第22話 無駄にAgainstな黄金週間②

「おじゃましまーす」

「あぁん? 来たのかい」


 スライド式のガラス戸をガラガラと開け、バッグを持ったまま家の中をうろついてみれば、痩せ細った目付きの悪い腰の曲がった老婆がいた。


「お邪魔します。荷物はどこ……どの辺りに置けばいいですかね?」


 恐らく祖母なのだろうが、俺は不安に駆られてしまい、思わず敬語で尋ねてしまう。


 孫が敬語を使う等一般家庭では有り得ないだろうと、言った直後に肝を冷やす。


「……なるほど、立場は弁えとるようじゃな。結構、結構。荷運びまでよぉやるようになったもんじゃ。ご褒美じゃ、手ぇ出しぃ」


 何の問題も無かったようだ。


 言われるままに手の空いている右手を伸ばす。


 百円玉を貰った。お駄賃である。


 時給に換算しても割りの良い仕事だと、ちょっと嬉しくなった。


 しかし、どこからともなく取り出された百の数字が入った箱も差し出される。


「ほれ、ここに立派な貯金箱があるじゃがのぅ。良い音がするけぇ入れてみんさい」


 俺は僅かに首を傾げたところで動きを止めた。


 つまり今貰った百円玉を観月本家の貯金箱に奉納しろということだった。


 だったら最初から自分で入れろ! 何のために俺に渡した!


 と叫びたい所だったが、黙って百円を投入する。


 この婆さんの頭はどうなっているんだと、荷物を肩に掛けたまま魔法の発動キーを描こうとする。


「瑠璃! あまり勝手に歩くんじゃ……なっ! 母さん。ごめん、瑠璃が何かしたかい?」


 慌ててやってきた玲のせいで描くことを中断する。


 玲は自身の母の姿を視界に捉えるなり視線を外し、俺の肩を持って強引に寄せながら申し訳なさそうに聞いていた。


「何もありゃぁせん。むしろ、良ぉなっとると感心したくらいじゃ。こりゃ、感謝せにゃならんのぉ」


 婆さんは弱々しく咳込むように笑っていた。玲は俺の肩を強く、痣ができそうな程に掴む。


「もっとも、感謝すべき相手はまだ来とらん。本来ならもう居るはずじゃったが、さっき連絡があってのぉ、明日の昼頃になるそうじゃ。このままだと玲や瑠奈、桜さんと入れ違えになるかもしれん。まぁそういう訳じゃ、夕飯の支度もこれからするけぇの。桜さんにも早ぉ来るよう言ってきんさい」


