【3】ヒルシュベルクの英雄
ラルコスフィアの塔の最上階には、選ばれし者だけが入室可能な場所がある。
メルゼベルクの試練の考案者であり、ヒルシュベルクにおいて最も偉大な魔法使いとして名を馳せた人物、アヴェッツェ=エフツェットの間だ。
そこは、試練の協力者の中でも、極々一部の者しか、入室を許されていない。
その中の一人が、メルゼベルクの案内人のイクス=フラクトゥールであった。
「あれっ、なんじゃ? 何か用かの?」
イクスとエールが最上階まで上がると、そこに小さな男の子が立っていた。
「……あ、確か、ナアくん?」
その男の子に、エールは見覚えがあった。
メルゼベルクの試練を見に行った時、券のもぎり役をしていた男の子である。
「如何にも! わしはナア=ナイデンじゃ」
年に似つかわしくない喋り方のナアは、ニコリと笑い、白い歯を見せつける。
「こんなところで何をしてるの?」
「わしか? わしは此処の番人じゃからな、此処におって当然じゃろ」
「番人?」
何が何やら、エールには訳が分からなかった。
が、イクスが一歩前に出て、ナアの頭を軽く叩く。
「いだっ、何すんじゃ!」
「いるのか、いないのか」
ナアが抗議の声を上げたが、イクスは素知らぬ顔だ。
ふぐうっ、と唸るナアは、イクスとエールを交互に見る。
「……ふぬ、わしに会いに来たんじゃな?」
「えっ」
悪戯っぽく笑い掛け、ナアは腕を組む。
顎を上げ、「くふふふふっ」と声を出して頷いた。
「お主、エールと言うたの? わしに会えたことを人生最大の幸運じゃと思うがよい!」
瞬間、イクスが二度目の拳を頭に叩き込む。
でも、へこたれない。ナアはイクスから距離を取り、エールの前へと移動する。
「ナア=ナイデンとは仮の名じゃ、わしの真名はアヴェッツェ=エフツェット、偉大なる魔法使いじゃ!」
「ま、まさか、……貴方が?」
俄かには信じがたいが、自身に満ち満ちたナアの姿に、エールは後ずさりする。
「嘘を吐くな」
「うがっ」
と、追撃がナアの背中目掛けて命中する。
小さな男の子を相手に、イクスが蹴りを入れたのだ。
「あにすんじゃこんボケが!」
床にズッコケるが、それでもすぐに立ち上がり、頬を膨らませてイクスに文句を言う。
「お前はただの小間使いだろうが」
その台詞を聞いて、ようやくエールは把握する。
ナアは、エールをからかっていたのだ。
「……ナアくん」
ばつの悪そうな顔で、ナアが視線を逸らす。挙句には口笛を吹き始めた。
「行くぞ」
「あ、待ってくれ」
これ以上、ナアの相手はしていられない。
イクスは扉の前に立ち、二度叩く。すると、
「――入りたまえ」
扉の奥から、歳を重ねた者の声が聞こえる。
イクスが扉を開け、中へと入っていく。一方、エールはというと、緊張に顔を強張らせながら、ぎこちなく前へと歩く。左右の手足が一緒に出ていた。
「やあ、よく来たね。昨夜の試練で会って以来かな」
「お前の記憶が定かならばな」
回りくどい言い方で、棘の仕込まれた台詞を口にする。
しかし、アヴェッツェは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「はっは、私の頭がボケるのは、残念ながら百年以上先のことになるがね」
「ちっ、老害が。早く地獄へ落ちろ」
互いを牽制し合うでもなく、まるで当たり前のことのように、口撃を交わす。その様子を、エールは不安気に見つめていた。蚊帳の外にいることを憤慨せず、むしろ安堵している。
「……おや? フラクトゥール、そちらのジェントルマンは……」
すると、エールの姿が視界に入ったのだろう。アヴェッツェは、エールに視線を移す。
「ただの付録だ、気にするな」
