第1章 イサセリヒコ(五十狭芹彦)その2 相撲
太郎の声量にタケヒコは驚いたようであったが、新入り呼ばわりされたことには腹を立てているようだった。
年下のくせに、とでも思ったのだろうか。
だが、勝負は容赦ない。
太郎はタケヒコが突進してくるのを、胸を貸すようにして受け止めた。
続いてタケヒコの脇を両手で突いて身体を起こすと、一気に押し倒した。
あまりに不甲斐ない負け方にタケヒコはびっくりしたようだったが、その顔を真っ赤にして「もう一番」と叫んだ。
太郎は面白そうに「いいよ」と言ったが、何度タケヒコが向かって行っても一直線に押し出したり、上手投げで投げ飛ばしたりと一方的な勝負が続く。
「工夫がない」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)は甥の負けっぷりに苦笑いするしかない。
そこで頃合いを見て割って入った。
「太郎、次はワシが相手だ」と笑顔で申し出る。
太郎はイサセリヒコ(五十狭芹彦)を見て、訝しげな顔をした。
「おっちゃん、止めとき。年寄りは無理しない方がええよ。
怪我すると治りが悪いから」
遠慮ない物言いに、イサセリヒコ(五十狭芹彦)はいささかムッとする。
「何を言う、小童(こわっぱ)!
これでも、若い時は向かうところ敵なし、と恐れられたものだ。
それとも大人相手に無様に負けるのを見られたくなくて、年寄りをいたわるふりでごまかす気か?」と言いながら上衣をはだけて蹲踞した。
「後で知らないからな」と太郎は言い返してくる。
蹲踞から見合って「はっけよい」で立ち合うと、勢いよく太郎が懐に飛び込んできた。
その予想外の勢いに押し込まれ、土俵際まで後ずさりしてしまったが、そこでなんとか踏ん張って立ち止まる。
大人でもこれほどの力を出せるものか、と内心では舌を巻く。
「これは只者ではない」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)は焦りを覚えながら、体格差のことを考える。
大きさだけではなく、目方のほうも全然違うのだ。
それならばしっかりと捉まえてしまい、身体を合わせるようにしてしまえば、多少の力があったとしても、子どもでは大人相手にどうしようもないはずだ。
イサセリヒコ(五十狭芹彦)が胸を合わせるようにして太郎の上体を起こしてしまおうとした時、まさにその機を捉えて太郎が腰紐をつかんだ。
「あっ」と思った次の瞬間にはイサセリヒコ(五十狭芹彦)の身体は宙に持ち上げられていた。
胸を合わせることなく、両の腕だけで大の男を持ち上げている。
あまりの怪力ぶりにイサセリヒコ(五十狭芹彦)が自分の目を疑っている間にも太郎は前に前にと歩みを進めていく。
どうすることもできないままにイサセリヒコ(五十狭芹彦)は土俵の外に降ろされた。
完敗である。
「本当なら持ち上げたままで投げ飛ばしてしまえば簡単にケリがつけられたけど、年寄りはちょっとの怪我もおおごとになるからな。老人をいたわるつもりで吊り出してやったんだからな」
こうまで見事な勝ちっぷりでは逆らう言葉もでてこない。
それでもイサセリヒコ(五十狭芹彦)は言う。
「おい、もう一番どうだ」
「おっちゃん、年の割には大人げないな。子供の勝ちには華を持たせておいても恥にならないぜ」
「いや、勝ち負けではなく、おまえの力のほどを見極めさせてもらおうと思ってな。勝負と言うよりは正々堂々と力比べをしようではないか」
「そんなに言うならおれは構わないけど、あとでどこそこが痛いとか泣きべそかいても知らねぇぞ」
「太郎のほうこそ、後で負けた言いわけするなよ」
再びの立ち合いから太郎は勢いよく飛び込んできた。
それをイサセリヒコ(五十狭芹彦)はやや体勢を入れ替えるようにして受け流し、さらにその勢いを利用して投げ飛ばしてみせた。
太郎は憤慨したように立ち上がった。
「ずるいぞ!正々堂々と力比べと言ったじゃないか」
「大人はずるいんだ。若いうちにそういうことも学んでおく必要がある」
「それこそ言いわけじゃないか。そうまでして勝ちたいか」
「おまえはこれから先、いくらだって相撲も出来るだろうが、こっちは先のない年寄りだ。今のうちに老人には華を持たせておけ」
そんなイサセリヒコ(五十狭芹彦)の言葉に太郎は納得するはずもなく、ふくれっ面を作る。
「小童、それにしても先ほどは見事な勝ちようだ。その体格でその力、感服した。
このわしと一勝一敗と互角の勝負とは天晴れ!
