第十四話

 佐伯さえき中尉の急用は偽りではなかった。突然伯父である佐伯家現当主、大日本帝国陸軍中将の佐伯孝征たかまさが屋敷を訪れたというのだ。これでは戻らないわけにはいかなかった。


 時は大格闘技大会より少し遡った二日前、屋敷の料理長を解雇した智徳とものりは、伯父に自らの身に起きた異変のうち、味覚と嗅覚を感じなくなったことを打ち明けた。


 伯父は軍医に相談することを勧めてきたが、彼が使用人に謀られているかも知れないと語ると調査を申し出てくれたのである。


 その日の夕刻、執事の菴田あんだが新たな料理人を連れてきた。名は大河原おおがわら悠稔はるとし。聞けば料理人の頂点を決める大会で優勝したこともある経歴の持ち主だという。それならと期待を込めて雇用することになったのだが――


「なんだ、これは!?」

「いかがでしょう、旦那様?」

「菴田、食ってみろ!」


 またこの流れか、と執事は思った。しかしいくら何でも雇ったその日に解雇はないだろうと考え直す。彼は主が全く味と匂いを感じなくなってしまっていることを知らされていなかった。


「それでは失礼致します」


 行儀が悪いのは分かっていたが、菴田は前回同様に立ったまま仔牛のシチューをスプーンで掬って口に入れる。やはりこれまで経験したことのない素晴らしい味が口いっぱいに広がった。


 鼻を近づけずとも香ってくる濃厚なミルクとバターの香りが食欲を掻き立てる。溶けるまで煮込まれた野菜の甘味は、無性に二口目を掬いたくなる衝動を引き起こすほどだった。


 もちろんそんなことが許されるわけはなく、彼は後ろ髪を引かれる思いでナプキンで口元を拭うとスプーンを置いてから主に一礼する。


「どうだっ!?」

「はい、大変に美味でございました」


「なに!?」

「ど、どうされたのですか?」


 そしてあの時と同じ中年のメイドも試食させられたが、結果は変わらなかった。いや、最悪と言った方が正しい。佐伯中尉は料理人を呼ばせると、無言で眉間を撃ち抜いてしまったのである。


 周囲にいた使用人たちは息を呑んだが、悲鳴を上げる者はいなかった。声を出せば次に銃口を向けられるのは自分だと分かっていたからだ。


「旦那様……何ということを……」


 菴田も言葉を失い、しばらく呆然と立ち尽くすほかなかった。


 そして迎えた大格闘技大会当日の夕刻、大日本帝国陸軍中将の佐伯孝征が五人の伴を引き連れて突然屋敷を訪れたのである。執事はそれが何を意味しているのか分かっていたが、とにかく主を呼び戻すために日出ひで村に迎えを遣わせた。


「伯父上、お久しぶりにございます」

「智徳、息災であったか」

「はい。あの……」


 普段は市ヶ谷の大本営にいる伯父がわざわざ足を運んできた理由を、智徳は将官専門の医師か料理人を連れてきてくれたのだろうと推測していた。ところが伴の中に医師や料理人らしい者はおらず、五人はどう見ても憲兵だったのである。


「本日の御用向きは一体……?」

「味と匂いを感じないのは変わらず、か?」

「お、伯父上、それは屋敷の者たちには……」


 主の傍で中将の言葉を聞き、菴田は耳を疑った。しかし同時にここ数日の主の動向にも合点がいったのである。


「先日料理人を雇ったそうじゃないか」

「はい、ですが……」


「その日のうちに撃ち殺したようだな」

「それを誰から?」

「菴田だ」


 智徳が執事を睨みつける。本当なら即座に粛清するところだが、伯父の目の前で銃を抜くわけにはいかない。よって粛清は彼らが帰った後にするしかないと考える。しかしそれが叶わぬ思いであることを、この時の彼には知る由もなかった。


「料理人の名を覚えているか?」

「料理人の名、ですか? 申し訳ありません。覚えておりません」


「菴田、覚えているか?」

「はい、中将閣下。大河原おおがわら悠稔はるとし様にございます」


 料理人の名に様を付けて呼んだ執事を智徳は訝しんだ。しかし、次の伯父の言葉で彼は全身から冷や汗が吹き出すのを感じずにはいられなかった。


「智徳、我が大日本帝国陸軍大将閣下のお名前は存じておるな?」

「はい、もちろん。大河原克信かつのぶ閣下です……ま、まさか!?」


悠稔はるとし殿は大河原閣下の甥だ」

「そ、そんな……何故閣下の甥が屋敷に……?」


「私が閣下にお前のことを相談したのだ。するとご自身の甥に優れた料理人がいるとのことで遣わせて下さったのだが……まさかその日に撃ち殺してしまうとは」

「お、お待ち下さい! 知らなかったのです!」


 そこで智徳はようやく伯父が憲兵を連れてきた意味を理解した。


「菴田! お前は知っていたのか!?」

「はい。ですがお知らせする間もなく……」

「き、貴様!」


「智徳、菴田を責めるでない。この者はお前の仕出かしたことの罪の一端は自分にもあると処罰を申し出てきたのだ。少しでもお前の罪が軽くなるようにとな」

「…………」


「菴田、お前は今日をもって解雇とする。即刻屋敷を去るがよい。それをお前への罰とする」

「ははっ!」


 執事は孝征中将に深く一礼すると、それまで主だった智徳には一瞥いちべつもくれずにきびすを返した。


「さて智徳」

「はい……」


「今回はさすがに私も庇いきれん。大河原閣下のお怒りとお悲しみは計り知れんぞ」

「伯父上……」


「由緒ある佐伯家も、身内から罪人を出してしまってはもう終わりだ」

「申し訳ありません」


「一族の総意でもある。智徳、大人しく縛に就け」

「はい……」


 後ろ手に手錠をかけられた智徳は憲兵たちに囲まれて屋敷から連れ出されていく。主を失った使用人たちだったが、屋敷を維持管理するという名目で望む者はそのまま佐伯家に雇われることとなった。


 なお、佐伯中将は責任を取って退役。彼の言葉通りこの時を境に名門佐伯家も衰退の一途を辿る。捕らえられていた女性たちは無事に解放され、娘を殺された遺族も含めて十分な慰謝料が支払われることが決まった。


 しかし世間がそれらを知るのはもっとずっと先の話である。


「佐伯中尉の拷問は十日間続き、最後はガス室だったようです」

「拷問の様子が遺族や被害者に公開されたんだって?」

「はい。ですが実際に見学した人はいませんでした」


 俺はハラルとルラハに腕枕しながら、顛末の報告を受けたのだった。

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