報告がなされた。


「それにしても」と彼は手の中の剣を見た。

今は青白い光も消え、普通の剣にしか見えないのだが、彼はハッキリと神剣の秘める力を目の当たりにしたのだ。


その力の偉大さの前では、出雲の国主と言えども、時間も空間も限られた中に存在する一人の人間でしかない。


彼は祖先に対する敬虔な気持ちに打たれていた。

それは彼自身が抱える現在の出雲の問題に対する悩みのせいであったかも知れない・・・・・・


青葉山の西峰から火の手と煙が上がっているのが、彼にも見えていた。


「イリネ、無事に戻れよ」とヨモロヅミコト(世毛呂須命)は跪き、剣を両手に掲げて祈りを上げた。


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イサセリヒコ(五十狭芹彦)は抵抗らしい抵抗もないうちに西峰を占拠していた。

配下の者が東峰の見張り台を襲撃し、これも内部に気づかれないうちに手の内に収めていた。


出雲のイリネが東峰の山塞への東側口に待機しているのも視認できたので、西峰の山塞に火を掛けた。


この騒動で出て来た東側山塞の敵を矢で射すくめ、その隙にイリネが突入し、続いてイサセリヒコ(五十狭芹彦)も突入するということが予め打ち合わせしてあった。

西の山塞がパチパチと音を立てて燃え出すと、東の山塞から三―四人の者が様子を窺いに出て来たが、これに矢が降り注ぎ、彼らは山塞から出た直ぐの所に倒れた。

これで敵が怯むかと思うところに、更に十人ばかりが飛び出して向かってきた。


彼らが少しも恐れる様子を見せずに飛び出してくるのには驚かされたが、それでもイサセリヒコ(五十狭芹彦)達は続けて矢を浴びせかけた。

しかし、深手を負って倒れても猶こちらに向かって来ようとする者ばかりであった。

彼らの気迫は不気味ですらあったが、更に矢を射かけさせた。

動きが止まったのを見計らって、イサセリヒコ(五十狭芹彦)も部下と共に山塞に駆け込んだ。


すると、山塞の中は、まだ剣を振るっての大太刀回りの最中であった。


イリネが一人の道士と斬り合いになっていたが、相手の何ものをも恐れぬ戦い方に圧倒され掛かっていた。

急いでイサセリヒコ(五十狭芹彦)が剣を投げつけると、相手の背中に突き刺さった。


ガクッと膝から崩れ落ちた相手は、ゆっくりとイサセリヒコ(五十狭芹彦)の方を振り返ると立ち上がって向かってこようとした。

しかし、これをイリネが肩口から切り下ろし、ようやく男は倒れた。


気がついてみれば、山塞の中は倒れても倒れても動けなくなるまで向かってくる連中ばかりで、そこら中が血溜まりだらけ――まさしく屍山血河の惨状を呈していた。


狂信者の群れか、或いは呪術でもかかっているのか、とイサセリヒコ(五十狭芹彦)は恐ろしくなった。


だが息も絶え絶えの男が言った一言でようやく分かった。


「バカな!金丹を口にした我らは不死身なはず・・・・・・」

しかし、皮肉にも男はここで事切れた。


西の山塞の捕虜から聞き出したところでは、東の山塞はクガ王の最も信頼厚い見習い道士たちで、金丹を与えられていたと言うのだ。

彼らはクガ王の家族を守る役目も担う忠誠を誓った者達だったのだと。


東の山塞にいる見習い道士と西の山塞にいる見習い道士との間には埋めがたい格差があり、西の山塞の見習い達はひどい扱いを受けていたとも言う。

その下っ端のはずの見習い達も、下働きの者や丹波の住民に対しては、同じように身分の違いを分かるように扱っていたと言うのだ。


今回の戦においても、東の山塞の道士には「不死となる金丹」が授けられていたという。


それを信じたが故の、あの決死の戦いぶりだったのか、とイサセリヒコ(五十狭芹彦)達はようやく納得した。


元は同じ丹波の住民だったと言うのに、格差を作り出すことで住民の間にも対立を作り出す。

支配者の都合によって作り出された憎悪・・・・・


支配者階級内にも対立を作りだす。

しかも戦においては「金丹」という空約束で忠誠を強いながら、自らの絶滅戦までも強要する・・・・・・


恐ろしいやり方ではないか。


イサセリヒコ(五十狭芹彦)はますます力や恐怖による支配が長続きしないことを痛感した。

そう、大和が丹波を治めることで、それまでよりも住民が幸せになれば、誰もが大王家に心服し、その祖先神を尊崇することになるであろう。


結局の所、力だけでは滅びてしまうのだ。

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