第八話

 三千坪を超える自然豊かで広大な敷地は高く堅牢な壁に囲われ、東西にはクルマが優にすれ違える幅の門があった。見るからに屈強そうな守衛がそれぞれ四人体制で二十四時間立哨しており、当主以外はたとえ長く勤める使用人の出入りでも厳しいボディチェックが行われる。


 また南北には通用門があり、こちらは各二名体制で守衛が待機しているが立哨はない。彼らは守衛室で敷地に入る者の身分証の確認が主な業務となっている。


 この通用門を通るための身分証は、最低一年間使用人を続けなければ支給されない。身分証の提示だけで中に入れるためである。


 屋敷は一八六八年一月三日(慶応三年十二月九日)に勃発した戊辰ぼしん戦争で大きな功績を挙げ、後に設立された大日本帝国陸軍の英雄的存在の一人となった佐伯さえきひろしが住んでいた。言わずもがな、名門とうたわれる佐伯家の初代当主である。


 日出ひで村での大格闘技大会を三日後に控えたこの屋敷の主、帝国陸軍中尉、佐伯智徳とものりは夕食を口にした瞬間、訝しげに眉を寄せた。


「おい、今日のこれは何だ!?」

「何だ、と申されますと……料理長からは旦那様がお好きな最高級の松阪牛を取り寄せたと聞いております。まさかお口に合いませんでしたか?」


 傍らの執事、菴田あんだ晃睦てるよしが不思議そうに答えたが、智徳は彼の顔をジロリと睨みつけた。


「食ってみろ」


「わ、私が、でございますか?」

「他に誰がいる! いいから食え!」


 突拍子もない主の言葉の意味は理解出来なかったが逆らう選択肢はない。軽く口答えしただけで最悪殺されることもあるからだ。


「それでは失礼致します」


 行儀が悪いのは分かっていたが、主と同じ食卓に着くなどあり得ないため、彼は立ったまま肉をカットして口に入れた。


 その瞬間、これまで経験したことのない芳醇な香りと甘い脂が口いっぱいにハーモニーを奏で、鼻腔を抜けていく。噛まずともとろけるような食感は、まさに最高級松阪牛の名に恥じないものだった。


「どうだ?」

「はい、大変に美味でございました」


「なに!?」

「ど、どうされたのですか?」


「おい、そこのお前!」

「は、はいっ!?」


 呼ばれたのはメイド服姿の中年女性である。彼女はこの屋敷で勤めるようになって十年ほどだ。しかしその間に主から直接声をかけられたことなど一度もなかった。


「お前も食え!」

「えっ!?」


「言われた通りにしなさい。早く!」


 主の表情に怒りが見えたため、執事は素早く彼女に指示を出した。放っておけば撃たれる可能性があったからである。


「そ、それでは頂きます……美味しい!」

「何だと!?」

「ひぃっ!」


「旦那様、一体どうなさったと言われるのですか?」


「お前たち、俺をたばかっているのではないだろうな!」

「旦那様を謀るなどあろうはずがございません。本当にどうされたのですか?」


「もういい! 片付けろ!」

「はい?」


「料理長は今日限りでクビだ。そう伝えておけ」


 椅子を蹴るように立ち上がると、智徳はそのまま食堂を出ていってしまった。後に残された使用人たちはわけが分からなかったものの、主が怒っていたのだけは理解出来た。


 理不尽に解雇された料理長は気の毒に思ったが、自分たちの命があったことに一同は胸を撫で下ろしたのである。



◆◇◆◇



「料理長さんが可哀想です」

「彼が仕事を探し始めたら、条件のいいところを回してやれ」

「分かりました」


 佐伯家の様子を探る手段はむろん偵察型ドローンからの映像だ。


「しかし効果は覿面てきめんだったな」

「味覚だけではなく嗅覚も奪いましたから」

「嗅覚も?」


「はい。味覚の多くは嗅覚からも得られます」

「ああ、そうだった」


 様々な果物味のキャンディだが、元は同じで香料で異なる味を感じさせているのである。


「嗅覚を失っても何となく甘いとか辛いとかは感じられますが、両方を失ってしまえば食感さえ不快に思えることでしょう」

「それはキツそうだ」


「加えてアルコールを摂取してももう酔えません」

「うん?」


「空腹で眠れなければお酒に頼る他はありませんから」

「いや、アルコールの効果は元に戻してやれ」

「何故ですか?」


「食っても飲んでも味がしない。となれば確かにアルコールに依存するしかないだろうが、俺の思惑には反していない」

「と言いますと?」


「アルコールは適量なら体にいいが、度を過ぎれば毒でしかないからさ」

「なるほど、そういうことですか」


 男性機能を失い残った楽しみの一つ、食事も味を全く感じなくなってしまった。そうなると酒に溺れるのは目に見えて明らかだ。酒量が増え、いずれ健康が害されることは間違いない。


 もっともあの体格なら今のままでも健康とは言えないだろうが。


 ひと思いに殺してしまうより、楽しみがない人生は地味ではあるが苦痛が長く続くはずである。それでもし反省して悔い改めれば、その時こそこの世から退場させてやればいい。


 精神を病んで死ぬか、病気で死ぬか、女性たちに許しを請いながら死ぬかは今後の彼次第ということである。


 そうして三日後、ハラルとルラハを賭けた"美人姉妹の愛を勝ち取れ! チキチキ大格闘技大会"が開催される日が訪れるのだった。

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