犯罪心理抑制チップ : 2024年10月
【冷や汗が止まらなかったんだ】
日本は、犯罪大国に成り下がっていた。
21世紀初頭、殺人罪の検挙率は99%を誇っていた。しかし、現在の検挙率は40%を割ることもあり、治安の悪化は目を背けたくなるものがあった。
ここまで治安が悪化した理由はいくつか考えられるが、まず一番に挙げられるのは、企業の異常なまでの内部留保確保が社員給与を圧迫しており、昇給も低上昇率であるため、物価上昇について行けず、生活が逼迫している人が増加していることである。
景気は良いはずで、日経平均株価は過去最高値を更新し続け、市場は沸きに沸いていた。にもかかわらず、生活逼迫者が増加しているという、この社会現象が犯罪増加に拍車を掛けているというのだ。
もう一つの問題は、外国人居留者の増加である。日本は特に、その文化、習慣から海外とは異なるルールや法律、不文律のマナーが数多く存在し、海外では許されることでも、日本では許されないことが多々ある。
故意に犯罪を行うために来日した者は言語道断だが、未必の故意、もしくは違法性の錯誤による犯罪も、外国人増加に伴い増えているのだ。
日本のマナーやルールを学び、法律を遵守している者は特に問題はない。
しかし、犯罪を行うかも知れないと思いつつも、そんなことは知ったことかと学ばない、もしくは、母国では許されたから、日本でも大丈夫だろうと違法性を知らずに犯罪を行う。
軽犯罪で、注意喚起や留置によって反省を促す程度で済めば良いが、それが生活環境や治安の悪化を招き、トラブルや揉め事、刃傷沙汰に発展し、人の命や財産への被害にまで及ぶケースも多分にあり、看過できない状況になっているのだ。
この現状に、漸く重い腰を上げた政府は、犯罪防止・抑止・撲滅に関する有識者会議を設けた。数ヶ月にわたる会議の議題は多岐にわたり、その内容も現実的なものから、荒唐無稽なものまで様々な案が提唱された。
防犯の基本は、〔領域性・監視性・抵抗性〕と言われており、会議はこの三つについての洗い出しから始まった。
領域性とは、犯罪がしにくい場所を確保することで、例えば塀やフェンスなどで境界を区切り、侵入、逃走経路を限定したり、防犯意識が高い地域であると示す警告看板を設置したりすることで、犯罪者を寄せ付けないことがこれに当たる。
監視性とは、文字通り監視することで、防犯カメラや巡回警備、さらには市民による見廻りや、声かけなどもこれに当たる。
抵抗性とは、犯罪がおこなわれた場合、それに対し抵抗することで、例えば護身術や、駆け込み場所の確保、様々な防犯グッズによる犯罪抑止や救助要請、さらには犯人逃亡を阻止する様々な仕組みがこれに当たる。
この有識者会議においては、日本の犯罪率の上昇とその原因は、この三つが不足している事による犯罪抑止が効かなくなってきていることが、主な原因であると結論づけられようとしていた。
しかし、いくら防犯カメラや巡回警官を増やしたり、地域ぐるみで防犯活動をしたりしたところで、髙が知れている。なぜなら、性善説が成り立たない現状で、人の目が犯罪抑止となっていた過去とは違い、犯罪を行おうと思えばいくらでもできる状態で、その結果が現在の〔犯罪天国日本〕という汚名なのであるから。
こうして議論は白熱し、会議は紛糾を重ねた。
例えば、現在大きな問題になっている経済的不平等の解消としては、企業の内部留保適正値を設け、超過分は給与に反映する法律を制定するとか、最低賃金の引き上げや中小企業への補助金などで、緩和、解消していくというものが提案された。
しかし、それに対し、財政的負担を強いれば、税金が上がり、ますます市民は困窮することになる。また過度に補助金へ依存した体制は、経済的自立を阻害し、長期的には生産性の低下が懸念される。
故に、経済支援などの場当たり的な対処では、犯罪率の低下は限定的であり、基本的な社会構造の問題に対処しない限り、根本的な解決にはならず、将来的には、反動による急激な犯罪率増加を引き起こしかねない、とする意見が出された。
外国人居留者に対しても、日本の法律、文化、マナーを教育するプログラムを充実させることで、未必の故意や違法性の錯誤による犯罪を防止できるとした。