 婆さんの話の途中から、玲の力は抜けていた。


「あ、あぁ。分かった。すぐ桜に声を掛けるよ。瑠璃、荷物はこっちだ」


 玲の声色は、誰がどう聞いても明るかった。


 荷物を置く間、玲は桜に耳打ちしていた。

 桜の表情も一瞬だけ明るくなったが、夕飯の手伝いと聞いて即座に顔を引き締める。


 玲や桜の悩みのタネはこの婆さんだと思っていたのだが、どうやらこの場所にいない者らしい。


 その者が何者であるのか、玲や桜に何の不利益を齎すのか、何も分からないままだった。


 婆さんの心を覗けば簡単に解決する疑問だが、それは叶わない。


「るーにー! 来てっ! 見てっ! お星さまっ! すっごーくきれいだよっ!」


 裏の畑まで、瑠奈に連れ出されてしまったからだ。


 ベニヤ板の被せられた古井戸の傍に座らされ、まだまだ冷え込む春の夜空を仕方なく見上げる。


「お? おぉ!? 北斗七星がバッチリ見えるだと! ぬぉ! あれは乙女座のスピカ! 春の大曲線がこんなにはっきり……すげぇ!」


「お星さま、いっぱいでしょ? 凛ねぇも来ればよかったのになーっ」


 思わぬ夜空に感嘆の声を上げ、瑠奈もまた無邪気な笑顔を空に向ける。


「あぁ、そうだな」

「うん、だからるーにー。凛ねぇの分まで……いっぱい、お星さま見ながら、ね? んっ」


 瑠奈が俺の手を取り、指の隙間に絡ませるように両手を重ね合わせ、目を閉じて唇を突き出す。


「瑠奈、それは何のポーズだ?」


 こう尋ねるものの、問うまでもなく、心を読むまでもなかった。


 その証拠に誰がどう聞いても棒読みである。


「きれいなお星さまの下で、大好きなオトコとオンナがいっしょなのっ! こんなにステキなムードなんだよっ! だから……んっ!」


 犯人は詠亜、いや、桜……待て、凛子と対照的に友達作りの順調な瑠奈だ……友達伝手の可能性も否定できない。


 兄妹ゆえに理性が揺れる程度で済んでいるのだが、この状況は何をどう頑張っても打破できないと何となく分かっていた。


「素敵なムードって……ここ畑だぞ」


 だから一応、ツッコミがてら断っておく。


「いーのっ! かんけーないのっ! んちゅ。えへへ、るーにーが……してくれないのが悪いんだもんっ」


 瑠奈は怒りながら唇を重ね合わせ、すぐに離れて大人びた笑みを浮かべる。


 俺は動かないことにした。何も言わないことにした。

 なぜなら、これは瑠奈が勝手にやっていることだから。


「るーにー、大好きっ。ずーっとっ。ちゅ……んっ……」


 瑠奈は静かに、夢中で求める。俺の愛と温もりを。


 一筋の涙を頬に伝わせながら。


 今更のことだが、瑠奈もまた、凛子と同じように狂っていた。


 瑠奈の異常な兄への想いの原因を、今まで時折心を読んでいた結果、何となく理解してしまったのだ。


 叩かれ、いびられ、虐げられて、家では桜の怒った声と、玲と桜の喧嘩声。


 時には玲も、桜と共に、以前の瑠璃を怒鳴り、叱りつける。


 そして聞こえる玲と桜の自らを責め立てる泣き声。


 そんな家が嫌いだった瑠奈。


 もちろん原因は観月瑠璃にあった。


 瑠璃が酷いことをするからこんなことになる。


 ならばどうするか?


 瑠奈なりに考えた。


 瑠璃と仲良くなれば、虐められないし、それはダメだよって言ったら、うん分かった。そう言ってくれると思ったのだ。


 だから瑠奈はどんな酷い目にあっても、瑠璃と仲良くなることを諦めなかった。


 そうすることで、家族全員が笑い合い、幸せになれると信じていたから。


 そんな中で、観月瑠璃が事故に遭い、今の俺になった。


 家は、家族は、幼稚園までも、何もかもが変わった。


 玲と桜に笑顔が溢れ、喧嘩の声は聞こえない。


 何よりも、俺は瑠奈に優しくなった。


 困ったことがあれば瑠奈を助け、転んで泣きそうな時は慰めてくれる。


 玲と桜が仕事の時も寂しくないように、ほぼいつも遊んでくれる。


 俺が傍にいるだけで、瑠奈の不安は喜びに変わる。


 瑠奈にとって今の俺は、紛う方なきヒーローだ。


「だからるーにー。んちゅ。ずーっと、このまま……もっと、るなの、るーにー。大好き、るーにぃ、だーい好きっ! もぉだめぇ……るーにぃ、るーにぃっ!」


 そんな俺を大地のベッドに押し倒し、感謝と、愛と、自らの偽りない姿を捧げる瑠奈は、満月に盛る獣のように、俺を貪っていく。


 自宅ではまずお目に掛かることができない六等星の星々が、自らを大いに主張するように輝く夜の下。


 人の眼のように怪しく光る星々の下。


 着衣の乱れた俺は、幼いながらも妖艶に映える瑠奈に魅入られていた。


 そして幾多もの眼に曝された景色の中で、労せず転がり込んできた満杯の支配欲に身を預けたまま――。


 ――翌日の地獄を迎えるのだ。

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