【2】空気の牢獄

「――ッ、ちっ」


 重力に従い、無様にも舞台の上に倒れ込んでしまう。

 目の前で起こった出来事であるはずが、エールにはイクスの身に何が起きたのか、全く分からなかった。何故、イクスは上下逆さまになっていたのか。


「え、……あっ、ええっ!?」

「フラクトゥール、それは無駄な行為だ。きみの力は、私には通用しない」


 言葉を交わす最中、アヴェッツェは魔法を扱う。

 それはつまり、呪文を唱えずに、イクスの身を逆さまにしてみせたということだ。


「私には《逆さまの王》の魔法の欠片が取り込まれていることを忘れたのかね?」


 そう言って、アヴェッツェは左手の甲を向ける。そこには、黒に染まる紋章が描かれていた。


「《簡易呪文》……、それと《逆さまの王》の組み合わせか」


 受け身を取ることはできなかったものの、大した攻撃ではなかったのか、イクスの体は無事だった。安堵したエールは、同時に疑問を抱いた。


「冥土への土産に、効果を教えて差し上げようかね」


 気紛れから、アヴェッツェは魔法の欠片の効果を口にする。

 だが、エールは耳を疑った。


「……め、冥土への……土産って、……えっ?」


 現状、未だに把握できていなかったのは、エールのみだ。

 それがおかしくてたまらないのか、アヴェッツェはおかしそうに笑った。


「ウムラウトくん、今回の案内人は私が引き受けたのだ。その意味は、一つしかないだろう?」


 そこまで言われて、ようやく気が付く。

 エールは、アヴェッツェから距離を取った。


「今回の試練では、私がきみの相手を務める。ということはだ、きみは私との決闘に勝利しなければならない」

「そんな無茶な……」


 ヒルシュベルクの英雄に、勝てるわけがない。

 それどころか、此処はメルゼベルクの試練の舞台上だ。アヴェッツェを相手に生きて帰れるとは到底思えなかった。


「きみは罪人だ。無茶も屁理屈も一切、まかり通ることはないのだよ」


 覚えておきたまえ、と言い、アヴェッツェは更に口を動かしていく。


「《簡易呪文》は、補助型の魔法だ。私の左手と右手の甲には、それぞれ別の魔法が封じられている。これは封印術の簡易版であり、手首を回すことで呪文を介さず発動可能となる。勿論、魔力の上限や属性による制限を守らなくてはならないがね」


 稀有な魔法の欠片の《簡易呪文》を持つということは、魔法使い同士の戦いでは、常に優位に事を進めることが可能となる。これこそが、アヴェッツェを英雄へと押し上げた魔法の欠片の一つだ。


「それから《逆さまの王》についてだが、これは対象者一人を中心に、半径一メートル以内に存在する空間の重力を、一瞬だけ逆さまにすることができるのだ」


 瞬きする間もなく、イクスの体が上下逆さまになっていたのは、やはりアヴェッツェが持つ魔法の欠片の力が関係していた。


 エールは、視線をイクスへと移す。

 すると、いつの間にか黒剣を手に携え、臨戦態勢を整えるイクスの姿があった。


「き、きみ……何をするつもりだ?」

「加勢だ」


 その様子では、一戦交えるつもりのようだ。けれどもエールは、慌ててイクスの前に出る。


「止めろ! 相手はヒルシュベルクの英雄だぞ? きみ、何を考えて……ッ」

「お前はヒルシュベルク一の間抜けか? 自分の命が狙われていることを自覚しろ」


 魔法使いとは名ばかりの一般人が強がってはいけない。

 そうは言わなかったが、心の中では何度も同じ言葉を繰り返していたに違いない。今回の相手は、それほどまでに分が悪いのだ。


「お話は済んだかな、フラクトゥール?」


 特例の案内人となったアヴェッツェが、二人の間に割って入る。


「一応、これはメルゼベルクの試練の形式で進行しようと思っているのでね。ウムラウトくんには、三つの試練を乗り越えていただくとしよう」


 エールが死を迎える結末が同じだとすれば、それは無意味に等しい行為だ。しかしながらそれでもアヴェッツェはメルゼベルクの試練の考案者として、やり方を崩すつもりはなかった。


 そして、アヴェッツェはエールへと目を合わせる。


「それでは、第一の試練を与えよう」


 言い切り、アヴェッツェは右手の甲をくるりと回す。


「ぐっ」


 黒剣が、黒に輝く粒子を振りまいた。イクスが《発条の解放》を発動し、粒子が空を切ったのだ。しかし、アヴェッツェは特に驚くこともなく、《簡易呪文》によって封じられた魔法の欠片の力を発動する。


「フラクトゥール、きみの周りに見えない壁を作り出した。少しの間、そこで黙って見ているといいだろう」


 動きを止めたイクスに、アヴェッツェは右手の甲を見せる。青い紋章が淡く輝いていた。

 それは《簡易呪文》によって封じられた魔法を扱った証だ。


「くそっ、アヴェッツェ!」


 言われるように、イクスの周りには目に見えない壁が存在していた。これこそが、アヴェッツェが《簡易呪文》によって呪文を唱えずに発動可能な二つ目の魔法、《空気の牢獄》の力だ。


「《空気の牢獄》には、見えない壁が作られる。それはきみが持つ《壊れかけの眼》の短所を突くものだ。……そう、言わばこれは、対フラクトゥール専用魔法なのだよ」


 二十六秒間、対象者一人を瞳の中に映し続けることで、初めて《壊れかけの眼》は発動可能となる。だが、そこに障害物が存在していたとすれば、話は別だ。


「きみが持つ《壊れかけの眼》は、二十六秒もの間、対象者の姿を瞳に焼き付けなければならないわけだが、私を相手に、そんな悠長な条件を満たすことができるとでも?」


 透明とはいえ、アヴェッツェが扱う《空気の牢獄》には、魔力が発生している。故に、たとえイクスの瞳の中にアヴェッツェの姿を映し続けようとも、境目に《空気の牢獄》が作り出されているので、効果を発動することができない。


 けれども、アヴェッツェは「……だが、」と話しを付け加えた。

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