「ああ、なるほどね。きみは異性よりも同性を好んでいたのか」
「死ぬか?」
小指を立てるアヴェッツェに、イクスは中指を立てて反応を示す。
「ああ、そう言えば先ほど決定したことなのだがね、次回の御客様は彼にすることにした。是非とも、無礼な態度で臨んでくれたまえ」
無礼な態度を取ることが、メルゼベルクの試練の案内人の役割だ。それを承知の上で、イクスは新たな案内人となった。
「……こいつ、罪人なのか」
情報が書かれた紙を手渡され、イクスは眉根を寄せる。
その姿に、エールはなるべく足音を響かせないように、イクスの背後へとそっと近づき、後ろから覗き込んでみた。
「ルブレア=アイレースト氏? この人って、あの……」
名前を口にする。
その人物の顔を、エールは見たことがあった。
「そう、今話題の二枚目魔法使いだね。しかし私の目にはフラクトゥールも負けず劣らずと思うのだが……きみの意見はどうかな?」
「ぼ、ぼくの意見ですか? いや、その……確かに彼は、えっと……って、いやいや! ぼくはこの男が大嫌いですから!」
「それは愛情の裏返しか何かか。それならオレと共に行動するな、間抜け」
「う、うるさいんだよ、この成金魔法使い!」
遂には、アヴェッツェ本人にからかわれてしまい、エールは我慢の限界に達した。
とはいえ、正直に言えば、単に口が滑っただけのことだが、エールは申し訳なさそうに顔を上げ、身を縮こませていた。
「申し遅れたね、私の名はアヴェッツェ=エフツェットだ」
ヒルシュベルクの英雄に握手を求められたエールは、全身をガチガチに強張らせたまま、パクパクと口を動かす。
「あ、貴方を知らない人は、ヒルシュベルクには一人もいません!」
目を合わせる行為が、果たして自分には許されるのだろうか。エールは、そんなことを考えてしまう。目の前に立つ人物が、それほどまでに雲の上の存在なのだ。
「ぼくは、エール=ウムラウトと言います! ヒルシュベルク一の魔法使いを目指して、一人旅を続けています!」
自己紹介を済ませたエールは、全く意識をしていなかったわけではない。
だが、あまりに緊張し過ぎていた故に、それを忘れていた。
「触るな」
二人の間に割って入るのは、残る一人の魔法使いだ。
エールとアヴェッツェが握手を交わす直前、イクスは口を挟む。
「ッ、ちょっと、何をするんだ」
偉大な魔法使いに握手を求められたことで、エールは胸が躍っていた。しかしながらそれを止めたのは、此処に連れてきた人物であった。
「忠告を忘れたか、間抜けが」
「……あっ」
言われて、ようやく気が付いた。
アヴェッツェには、絶対に触れてはならない。確かに、イクスは言っていた。
何故、アヴェッツェに触れてはならないのか。エールには知る由もなかったが、だがしかし、エールはイクスの忠告を守ることに決めた。
慌てた様子で手を引っ込めると、エールは視線を彷徨わせる。
「はて、……ウムラウト、きみは何故、私との握手を拒むのかな?」
笑い掛けてはいるが、目は笑ってなどいない。
その顔はまるで、エールの心の中を見透かそうとしているかのようだ。
「あ、あの、……すみません! ぼくも事情は理解してないんですけど、その……」
「お前みたいな糞ジジイには指一本触れたくないんだとよ」
「おっ、おい!」
助け舟と言うべきか、それとも悪化を促す行為と見なすべきか。エールは、両方に受け取れると思えたが、アヴェッツェの目がイクスに向けられたことで、落ち着きを取り戻す。
だが、一度生まれた歪みは、そう簡単には修復されない。
「……フラクトゥール、きみは約束を違えたか?」
全ての真実を見抜くかの如く、アヴェッツェは低い声で問いかける。