また、多言語での情報提供と教育機会の提供を促進することで、特に外国人が多く居住する地域においては、地域住民と警察が協力し合うコミュニティポリシングが促進され、地域一丸となって外国人受け入れ体制を整えていくことができる、と言う提案がなされた。
しかし、これに対しても、教育プログラムの人員、予算、場所の確保、地域住民に対する負担増加もさることながら、そもそも、学ぼうとしない外国人を、学ばせる体制を作らなければ、根本的な解決は望めない、とする意見が出された。
結局ああ言えばこう言うで、結論が出ないまま会議は進んだ。
他にも、法律遵守の推進と犯罪抑止として、日本人も含めた法律学習の機会を提供したり、防犯カメラやドローンによる巡回によって得た情報を一元管理し、そのビッグデータを活用した、生体識別による犯罪者、犯罪予備者の割り出しシステムの開発をしたり、厳格な犯罪処罰法の導入で、犯罪抑止を促進したり、と言った提案がなされた。
さらには、精神的健康支援と社会福祉プログラムの拡充や、住環境の改善によって、犯罪発生の低減を促進したり、国際協力による犯罪者情報の共有をして入国を阻止したり、政府、民間、市民が協力し、犯罪防止に関する意識高揚と協力体制の構築をしたりするなど、様々な案が出てきたが、どれも決定打に欠けていた。
そんな中、
現在、政府が進めている、マイナンバーの生体チップ化計画に、この犯罪心理抑制チップを組み入れることで、犯罪発生率低減の効果が期待できると、彼は提言した。
仕組みはこうだ。
マイナンバーを生体チップにして人体に埋め込むことで、カードの発行や更新の手続きが不要になり、またカード紛失によるなりすまし等の犯罪防止のため、国民および、在日外国人はすべて生体チップ装着を義務づける法案が、国会で審議されている。
この法案が実現すれば、全国民が生体チップを装着することになり、そのチップに、犯罪抑止効果のある微弱な生体電磁波を発信させることで、全国民が犯罪をしようという気持ちが起きにくくなり、犯罪が発生しにくくなるというのだ。
あまりにも荒唐無稽な話でありながら、九楽孔明の示した、刑務所での実験データがあまりにも詳細で、精密で、緻密で、完璧だったので、人々は説得力があるように信じ込んでしまったのだ。
会議参加者からは、プライバシーや倫理に関する問題、健康への影響や、悪用される懸念など、多岐にわたって疑問が呈されたが、九楽孔明はすべて問題ないと一蹴した。
なぜなら、マイナンバーとセットになったチップであり、情報が抜き取られる心配は皆無であり、万が一抜き取られたとしても、生体情報と本人だけが知る暗証番号と、チップの製造番号が一致しなければ、情報を参照することも、抜き取ることさえ出来ないのだ。
ましてや、犯罪心理抑制チップは生体エネルギーを利用して電磁波を発信するだけなので、外部から何かをしようとする意味もないし、したところでチップや人体への影響は皆無である。
そして、一番懸念するところの健康への影響だが、発しているのは微弱な生体電磁波で、この電磁波は元々人体から発しているものであり、その電磁波を利用しているに過ぎないため、心理的な抑制効果以外に人体への影響、特に健康面での影響は皆無である。
九楽孔明の流れるような説明に、会場は静かに聞き入り、その後反論を呈することはなかった。
こうして、会議の主目的はチップの導入に関するものへとすり替わり、政府への提言も含めた、チップの導入に関する手順や、運用面に関する詳細を詰める内容へと変わっていった。
この日の会議が終わり、助手の
「冷や汗が止まらなかったんだよ。」
研究室へ向かう
「どうしてです。すべて先生の思惑通り順調で、チップ導入も前向きに決まったじゃないですか。」
「それはそうなんだが、私の鞄に仕込んでおいた、反対心理抑制の電磁波が利くかどうか微妙でね。まあ主立った反対派は軒並み賛成してくれたから、実験は成功したのだけど、やはり実践使用というのは、いつも冷や汗ものだよ。」
