第3章 嵐の前ぶれ その2 臨戦態勢

確かに逢坂は生駒山脈を越える大和盆地への南西側の入り口に当たり、後ろの戸に相応しい。


説明を耳にすると、大王とオオヒコ(大彦)は立ち上がりそうになったが、百襲姫は二人を押し止めて、さらに告げた。


「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)により、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫が大八洲を治めるところとなりましたが、それを気に入らぬ邪な力があるということです。

その女童はおそらくは天つ神(あまつかみ)の使いでしょう。

ミマキイリビコイニエノミコト、お気を付け下さい」


それだけ言うと、百襲姫はゆっくりと席を立ち、静かに退いていった。


「これは・・・・」と彼女が部屋からいなくなるや、オオヒコ(大彦)が呻くように声を発したが、その先を言いよどむ。


それに対し、大王は静かに答えた。


「大和の対する反乱です。

タケハニヤスヒコ(健波邇安彦)は山城に所領を持っています。反旗を翻すなら木津川は持って来いの場所。百襲姫の話と辻褄が合います。

タケハニヤスヒコ(健波邇安彦)とその妻・アタ姫(吾田媛)が反乱を企てているとすれば、おそらくは叔父上の軍勢が大和から遠くに離れた隙に二方向から攻め入る計画なのでしょう。

今、まさに神助により、あなたの軍勢は木津川を渡ることなく待機しています。前の戸がたやすく破られることはないはず。気になるのは後ろの戸です。

相手の兵数によっては破られてしまうかも知れない」


オオヒコ(大彦)は思い切って提案する。


「大王、ここは大叔父に頼まれては」


「どの大叔父です?」


「百襲姫の兄の」


「イサセリヒコ(五十狭芹彦)ですか」


珍しく大王が意外そうな表情を浮かべた。

大叔父?と思っただけかも知れないが、すぐにいつもの無表情に戻り、平然と答えた。


「このまま我が軍勢が弊羅坂に止まり続ければ、謀叛が発覚したとタケハニヤスヒコ(健波邇安彦)は行動を起こさざるを得なくなるでしょう。それ程は我がほうに時間が残されている訳ではございません」


「今夜のうちに早馬を立てて、逢坂から難波へ走らせて・・・・・そこから船を立てれば、明日の夕刻には播磨に連絡が付くでしょう。

ただ、イサセリヒコ(五十狭芹彦)がいかほどで難波に着けるか」


まさにそこが時間の勝負となるところだ。


当時は海上から難波から入っていけば、生駒山のかなり近くまで船を寄せることができた。

これは同時に、タケハニヤスヒコ(健波邇安彦)の軍勢が逢坂側から奈良盆地へ入ろうとする経路もかなり限られたものになることを意味していた。

つまり、イサセリヒコ(五十狭芹彦)が間に合いさえすれば、敵を捕捉する確率がかなり高くなると予想できる。

それでも間に合わなくて、頼みのイサセリヒコ(五十狭芹彦)が敵を取り逃すことがあれば・・・・・・木津川を挟んでの戦闘が長引こうが膠着しようが関係なく、逢坂側から攻め入られてしまうであろう。