それに対し、イクスは右の手を前へと差し出した。
「疑うか、ならば手を握れ」
彼等のやり取りが、エールには意味不明に映る。
互いに思考を巡らせ、相手の考えを見抜こうとしているようにも思えた。
「くく、その必要はないだろうね」
けれどもそれは、すぐに終わりを迎えた。
アヴェッツェは、両手を上げて首を横に振る。
「頑ななきみのことだ、彼には何も教えていないのだと、信じようではないか」
「人を信じることを忘れた奴が、ほざくな」
アヴェッツェを睨み付け、イクスはゆっくりと息を吐く。それ以上踏み込むのは危険と察したのか、アヴェッツェは一歩後退する。
「それで、此処に来たのには、それなりのわけがあるのだろう? 話してみたまえ」
革製の座椅子に腰掛け、アヴェッツェは足を組む。
ようやく、本題に入り始めた。
「今し方、城下町の魔法の欠片専門店で窃盗騒ぎがあった。二人組と思われる奴らの片割れは、風魔法で分身を作り出す」
アヴェッツェは、背を前に出し、身を乗り出すように耳を傾ける。
「だが、問題は別にある。奴は分身であるにも関わらず、魔法の欠片を体内に取り込んだ」
そんなことが、果たして可能か否か。疑問を突き付け、イクスは正解を求めた。
すると、アヴェッツェは口元を緩ませ、何度か頷いてみせる。
「フラクトゥール、きみは二度も騙されたのだ」
「……二度だと?」
その通り、とアヴェッツェが返事をする。
「いいかね、フラクトゥール。ヒルシュベルクは魔法の欠片と魔石の恩恵に与ることで、成り立っていると言っても過言ではない。それは君達人間が如何に劣った存在であるかを証明している。……では、問おう。別の力を借りるだけの、無力な存在に過ぎない人間が、たかが分身に魔法の欠片を取り込むことが、本当にできると思うのかね?」
二度、騙された。その言葉を聞いたイクスは、アヴェッツェの耳には既に欠片泥棒の情報が入っていることを知った。アヴェッツェは、イクスが此処を訪ねるよりも前に気付いていた。
欠片泥棒の片割れが分身を扱い、まんまとイクスを騙し抜いたことは、本来、アヴェッツェが知るはずのない出来事だ。あの場に居合わせなかったのだから、それは至って冷静で正しい考えであると言えよう。
しかし、この世には例外が存在する。アヴェッツェには、それが不可能ではないのだ。
彼が持つ魔法の欠片の中には、遠見の力を得る物がある。その魔法の欠片を扱うことで、全てを知ることができるのだ。
そして、もう一つ。イクスは何を騙されたのか。
それに気付いた時、イクスは此処に留まる意味がないと悟り、くるりと背を向ける。
「邪魔した。帰るぞ」
その姿を目で追って、アヴェッツェは座椅子から腰を上げる。
「あっ、待ちたまえ! ……あの、失礼しました!」
このまま、此処に残っていても意味がない。エールは礼儀正しく頭を垂れると、イクスの背を追いかける。そして、それを止めるのはアヴェッツェだ。
「ウムラウト、髪の毛にゴミが付いているね」
「えっ?」
声を掛けられ、エールは後ろを振り向いた。
皺に塗れた左手で、アヴェッツェはエールの頭部に触れる。
「……さあ、これでいい。愛する彼の許へ行くといい」
「ち、違いますよ!?」
真っ赤な顔のエールは、グルグルと目を泳がせる。それからすぐに、部屋の外に出て行く。
それからゆっくりと扉が閉められる。部屋の外に、人の気配は無くなった。
「また会おう、ウムラウト。次は舞台の上で……」
二人と別れたアヴェッツェは、エールに向けた言葉を、そっと呟く。
その言葉を聞いた者は、一人しか存在しなかった。
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