第十六話
青い道着を着て眼鏡とマスクを外し、素顔を顕わにしたハラルに九州からやってきた選手は思わず溜め息を漏らした。初めて顔を見たというわけではないはずだが、自分たちより年下で可憐な少女がドレイシー柔術の免許皆伝とは、
対する大分駐屯地所属の
その二人が道場の中央に立ち、ルラハによる試合開始の合図を待っているところだ。おれはルラハに念話を送った。
『ルラハ、勝敗の予想は?』
『レイヤ様、本気でお尋ねで?』
『いや、まあ、一応……』
『わざと負けない限りハラルの勝ちは揺るぎません。そしてハラルがわざと負けるなどということはないでしょう』
『ハラル、というか二人とも相手に花を持たせる的なことってしないもんな』
『レイヤ様、失礼です』
ハラルが割り込んできた。彼女たちは互いの意識を共有しているようなものだから、片方と話した内容はもう片方にも筒抜けというわけだ。
『ハラル、失礼ったって今回も殺さない程度に手加減するだけだろ?』
『レイヤ様は私に負けろと?』
『そうは言わないけどさ』
ハラルと若林が互いに礼を交わすと、ルラハが開始の声を上げる。それを聞いて二人は軽く拳を当ててから態勢を低くした。
「打撃が来ると思ったのですが?」
「一瞬で終わってしまったら門下生の参考になりませんから」
ハラルの挑発に負けず嫌いなはずの若林は乗ろうとしなかった。攻めあぐねてはいるものの、冷静さを失って相手になるほどハラルは甘くないと感じているのだろう。
これまでは小さな
「どうしました? 来ないのですか?」
そう言ってハラルが体を起こす。しびれを切らして棒立ち状態となった彼女にはそれでも隙がない。しかし若林にとっては千載一遇のチャンスである。ここで攻めなければ、確実に最初の一手はハラルに譲ることになるだろう。
「やーっ!!」
若林が雄叫びを上げ、低い姿勢のまま突進してハラルの足を取りに行く。打撃がある相手に対して無謀としか言えない策だが、さすがにこれを蹴り飛ばすほどハラルは鬼ではなかった。
彼女は馬跳びの要領で若林を飛び越えると、クルリと後ろを向いて裏投げを仕掛ける。実戦では頭から落として首の骨を折る技だが、そこは手加減して受け身を取らせていた。
ところが次の瞬間、試合を観戦している選手たちから
今度こそ若林は悔しそうな表情を隠そうともしなかった。
「どうして……?」
「制限時間は五分。まだまだたっぷり残ってます」
「くっ! やーっ!!」
今度は体を低くせず、奥襟を取るべく若林がハラルに掴みかかる。だが次の瞬間、驚くべき早さで彼女に背を向けたハラルの両足が屈伸からきれいに伸び切っていた。若林の体が宙を舞い道場に叩きつけられる。パーフェクトとも言える美しい一本背負いが決まっていた。
しかしまたもやハラルは寝技に入らず、彼女を放して元の位置に戻った。
「もしかして……私は遊ばれてる?」
「あら、気づきましたか」
「なっ!?」
「先ほども申しましたが、ドレイシー柔術の打撃は一撃必殺です。ですが私に対して手も足も出ない貴女には失望しました」
「……」
「貴女は絶対に勝てない強者に闘いを挑んだのです。ですがこれ以上無様を晒させるのも不憫ですので、次に貴女が仕掛けてきたら終わりにしてあげましょう」
ハラルの奴、煽ってやがるな。若林の顔が怒りで真っ赤になってしまったよ。
「私は……私はいずれ
「黒? ああ、陸軍の特殊部隊のことですか」
大日本帝国陸軍特殊部隊、通称"黒"。この名の由来は過酷な特殊部隊資格課程を修了し、部隊に所属する兵だけが着用を許される黒のベレー帽にあった。
これまで女性が課程を修了したことはなく、若林が成し遂げれば初の女性兵士となる。単なる戦闘狂というわけではなかったようだ。
それにしても外地(日本の主権が及ばない地域)に行く理由が分からないが、詮索する必要はないだろう。
「事情は分かりませんが、それでは私に打撃を使わせたら貴女の勝ちとしましょうか」
「え?」
「ドレイシー柔術の免許皆伝である私に本気を出させるのと同じだからです。本気のドレイシー柔術と闘いたいというのが貴女の望みではありませんでしたか?」
「参る! やーっ!!」
若林の表情が一変した。これまで本気ではなかったというわけでもないだろうが、より一層気合いが入ったという感じだ。
彼女は再びハラルの奥襟を取るべく掴みかかる態勢で前進した。またか、という顔のハラルがその腕を捕まえて一本背負いで終わり。誰もがそう思った時、若林の両腕が下がりハラルの腰を捉えようとしたのである。
しかしハラルは彼女の両肩を上から押さえつけるように体重をかけた。若林の小さな体が沈むと背中の一点を踵で踏みつける。たったそれだけのことなのに、若林が突然ジタバタし始めた。
「若林さん、息が出来ないでしょう? まいったしないと最悪死にますよ」
若林が必死に床をタップして敗北を認める。それを見たハラルが背中から足をどけると、若林はゼエゼエと苦しそうに呼吸をしながら何とか起き上がった。周りの選手たちのうち、九州から来た者はわけが分からず怪訝な表情を浮かべている。
ハラルは強く押されると呼吸が出来なくなる背中の急所を踏みつけていたのだ。手足にも力が入らないので体を
柔術としてどうなのかということについては、若林が望んだのは本気のドレイシー柔術との試合だ。ドレイシー柔術は殺人が目的(ハラル設定)なのだから、ルールなどないということである。
「最後のあれは、私の教え子たちであれば打撃を繰り出すしかなかったでしょう。なかなかよかったと思いますよ」
「でも……」
「さらなる精進を期待してます」
主審のルラハに定位置に戻るように言われ、ハラルと若林は道場の中央に向かい合い、試合終了の宣言をもって互いに礼をする。
これにてドレイシー柔術門下生、大日本帝国陸軍関東方面女性兵士対、九州方面女性兵士の試合は終わりを告げるのだった。
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