「たしかにそうですね。先生が常日頃おっしゃってますよね、実践では何が起こるか分からないって。先生でも冷や汗をかくほど緊張されるもんなんですね。」
「そりゃそうさ。いくつになっても、何度やっても、実践というのはある種恐怖心を煽る呪詛みたいなものだからな。」
「呪詛ですか。それは恐ろしいですね。」
「だから、その呪詛を払うためにも、成功させる必要がある。そう考えてるんだよ。」
「なるほど。私も肝に銘じます。」
九楽孔明は、助手とのたわいない会話を続けながら、頭の片隅では秘かに考えている計画について考えを巡らしていた。
【嘘をついた理由】
九楽孔明は、今回参加している有識者会議において、自分が開発している〔犯罪心理抑制チップ〕の導入を前面に認めさせようと画策していた。
しかし、それはあくまでも表向きの話であり、じつはこのチップ、正式名称を〔心理制御チップ〕と言い、生体電磁波によって人の心を操ることが出来るのだ。操ると言っても、心理的、生理的欲求を満たそうとするだけで、そのきっかけを与えるに過ぎない。
例えば、チップによって楽しいことがしたいと言う風に制御すれば、その人が楽しいと思うこと、趣味に没頭したり、映画やドラマを見たり、運動をしたりと、抑制の利かない状態で、快楽を覚えることを積極的にしようとするのだ。
逆に悲しいことをしたいと言う風に制御すれば、本人が悲しいと思うこと、悲劇の映画やドラマなどを見たり、人に罵倒を浴びせたり、犯罪を行ったりして、悲しみに暮れようとしてみたり、抑制が利かない状態で様々な、積極的に悲しみを求める行動をするようになるのだ。
このチップの恐ろしさは、それだけに留まらない。
人の心理を操れると言うことは、本人には操られているという自覚がないことである。自分の欲望に忠実になっているだけで、したいようにしているに過ぎないと考え、操られているなんて事は微塵も考えられないのである。
なぜ、九楽孔明はこんな嘘をついてまで、このチップの導入を画策していたのかと言うと、復讐である。
彼は、この腐った世の中に復讐したいのだ。幼少の頃からいじめられ、理不尽な仕打ちを受けてきた。そして、いじめを犯罪者として扱わず、放置しているこの世の中に対し、制裁を加えてやりたいのだ。
幼少期から天才、神童と持て囃された彼は、大人たちには良いように利用され、同級生からは煙たがられ、執拗にいじめられた。命の危機に直面したことも屡々で、天才的な策を弄してなんとか危機を逃れてきたのだ。
最初は幼稚ないじめだった。無視や陰口、物を隠されたり、持ち物に悪戯されたりしたこともあった。それが、徐々にエスカレートし、暴言を言われたり、ネットで捏造された噂を流されたり、カツアゲされたり、仕舞いには暴力を振るわれ大怪我を負うまでに至った。
自分で救急車を呼び、病院へ行ったが、親に理由を話しても、何もしてくれなかった。いや何もできなかったのかも知れない。
そこで、彼は入院中から準備を始め、報復を開始した。
まずは、彼が得意とする情報操作である。
加害者たちの蛮行をSNSに投稿し、火が着いたところで、学校のホームページをハッキングして、校長の悪行から学校の実態、加害者の実名と顔写真を入れて数々の非道を暴露した。当然これをマスメディアにもリークする。
すると、彼の思惑通り大炎上し、ニュースでも取り上げられるまでに至った。
マスコミが大量に学校に押し寄せ、生徒や先生にインタビューを試み、校長はもちろんのこと、教育委員会も記者会見をするまでに事態は発展し、学校の評判は地に落ちた。
たが、彼の報復はそれで終わりではなかった。
評判というのは数日も経てば忘れられてしまう。ましてや学校の評判である、スキャンダルがあった学校の名前なんて、喉元過ぎれば地元の人間以外はすぐに忘れられてしまう。
そのため彼らを社会的に抹殺するためにも、次の手を打った。
それが、不適切な合成画像や捏造情報のばらまきである。
加害者はもちろんのこと、校長、担任などのコラ画像を大量に作り上げ、学校名や氏名、住所などの個人情報付きで、SNSはもちろんのこと、学校や市、その他公共機関や企業のホームページにハッキングして載せた。
