第3章 嵐の前ぶれ その3 前哨戦
その前日、明け方に到着した使者からの報せに播磨のイサセリヒコ(五十狭芹彦)は愕然とした。
山城を治めるタケハニヤスヒコ(健波邇安彦)は全く知らない仲ではなかった。
その知人が反乱を首謀して今まさに決起しようとしているというのだ。
大王が予期する反乱の推移とそれに対する反撃計画を知らされ、事態の深刻さを理解した。
自分の到着が遅れれば反抗計画は瓦解する。
動員を掛ければ千から二千の兵を揃えることも可能であろうが、何よりも時間が貴重だった。
いかに万全の準備を整えようとも、大王が討たれてしまえば敗北なのだ。
即座にかき集められる兵数は三~四百名ほど。イサセリヒコ(五十狭芹彦)は「それで構わぬ」と答えた。
船は漁師の小舟をありったけ徴発し、それに集めた兵を分乗させる腹づもりだ。
夜明けと共に出航し、難波の近くで夜営をする。
そこから再び夜明けと共に出航し、難波から生駒山脈の近くまで舟で入り込んでいくのだ。
入れるだけ奥に進んだところで上陸し、磯城瑞籬宮へ向かう。
果たして、後ろの戸を破られる前に到着できるのか、到着できても敵を防ぐことができるのか。
「兵は迅速を尊ぶ」とはいえ、「それでも勝機は半々か」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)の表情は厳しかった。
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翌朝、アタ姫(吾田媛)は夫のタケハニヤスヒコ(健波邇安彦)からの使者に、その言い含めるような伝言を繰り返し確認していた。
「急な作戦変更であるが、それでも我らの勝利は揺るがない。
作戦の肝心要は姫の軍の行動である。これが妨げられなければ勝利は間違いない。敵は少しも我らの計画に気づくことはないであろう。
完全なる勝利のために、姫はタケハニヤスヒコ(健波邇安彦)の命令を護るだけで良い。
いかなる障害があっても万難を排して磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)を目指すこと。姫の軍の最大の目的は、その一点である。
宮を取り囲んだなら、大王の直属兵たる犬飼部や鳥飼部を力攻めにするのではなく、遠巻きに包囲して、勝負を急がないこと。
強引に反撃してくるようなことがあっても、こちらの数にものをいわせて矢を射かけ続ければ、抵抗はたちまち衰えることであろう。抵抗が弱まったなら、火をかけよ。
なによりも大王を生きて逃がさぬことが肝要である」
こうしてアタ姫(吾田媛)が率いる千の兵は、難波から南に下って逢坂へと行軍を始めた。
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イサセリヒコ(五十狭芹彦)一行は夜明けと共に播磨の港を出港し、難波の手前で一泊する。
翌日に再び出航すると、難波を通過したのが翌日の昼になった。
一行は舟を可能な限り南側の沼地奥まで入り込ませ、そこでようやく上陸する。
イサセリヒコ(五十狭芹彦)は戦況がどうなっているか心配でならなかったが、だからといって闇雲に急ぐわけではなかった。
周囲へと斥候を放ち、逢坂までの道程の安全を確認する。
行軍を開始すれば急ぐほかなく、強行軍にならざるを得ない。
間に合いさえすれば、兵が疲労困憊であっても叱咤激励して奮戦させて、なんとしても大王を守る決意でいた。
自分で考えてみても、途方もなく運まかせな作戦に、めまいがしそうになる・・・・・
そんな中、周囲にはなっていた斥候の一組がイサセリヒコ(五十狭芹彦)でも予想もしない報せをもたらす。
逢坂に程近い場所でアタ姫(吾田媛)が率いる軍が行軍しているのを発見したというのだ。
運委せを嘆いていたところへ千載一遇とでもいうような幸運が転がり込んできたのだ。
「これは僥倖であるぞ!」
敵の数はおよそ一千。イサセリヒコ(五十狭芹彦)の軍勢の二倍以上である。
それでも、イサセリヒコ(五十狭芹彦)はみすみす訪れた幸運を逃す気はなかった。
彼はいささかの躊躇もなく攻撃を決意する。
イサセリヒコ(五十狭芹彦)は軍を進めると道筋両脇の茂みに兵を隠し、アタ姫(吾田媛)の行軍を一旦やり過ごさせた。
そこから「攻めかかれ!」の掛け声も猛々しく、自らも矛を手にして駆け出した。
指揮官に遅れるなと誰も彼もが走り、攻め込む。
