第25話 無駄にAgainstな黄金週間⑤
観月瑠璃は観月家の息子ではなかった。
玲の以前勤めていた会社の同僚。
その男の息子だったのだ。
玲とその同僚は、同期入社で互いに仕事も順調で仲も良く、信頼し合える仲だった。
二人は通信機器の扱いに長けており、会社を辞めて通信会社の事業を二人で立ち上げた。
大きな失敗もなく、設立時の借金も返済を終えた。
従業員も増え、小企業と言っても差し支えがないほどまでに成長した。
しかし、玲の同僚は自殺した。
それも一家心中で。
農薬の大量服用による中毒死。
何もかも順風満帆だった。
なぜ死んだのか?
その同僚は、親戚の連帯保証人となっていた。
その親戚が、八桁もの借金を抱えたまま夜逃げした。
順風満帆とは言え、まだ新事業。
年間の純利益は数百万あれば万々歳だ。
そんな中で多額の借金。
玲には迷惑を掛けられない、と妻や息子である瑠璃もろとも一家心中を図った。
しかし、瑠璃は生きていた。
薬物を途中で吐き出したらしく、薬物が致死量まで吸収されなかった。
この同僚に、夜逃げした以外の親戚はいなかった。
玲は桜と話し合った結果、瑠璃を瑠奈の義兄として、養子に迎えることに決めた。
この時、瑠璃は一歳半。まだ何も理解できる歳ではなかった。
瑠璃に奇行が目立ち始めたのは三歳頃からだった。
ある日突然、瑠璃は食事の皿をひっくり返し始めたり、おもちゃを乱暴に扱って壊すようになったりした。
それまではとても良い子だったのに。
玲と桜は何が原因か見当も付かなかった。
ただその前に、玲の実家に帰省した事以外は。
瑠璃は三歳頃から吹き込まれ始めていた。
他人の子を家に入れたくなかった玲の母と、玲の事業が波に乗り始めて金を得るための口実に瑠璃を利用しようとした樋熊に――。
本当の家族が、玲に見殺しにされたと、吹き込まれていた。
瑠璃は、二人が何を言っているのか理解できなかった。
難しい言葉は子供ゆえに全く分からなかった。
しかし不安になった。怖くなった。
だから、暴れた。三年間、暴れ続けた。
そして二カ月前のあの日。
玲が樋熊の挑発に乗ってしまった。
樋熊がいつになったら瑠璃に真実を話すつもりかと聞いてくる。
隠し事をする親を子供が信用する訳がないと言ってくる。
その不安を解消するために悪戯しているのではないかと責めてくる。
樋熊や玲の母がそれとなく伝えてみても、余計に不安にさせてしまっただけだったと詫びてくる。
玲と桜はここでようやく瑠璃の奇行の元凶を知った。
「兄さん、母さん、どういうつもりだぁ! そんなことを言えば……瑠璃が情緒不安定になってしまうのは当然だろう! ちゃんと瑠璃が大人になってから、少なくとも落ち着ける歳になったら話すつもりだったんだ! どう責任を取るつもりだ!」
玲は反撃した。
しかし、良かれと思ってやったことだと、いつバレるか分かったものでもないし、言うなら早めに越したことはないだろうと、白を切った演技を繰り広げる樋熊と玲の母。
正義は玲にあった。しかし玲は怯えていた。
借金の話で瑠璃の話題を持ち出される。
普通は有り得ない。つまりただの脅迫。
家庭崩壊の原因も、他人様に迷惑を掛けている原因も、その全てがこの家だった。
しかし縁を切る訳にはいかなかった。
樋熊は暴力団関係者である。
玲の兄である。そして現在は脅されているとはいえ金を貸している。
玲は樋熊が暴力団に属していると、瑠璃が三歳になるまで知らなかった。
玲の同僚が死に、仕事は忙しくなったものの、会社は順調に成長を続け、家計に余裕ができた頃、玲は母の頼みということもあって、樋熊に金を貸した。
次、また金を貸せと言われた。
玲は返すまでは貸せないと断った。
そこで名乗られた。樋熊が暴力団の幹部であると。
玲は調べ、真実だったと知る。
世間にバレたら、暴対法も相まって、会社は谷底へ落ちる可能性があると。
玲は脅され、怯え、金を貸した。
樋熊は世間体と瑠璃を吊るし、玲に金をせびる。
早く関係を断ち切りたかった玲は、幼い瑠璃にまで手を出され、逃げ道を封じられていることに怒った。