それで大王が討たれれば勝敗は決着してしまう。


「どう転ぶか分からぬ事をいつまでここで議論ようとも、埒があきませんぞ」と言うオオヒコ(大彦)の提言に大王は決心したようだった。


「叔父上、あなたは明け方までに兵のところに戻って、兵達が動揺することがないようにしていただきたい。

私の鳥飼部に和迩のクニブク(国夫玖)という剛の者がいます。彼を連れて行って下さい。軍の士気が高まりましょう」


オオヒコ(大彦)は驚いて大王の顔を見上げてしまった。


犬飼部と鳥飼部は大王直属の戦闘集団。

今風に言えば近衛兵か親衛隊といったところであろうか。

それぞれ百名ほどであったが、大和にあっては精鋭中の精鋭の常備軍である。

その中でもクニブク(国夫玖)の名は弓の名手として知れ渡っている。


彼が軍勢に加わるとなれば、兵の士気は否が応でも上がるはずであった。


「こちらから戦いを仕掛けるのは明後日の午を過ぎてからです。

それより早く敵が動くなら、我が方の負け。敵がそれより動き出すのが遅くとも、イサセリヒコ(五十狭芹彦)が着くのが遅れれば、それもまた我が方の負け。

なかなか分の良い勝負にはなりませんけれど、前の戸が破られてどうしようもなくなることは避けておきたいのです。

これで作戦方針は決まりました。あとは叔父上のやるべきことを任せましたよ」


オオヒコ(大彦)は静かな中に秘められた大王の意気込みを肌で感じ、改めて身の引き締まる思いであった。

彼は和迩のクニブク(国夫玖)を伴って夜明け前に弊羅坂へと急ぐ。


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オオヒコ(大彦)が戻ってみると、弊羅坂は出発前と変わらず平静であった。


まだ腹違いの弟タケハニヤスヒコ(健波邇安彦)は我がほうの動静を探っている段階なのであろう。

大王は、自分が義弟の企みに加担していないかどうかを少しも疑うことなく、信用してくれた。

和迩のクニブク(国夫玖)を加勢に寄こしてくれたのは信頼の証であろう。

そうとあれば、ここはなんとしても大王のお心に応えたかった。


オオヒコ(大彦)は思案する。


山城にいるタケハニヤスヒコ(健波邇安彦)の側は、オオヒコ(大彦)率いる軍が近江へ抜け、越へ入るのを待つ心づもりでいたはずだ。

となれば弊羅坂にその軍勢が野営したことに神経を尖らせているはず。

このまま夜が明けても動きださなければ「どうしたことか」と動揺するはずである。


何かの事情で進軍が止まっただけなのか、それとも謀叛が発覚したのか、と疑心暗鬼になることであろう。

どの程度、事前に兵を集めてあるかは分からないが、我が軍が近江に抜けたら早急に兵を起こすつもりであるなら、かなりの準備がしてあるはずだ。


我が軍がこうして弊羅坂に居座るとなれば、多くの偵察を出してきて、これからの行動を予想しようとすることだろう。

敵の不意打ちを受けて大負けしてはならないが、あからさまに臨戦態勢に入って「ことが発覚した」と気取られてもならないのだ。

今後の計画については最小限のものにしか知らせてはならない。

我らがここに留まる理由を見抜かれてはならぬし、奇襲を受けるようなこともあってはならない。


「イサセリヒコ(五十狭芹彦)が明日の朝、播磨を発っても難波に着くのは、明後日。それまでなんとしても時間を稼がなくてはならないのだ」


オオヒコ(大彦)は祈るような気持ちであった。


翌日になってもなにも変わりはないようであったが、その日の夕方遅くになって報せが届く。


「タケハニヤスヒコ(健波邇安彦)が兵を集めて出撃の準備に入りました」


オオヒコ(大彦)の恐れた報せであった。

これでは間に合わないかも知れない・・・・・だが、自分は粛々とできることをするまでだ。


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果たしてタケハニヤスヒコ(健波邇安彦)は一日が過ぎ去っても弊羅坂に留まり続ける官軍に不安を膨らませ続け、疑いの目で見張っていた。

そのまま官軍には近江に向かってほしかったが、翌日になるとそれが希望的観測に過ぎないと認める程度には用心深かった。

いつまでも終わりそうにない睨み合いに業を煮やし、その日の夕方になると決断を下す。


「明日、こちらから仕掛けるぞ!」


計画では南下して大王の鳥飼部や犬飼部を打ち破るはずであったが、オオヒコ(大彦)の軍を引き付け足止めするのが新たな役回りである。

ここにオオヒコ(大彦)を釘付けにしている隙に、アタ姫(吾田媛)が逢坂から攻め入って、大王の首を取れば勝ちなのだ。

鳥飼部や犬飼部がいかに精兵であろうとも、アタ姫(吾田媛)の指揮する部隊の兵数を以てすれば勝利は間違いないはずだった。


タケハニヤスヒコ(健波邇安彦)は成功を確信して、妻のアタ姫(吾田媛)に攻撃命令の使者を送る。

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