第3章 嵐の前ぶれ その1 出征と童謡
奈良盆地の南(現在の桜井市近辺)、磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に二千の兵が集結した。
大王の叔父・オオヒコ(大彦)はその兵を率いてはこれより越(現代の北陸地方)に赴き、彼の地を平和裡に版図としようというのである。
宮の奥から彼らを見守る大王の視線が痛いほど感じられる。
任務の困難さと大王の期待を受け、自ずと身が引き締まる。
指揮官のオオヒコ(大彦)はうやうやしく殿上に上がると膝を屈し、深々と頭を下げた。
「大王の勅により、これより越の国々へと赴きます。
勤めて大王の宸襟を安んじ奉らん」
知らず知らず、震えそうになる声をなんとか抑えて、出征の言葉を吐き出した。
大王はいつもと変わらぬ声で応える。
「無事の報せを待っている」
計画を告げられてから今日に至るまで集められてきた兵に、オオヒコ(大彦)自らが訓練を施し鍛え上げた精鋭揃いである。
大王からそれを預かり、全権を任された重みを思い出す度に、オオヒコ(大彦)は身震いしそうになる。
宮の奥で密議を重ねた時よりも日を重ねるに従い、いっそう大きく重い存在に感じるようになり、そのことにも驚かされる。
大王のお言葉にかしこまって頷くと、彼は馬上の人となる。
二千の兵を二列縦隊でオオヒコ(大彦)が先導して北上していくのだ。
行軍はなんの問題もなく進み、夕刻には弊羅坂(へらざか)にさしかかった。
弊羅坂は大和と山城の境を東西に流れて難波の海(現在の大阪湾)に注ぎ込む木津川の手前に位置する。
まだ朝廷のお膝元と呼んで差し支えない場所であるから、誰もなんの心配もしていなかった。
オオヒコ(大彦)にしても「今日のうちに弊羅坂を越えて、それから夜営するとしよう」と考えだしたところであった。
だがそこで奇妙な歌声が聞こえてきた。
ミマキイリビコはや ミマキイリビコはや 己が緒を 盗み殺(し)せむと
後(しり)つ戸よ い行き違ひ前つ戸よ い行き違ひ 窺はく 知らにと
ミマキイリビコはや
聞き捨てならなかった。
唄の内容が「ミマキの大王は、自分の命をこっそりと殺そうとする者が、後ろの戸と前の戸と行き違い、こっそりと窺っているのも知らないでいる」という意味に受け取れたからである。
オオヒコ(大彦)は馬から降りると道脇にしゃがみこんで唄を口ずさむ童女を見つけた。
オオヒコ(大彦)が呼びかけると、彼女はなんのてらいもなく立ち上がる。
驚いたことに、少女と思ったその姿は幼子のそれではなく、文字通り小人のような女性であった。
そんな驚きを押し隠してオオヒコ(大彦)はきつい口調で「なぜ、そのような唄を歌う」と咎めるように尋ねた。
それでも女性は平然と言ってのける。
「歌ってなんかいません。口を突いて出るだけです」
その只人とも思えない超然とした受け答えにオオヒコ(大彦)が気圧されそうになっていると、突如としてその少女は跳ねるよう後ろに飛び退くと、そのままかき消えるようにして姿が見えなくなってしまった。
あまりのことにオオヒコ(大彦)が愕然として「今のを見たか」と周囲の者に尋ねてみるが、誰も彼もが「なんのことですか」「気づきませんでした」と信じられないような言葉が返ってくるばかり。
当初は「おまえらどうかしているぞ」などと憤慨していたが、しばらくするうちにすっかり考え込んでしまった。
「狐や狸に化かされるとは、まさにこういうこと。だがなによりも相手の姿が小さな女の姿というのが腑に落ちない・・・・・」
果たして良い兆候なのか、凶兆なのかすら判断が付かない。
「こいつはお偉いさんがたの意見を伺っておいたほうがいいぞ」と結論する。
出征の途についたといっても、まだ瑞籬宮(みずかきのみや)から五里ほど。武装した兵としては大体一日の行軍距離である。
オオヒコ(大彦)は幕舎を張ると、兵に野営を命じた。
それから自分の幕舎に息子のワケノミコを呼び寄せる。
「気がかりなことが起こったから、わし一人で大王のところへ相談に行ってくることにした。