しかし瑠璃の奇行の原因を知った玲は、せめて瑠璃を守るため、良かれと思って叫んだ。
「確かに瑠璃は僕達の息子じゃない! だが、それでも僕や桜は瑠璃を……え?」
樋熊と玲の母は、目を細めて笑った。
居間の襖、そこに不自然な隙間が開いていた。樋熊は立ち上がり、襖を開け、わざとらしく言ったのだ。
「おぉ、瑠璃、そんなところにおったんか。もしかして今の話、聞いとったかのぅ? 瑠璃は玲や桜の息子じゃないという話を」
瑠璃は目を見開き、悪夢を見ているかのように怯えていた。
「なっ! 瑠璃、ちがっ……」
玲が言葉を発すると、瑠璃は尻餅をついて後ずさり、壁にぶつかって、立ち上がる。
そして、躓きそうになりながら家の外へ向けて走り出す。
自宅と観月本家の環境のせいで、酷く憔悴していた桜は言葉にならない声を出しながら玲に縋っていた。玲もすぐさま後を追うために立ち上がる。
「瑠璃を説得するのに協力してやろうかのぅ。まぁ、その前に早く話を……」
樋熊は玲の前に決して乗り越えられない壁のように立ち尽くす。
玲は苦虫を噛み潰した。
「分かった……これでいいんだろう兄さん! 早くそこを退けろぉ!」
玲は百万円の札束をテーブルに叩き付けた。
全くの同時だった。
外でぶつかる重たい金属の音と、肉がブチブチ潰れる音と、骨が砕かれ、潰されていく音が聞こえたのは――。
玲は桜の手を取り、家の前の道路に出る。
砂利満載のダンプトラックが、家を出てすぐ左側の道に停車していた。
玲と桜は、ダンプトラックに目を向けたまま、歩み寄る。
恐らく、瑠璃は家を出て、右側の道路に走った。そして右から来たダンプトラックに轢かれた。
玲と桜は、視界の端に映る瑠璃を見た。
「瑠璃? 瑠璃……るりぃいいいいいいいいいいいい!」
玲はその場で叫んだ。桜は玲からすぐさま離れ、家まで駆けて戻った。
「おとーさん、おかーさん、今の音なーにっ? あれっ? るーにーはっ?」
今の音を聞き付けた瑠奈が玄関から顔を出す。
桜は瑠奈の下へ駆け寄って抱き締め、後ろの景色を見させないようにして、声を絞り出す。 「今の音はね、何でもないのよ? だいじょーぶ、お母さんがいるからね。瑠奈の傍には、おかあさんが……いるからね」
桜は声を震わせ、瞬きすることなく、涙腺さえも開いたまま、吐き気を堪える。
玲は道の真ん中で、膝が折れたように座り込んでいた。真っ直ぐに前を見て、そのまま携帯電話を取り出し、救急車を呼んだ。
下は決して見ない。
「きゅ、救急でお願いします。息子が……撥ねられ……ました。具体的……な、状態?」
玲は下を向いた。
そして、見て、言った。
吐きながら、言った。
「左手から……おえぇっ……右肩にかけて……ごぼっぉえ……皮と、臓器が……おぼっ、ごほおぇっ! 潰された……じょうたい、です。うおええぇっ!」
瑠璃は前タイヤに巻き込まれ、ダンプトラックに敷かれたのだ。
体の一部は、アスファルトに薄皮一枚となって張り付いていた。
左手はもはや人間らしい手ではなく、丸く潰れた赤染めの皮。
そのまま上体に血のタイヤ痕を残しつつ、皮からはみ出した臓物が潰れて散り、潰れきれなかった赤混じりの白骨が血の海に破片となって浮かぶ。
顔は無事だったものの、吐き上げた血が顔一面に塗られ、その鮮血から覗く眼は突出し、射抜くように、恨みを込めて、玲の方を見ている。
少なくとも、即死、玲にはそう見えた。
何もかも、終わっていた。
救急車はやって来たが、すでに死亡と確定できる状態だったため、別の業者を呼び出し、そのまま帰った。
野次馬は集まらなかった。
誰もがこの光景を見るために出てきて、トイレに帰っていく。
これからどうすればいいのかという顔をする玲。
もしかしたら、同僚の後を追う事になるかもしれない。
玲は本気で考えたらしい。
その時、そこに空色に塗られたスポーツカーが止まったのだった。
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