またネットだけではない。街頭にあるネットワークに繋がったアドボードにも掲載してやった。そのせいで、街中で話題になり、加害者が街を歩くたびに後ろ指を指されるようになったのだ。
これを、定期的に、ゲリラ的に載せるようプログラムして、当然発信源を特定されないよう、ネットワークの経由場所も複数箇所を迂回し、IPアドレスを偽ることも忘れない。 そして、このプログラムをパッケージにして、世界中のPCにばらまく。これで、自分の手を煩わせることなく、半永久的にこのプログラムが起動し、彼らの醜態がさらされることになる。
あれから、30年以上が経ったが、いまだに街のアドボードやホームページには、定期的に彼らの醜態が上がっている。そのたびに九楽孔明は溜飲を下げている。また、その後彼らがどうなったのかは、知る気もないが、社会的に抹殺されたことは確かだろう。
研究所の一室で、九楽孔明はチップ導入の計画に考えを巡らせていた。
「先生、チップの最新実験データが上がってきました。確認をお願いします。」
伊中芳道がタブレットを持って現れた。
「分かった。」
そう言って、パソコンの画面を開き、研究所のサーバーに上がっている実験データを確認した。
「ところで先生、このチップなんですが、倫理的に大丈夫なんですか。」
「なぜだね。」
「チップ自体は素晴らしい効果があると思うのですが、まるで感情を持つことが悪であるかのように捉えられてしまうような、そんな気がするのです。折角の研究が倫理的に糾弾されるのは、忍びないのですが。」
「確かに君の言うとおり、倫理的には問題があるかも知れない。しかし、物事は大局的に見なければいけない。
倫理観というのは、人や時代、流れによっても大きく変わる。
例えば、江戸時代は侍が問答無用で人を切り捨てることは、殺人罪に問われなかった。しかし、明治以降はすべての人間が人を殺せば殺人罪に問われることになった。ただし、軍隊を除いてだ。つまり軍隊は殺人罪と言う倫理の外にいるわけだ。
逆に軍隊では人を殺せば殺すほど評価が上がり、出世できる。市井とは完全に真逆の倫理が働いているのだよ。
このように、倫理観というのは、時と場所、立場によってすべて異なる。十人居れば十人が違う倫理観になるのだよ。
だから、そのような倫理観というもので、このチップが駆逐される心配はいらないと言うことだ。」
「そうですね。私の取り越し苦労でした。研究員たちが色々言ってるものですから、少し心配になってしまいました。」
「まあ、心配になる気持ちも分かる。何事も最初というのは、心配の種が尽きないものだ。そう言う種は、一つ一つ潰していくしかない。気になることがあったらいつでも相談してくれ。」
伊中芳道にそんなことを言いながらも、九楽孔明自身心配はしていた。
有識者会議では反対心理を抑制する電磁波と、彼の口車で導入が前向きに検討されることとなったが、国会や国民が伊中の言うとおり、賛成するとは限らないのだ。
常識的に考えて、〔犯罪心理抑制〕と名はついているが、要は心理を強制されるわけで、どこぞの独裁国家がやる恐怖政治と、やってることは何ら変わらないのだ。独裁国家は恐怖によって行動を制限し強要するが、このチップは心理面を操られて行動が強要されるだけの違いなのだ。
しかし、九楽孔明にも人生を掛けたこの戦いに負けるわけにはいかないのだ。犯罪まがい、いや犯罪を行ってまで、加害者たちに復讐してきたのだ。いまさら後には引けない。犯罪防止・抑止・撲滅に関する有識者会議に呼ばれ、漸くチャンスが巡ってきたのだ。
九楽孔明はこれまでの人生で感じたことのない充足感を味わっていた。加害者や学校関係者を撃退した時以上の充足感だ。
なぜなら、これから自分の手で、社会に制裁を加えることができるのだ。いじめという犯罪者を放置しているこの社会を、自らの手で大義名分をもって制裁を加えることができるのだから、心が弾まない訳がない。
チップを導入できれば、人々の心は思いのままである。これで、自分に危害を加えてきていた連中を陥れ、さらには社会をひっくり返すことができるのだ。
虫ほどの良心に苛まれながらも、九楽孔明はほくそ笑みながら、チップ導入を画策していた。