アタ姫(吾田媛)にとっては不期遭遇戦であり、背後から奇襲をかけたのだ。
一気に隊列を崩して兵が四散してもおかしくないはずであったが、アタ姫(吾田媛)の軍では兵士の一人一人が「なんとしてでもアタ姫(吾田媛)様をお守りする」という気概に燃えており、常識的な戦理が通用しない。
当初は味方が敵を押し込んだかに見えたのが、相手は向きを変えると再び立ち向かってくるではないか。
既に相当な損害を出しているのに、敵はそんなことをいささかも気に掛けていないように見える。
その姿にイサセリヒコ(五十狭芹彦)は恐懼する。
「こんな狂信的な連中が敵ではこちらも被害が大きくなるばかりだぞ」と。
ただ、アタ姫(吾田媛)の脳裏にはタケハニヤスヒコ(健波邇安彦)からの命令「一目散に磯城瑞籬宮を目指せ」が強く刻み込まれていた。
彼女にとっては、ここで勝負を決めるよりも優先すべき目標になっていた。
イサセリヒコ(五十狭芹彦)は異変に気づくと「あれはどうしたことだ」と、すぐ隣で剣を振るうササモリヒコ(楽々森彦)に問うた。
前線で戦う兵を残して、多くの兵達が去って行こうとして見えるのだ。
「どうやら兵を二手に分け、片方を先に磯城瑞籬宮へ向かわせるつもりなのでしょう」
「宮へ向かわれてはまずい。ならばどうする」
「我らに勝機が巡ってきたということです。我らは苦戦していたのに、わざわざ敵のほうから兵数を減らしてくれたのですから」
それだけ説明してくれれば十分だった。
イサセリヒコ(五十狭芹彦)は大音声で味方に命じる「敵は兵を二分したぞ。数の上で我らの不利は消え失せた。今こそ敵を打ち破る時!全軍で攻めかかれ!」
命令一下、播磨の兵が怒濤の勢いで攻めかかる。
数の上でも圧倒されたアタ姫(吾田媛)の軍は蹴散らされてしまった。
勝利に息つく暇もなくイサセリヒコ(五十狭芹彦)が次の命令を下す。
「ここで勝利しても、先を行く兵に磯城瑞籬宮を攻めることを許せば元も子もない。いま一つ、諸君の奮闘を期待してもいいか。大和の未来が諸君の双肩にかかっているのだ」
イサセリヒコ(五十狭芹彦)の呼びかけに全軍が喚声を上げて応えた。
兵は少しも疲れの色を見せずに行軍を開始し、それほど離れたわけでもなかったアタ姫(吾田媛)の軍を捉えた。
後ろを確認してその速度から逃げ切れないのではないか、と懸念しながらもアタ姫(吾田媛)は兵の足を止めさせることなく進み続けた。
大和川の河原敷きに出たところで、目の前を流れる川に呆然とする。
川を渡るところを背後から攻めかかられたら全滅してしまうだろう。
悲惨な末路を怯えながらも「これは逃げ切れない」と観念する。
悲壮な覚悟で周囲に「ここで迎え撃ちましょう」と伝えた。
兵達に敗北の空気が伝播する。
迫り来るイサセリヒコ(五十狭芹彦)の軍勢に怯えながら、戦うための陣形を慌てて整えようとする。
だがそんな準備が終わる前にイサセリヒコ(五十狭芹彦)は突撃を命令した。
浮き足だつ敵陣に向かって殺気立った味方が突入していくと、敵兵は呆気ないほどもろく四散した。
先の戦いでの狂信的な戦いぶりが嘘のようだった。
負けを悟った兵は逃げ足も速い。
取り残されたアタ姫(吾田媛)はそのまま捕らえられてしまったのだ。
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「無礼であろう!」というのが捕らわれたアタ姫(吾田媛)の第一声であった。
「わらわはタケハニヤスヒコ(健波邇安彦)の妃であるぞ。下賤な者はわらわに触れる資格がないぞ。ましてや、そなたらにこのような扱いをされる謂われもない」
そんな騒ぎの元へイサセリヒコ(五十狭芹彦)がやって来る。
「これは、これは。アタ姫(吾田媛)であったか。ようやくこうしてお目にかかることができましたな。
申し遅れたが、わしは皆からイサセリヒコ(五十狭芹彦)と呼ばれ、姫の夫の叔父貴ということになる。叔父貴の顔に免じて、戦場での扱いは許してもらえまいか。失礼なこともあるだろうが勘弁してくれ」
丁重な言葉遣いであったが、アタ姫(吾田媛)は憎々しげな目を向けてきた。
それ以上は何を訊いても答えようとしなかった。
仕方なく、そのままイサセリヒコ(五十狭芹彦)の軍勢に引っ立てられ、逢坂から香芝を通って磯城瑞籬宮へと向かって行くこととなる。
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