どうだ、褒美とお詫びとを兼ねて、うちで昼飯でも一緒にしないか」
その言葉に太郎はちょっと考え込むふうであったが「みんなと一緒ならいいぞ」と返事してきた。
それには子供達も拍手喝采で大喜びだ。
「構わないぞ」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)は十人あまりの子供達を引き連れて自分の屋敷に戻る。
道中で首をうなだれている自分の甥に気づき、その肩にそっと手を置いてやった。
「あれほど強い相手に臆することなく挑み続けた根性は見事なものだ。
次からは、勝ちたければ同じように攻めても無理だと、それまでとは違った工夫をしてみるんだ。そうでなければ同じように負けることになる」
タケヒコは見上げるようにしてイサセリヒコ(五十狭芹彦)の方に目を向けたが表情は晴れない。
「おまえもみんなと一緒に昼飯だ」と言ってやると、少し表情が緩んだ。
そういうところがまだ子供だな、とイサセリヒコ(五十狭芹彦)は感じる。
こいつがいずれはわしの後継ぎかと思うと心配もある。
まだまだ子どもだから先のことは分からぬ、と考え直した。
家人に事情を説明し、午の準備がされる間、子供達からいろいろな話を聞かせてもらう。
父の農作業がうまくはかどらないせいで母に叱られているだとか、鉄の農具を手に入れるために家からすっかり米がなくなってヒエやアワしか当分食べられないだとか、それぞれの家の苦労話が多かった。
山から下りてきた獣が家に入り込んで夕飯を食べられてしまったとかは笑えたが、種籾を食われてしまったとなると切実な話である。
そんな風にわいわいと皆が口々にいろいろな話を口にしていたが、家の奥から小さな女の子が出てくると、子どもたちは急に静まりかえった。
イサセリヒコ(五十狭芹彦)は少女の姿を目にすると、心に明かりが灯ったような気分になる。
そのせいで思わず知らず猫なで声になってしまうのだ。
「あーちゃん、偉いね。今日はお手伝いか」と、言いながら目を細める。
「おっちゃん、その女の子、誰や」と、太郎が勇んで尋ねてきた。
「おい、おまえ、失礼だぞ」という甥タケヒコの大人びた叱責の声を聞き流してイサセリヒコ(五十狭芹彦)は紹介する。
「これはわしの末の娘だ。アカキミと呼んでいる」
少女はくりくりとした目を見開いて太郎を珍しそうに眺める。
「これ、挨拶しなさい」とイサセリヒコ(五十狭芹彦)が促すと、少女は頬を真っ赤に染めてペコリと頭を下げた。
潤んだように輝く瞳や、さらさらと揺れながら光を放つ黒髪、上気して赤くなった頬と対照的な雪のような白い肌など、太郎からすれば全く見慣れない姿の生き物のようだった。
ふと見ると、さっきは説教めいた口調だったタケヒコまでもがアカキミを見て明るい笑顔を浮かべている。
イサセリヒコ(五十狭芹彦)はなんとも知れない満ち足りた気持ちになった。
唐突に太郎がアカキミに向かって声を張りあげた。
「俺は太郎、六つ。猟師のヤマガの息子だ。
おまえは幾つだ」
「わたし、五つ」と広げた手は可愛らしいとしか言いようのない小さなものである。
我知らずイサセリヒコ(五十狭芹彦)は微笑んだ。
アカキミはじっと太郎を見つめている。
彼女にしても、太郎は見知らぬ生き物のような存在かも知れない。
太郎は太郎で、自分が場違いに汚らしくがさつなものに感じられて恥ずかしくなっていた。
アカキミと並んで横に座るに相応しいとは思えない、と。
いつかは自分も大人になるのだろうか、と今まで感じたことも無かった不安が、急に太郎の胸をよぎる。
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