【愛想笑い】
〔犯罪心理抑制チップ〕正式名称〔心理制御チップ〕は順調に開発が進められていた。実験をおこなうたびに、トライアル&エラーを繰り返し、微調整を重ねてきた。
チップ自体の問題はさほど大きくはない。むしろ誤差の範疇である。
しかし、助手の伊中芳道からも指摘された、倫理観の問題や社会的影響に対する問題など、解決しなければならない問題は山積みで、その壁を突破しなければ、導入に漕ぎ着けることは難しいだろう。
頭の固い政治家連中を説得するのは面倒だが、そこを突破しないことには、彼の野望は実現しないのだ。
しかし、九楽孔明は確信していた。
なぜなら、このチップ以上の犯罪抑止効果を望めるものは存在しないからである。
チップ自体の機能は心理制御であるが、犯罪心理を抑制することも当然できるので、効果としては100%確実なのである。
そして、なにより、有識者会議に参加している連中を丸め込むのは、赤子の手をひねるより簡単だからだ。
こうして準備を着々と進める中、再び有識者会議が開かれた。
今回の議題は、「〔犯罪心理抑制チップ〕の取扱いに関する、政府への提言について」であった。
要は、政府に対し、どのように提言するかを纏めると言う内容で、チップ導入を前提に話が進んでいるのだ。
提言内容には、九楽孔明の意見が大いに取り入れられる形をとり、彼は終始上機嫌で、得意げに説明をし、意見を述べ、会議の主導権を握っていた。
ところが、会議も中盤を過ぎた頃、突然会議室の入り口が開き、総理が誰か見慣れない人物を伴って入ってきた。
「皆さん、会議を中断させてしまって済みません。会議の進捗はいかがでしょうか。何か凄い案が提案されたと言うことを耳にして、居ても立ってもいられなくてね。」
総理は、会議室の上座に通されると、そう一言述べて、連れてきた人物を紹介した。
「彼女は犯罪心理学の専門家で
この防犯チップを、今政府が推し進めているマイナンバーのチップ化と併せて導入したいと考えていますが、諸先生方の忌憚ない意見を拝聴したいと思い、お時間を頂きました。
詳しいことは、教授の方からお願いします。」
総理はそう言って、中芝理音に話を振った。
「皆様突然重要な会議の最中にお邪魔して申し訳ございません。
東京大学で教鞭を執っている中芝理音と申します。よろしくお願いします。
中芝製作所の所長と言った方が、もしかしたら通りが良いかもしれません。」
そう口火を切った中芝理音は、自信に満ちあふれた表情に、穏やかな口調だった。
中芝製作所と言えば、コンピュータチップの大手企業で、〔Nakashibaのチップ〕で名を馳せ、海外でも引く手数多の高性能チップとして名が知られている。
そこの所長が、総理に連れられてきたのだ。九楽孔明にとっては気が気ではない。今まで自信に満ちあふれていた表情は、一挙に青ざめ、力なく椅子にへたり込んで、黙り込んでしまった。
中芝理音は説明を続けた。
「私どもが開発した〔防犯チップ〕をご紹介します。
犯罪とは、犯罪者が置かれた社会的立場、地位、環境によって、発生するのです。ですから、これまで防犯と言えば、孤立させない、立場や地位を悪用させない、犯罪が起きにくい環境を作り上げるといったことに終始していました。
しかし、性善説が破綻したと言われている現在、犯罪者が犯罪者になり得る原因は、その感情、心理にあると私たちは考えました。
犯罪心理は、主に、激昂型、自己顕示型、欲求不満型、恐怖型、依存型の5種類に分類でき、細かく分類すれば、この他にもいくつかありますが、凶悪犯の多くはこの5種類に分類できます。分類の細かい説明は、ここでは省きますので、お手元に配信した資料を後ほどご覧になってください。
私たちは、この分類を元に、様々な心理学的実験と、生体ホルモンの関係を長年調査してきました。その結果、〔エイレーニア〕と名付けたホルモンを発見しました。
このエイレーニアは、テストステロンなどの感情を高ぶらせるようなホルモンの分泌を抑え、感情を穏やかにします。これにより、激昂型や恐怖型のような感情に左右される犯罪は100%抑止できると考えています。