わしが戻ってくるまで兵を休ませておけ。だが、おさおさ、警戒を怠るでないぞ!」
オオヒコ(大彦)は馬を走らせ、瑞籬宮に着くとすっかり日が落ちていたが躊躇せずに門を叩いた。
こんな遅い時間になにごとか、と門番達は色めき立った。
だが、大王はなにごともなかったかのようにオオヒコ(大彦)を招き入れるようにと命じ、オオヒコ(大彦)が入ってくると人払いをした。
このような急の訪問にも関わらず、ミマキの大王は普段通りの正装であり、日中と変わらず無表情のままである。
緊急の用件での参内だというのに日中と変わらぬ様子に、オオヒコ(大彦)としてはいささか拍子抜けの態であった。
「叔父上、何か問題があったのですか」
大王からの問い掛けにオオヒコ(大彦)は気を取り直して説明する。
「大王、幣羅坂まで進んだところで奇妙なことがございまして、兵士どもを野営させて戻ってきたところでございます」
大王は叔父の説明を瞑目して聞いていたが、唄の説明の下りになると、はたと何かを思いだしたように顔を上げ、その切れ長の目を開いた。
大王の反応にオオヒコ(大彦)は口を閉ざす。それに構わず大王は侍女を呼び寄せた。
「至急、百襲姫(ももそひめ)をお招きするように。このような時間だ、何のかんのと理由を詮索してくるだろうが、大王がひたすら待っていると伝えよ」
百襲姫はミマキの大王の大叔母、かのイサセリヒコ(五十狭芹彦)の妹に当たる。
彼女は三輪山の大神神社で巫女として大物主神(オオモノヌシノミコト)に仕えていた。
大王からの直々の伝言に――その中に断固たる意思を感じ取ったものであろうか――彼女は慌てて参内してきた。
それでも百襲姫が到着したのは既に夜も更けた頃になった。
白髪頭を振りながら、その年老いた身体をゆらゆらと揺らすように、ゆっくりとその老婆は大王の前に参上した。
「何事ですか」と問う百襲姫であったが、そんな夜中の急な詔と関係ないように穏やかな様子をしていた。
「叔母上、実は奇妙なことがあったのです」
大王の言葉にオオヒコ(大彦)は「大叔母じゃ」と内心では思ったが、この時も訂正の言葉は口にしなかった。
大王は続ける「詮ないことと朝まで待つのはいけない予感がしまして、このように無理を言いました」
「あなたは人に無理を言うのがお務め。オオヒコ(大彦)にも苦労を掛けているのであろう」
そう言うと彼女はホホホと笑った。
暗がりの中、灯明の光だけの中だと言うのに、彼女の周りだけ空気が和らぐような感じであった。
大王はオオヒコ(大彦)に話をするように促してきたので、彼は最初から説明を繰り返し、自ら歌って女の唄を聴かせる。
「女童(めのわらわ)でしたの」
「いや・・・・・・正しくは、小さな女としか説明のしようがない。幼子ではなく、身体だけが小さい女性と言ったら良いのか・・・・」
百襲姫はフンフンと鼻歌を歌うかのように、なにやら口ずさむかのようにしながら考え込むようであったが、その様子はこんな状況だというのに日向ぼっこをする老婆と見まごうばかりである。
その彼女がおっとりと口を開いた。
「大王、闇の力が増し、邪なる神が大八洲(おおやしま)を荒らそうと画策してございます。急いで相談して下さいまして良うございましたわ。
先日、アタ姫(吾田媛)が香具山の土を布に包み持ち帰るのを見た者がおりました。それの意味するところが分からなかったのですが、お話を伺ってようやく判明しましたわ。
呪詛では対象が人なら、相手の身体の一部――通常は髪の毛や爪――を要しますが、それが香具山の土とは・・・・・大王の敵は大和の国を呪詛しようとしているのです。
オオヒコ(大彦)よ、アタ姫(吾田媛)の夫とは、あなたの腹違いの兄タケハニヤスヒコ(健波邇安彦)です。
そして前の戸と後ろの戸から大王を亡き者としようという――つまりは反乱です。前の戸――すなわち木津川側と、後ろの戸――すなわち逢坂側から瑞籬宮へ攻め入るのでしょうかね」と彼女は自分の解釈を説明してみせた。
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