そして、このエイレーニアはホルモンバランスの調整を担うことも分かっており、様々な心理的不満や欲求を抑制できることも、我が社の実験で証明されています。
この〔防犯チップ〕はエイレーニアの分泌を促す電気信号を脳に送ることで、一定量を常に分泌させ、生活への満足感を上げ、多幸感を促進し、犯罪を根本から抑制できると考えています。
チップは生体電気を利用するため、体内で半永久的に稼働が可能であり、またホルモンの分泌を促すだけですので、健康への影響も皆無と言えます。
マイナンバーチップに組み込むことで、国民の負担も一度で済みます。いかがでしょうか。皆様の貴重なご意見を賜りたく、よろしくお願いします。」
中芝理音が話し終えると、会議室から拍手が巻き起こった。
九楽孔明が〔犯罪心理抑制チップ〕を紹介した時とは段違いの反応である。チップを埋め込むという心理的ハードルが下がっていたこともあるが、実は九楽孔明も気づいていなかったのだが、彼の鞄に仕込んでいた、〔心理抑制機〕が稼働していて、反対心理を抑制していたのだ。
「中芝先生、ご説明ありがとうございます。」
会議の進行役が、話を始めた。
「
我々はあくまでも犯罪防止に関わる提言を纏め、政府に提出することであり、どちらかに優劣を付けるものではありません。
皆さんも突然の話で、今ここでどうこうと言うことはできないと思います。犯罪抑止は総合的な問題であり、解決方法も多角的に検討する必要があります。
従いまして、九楽先生と中芝先生のご提案は、政府に対しチップ導入の検討を促すと言うことで纏めたいと思いますが、いかがでしょうか。」
会場からは、「異議無し」の声が多数聞こえ、特段反対する者はいなかった。
それを聞いた司会者は続けた。
「ありがとうございます。特に反対等のご意見がないようなので、提言の内容については、これまで九楽先生のチップ導入で纏めていました提言をそのまま流用し、中芝先生のチップも併記すると言う方向で纏めさせていただきます。
なお、どちらのチップを政府が採用するかについては、政府に判断を委ねることにはなりますが、おそらく、導入時および導入後の維持管理にかかる費用、いわゆるコストですね、それと効能、効果の有用性、実用性などを、総合的に検討した上で、入札形式等で導入を決めるという形になろうかと思います。
その他、細かい点については、事務方で纏め、次回の会議で確認を取ります。
以上となりますが、ご質問やご意見等はありますか。」
参加者からは細かな点が、質疑応答のような形で、中芝理音にも、九楽孔明にも寄せられ、中芝理音が堂々としていたのに対し、九楽孔明はこれまでの自信に満ちあふれた態度とは一変した。
彼は、自分のチップが導入されるとばかりに思っていたのが、土壇場になってひっくり返された気分で、それでも、なんとか食い下がろうと、終始愛想笑いを浮かべ、質問に答えるしかなかった。
<完>
【後書き:2024年10月】
ご一読いただきありがとうございます。
2024年10月に提示されたテーマは【冷や汗が止まらなかったんだ】【嘘をついた理由】【愛想笑い】です。
思ったより長文になってしまいました。少し設定が細かく、盛り込みすぎてしまったと、反省しきりです。ただ、面白い内容ができたかなと自負しています。
今回提示されたテーマは、どれもSFとは縁遠いもので、正直何も思い浮かびませんでした。当初は、主人公が
そんな慌てふためく主人公を想像していたら、感情をコントロールするチップを思いつき、そこから、犯罪社会を抑止するチップを導入する話と、想像が膨らみました。
こうして完成したこの話ですが、あまりSFっぽくなかったかも知れません。テーマがテーマだったので、どうしても主人公の感情に寄ってしまいました。
済みません、ただの文章が長くなったという言い訳です。
この作品をあなたはどう感じましたでしょうか。
この作品が思索のきっかけになれば幸いです。次回は11月になります。よろしくお願いします。
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