6-聖母山田
佐仁田が教室に入ると、軽い歓声が上がった。教室に残っていた女生徒たちの声だ。
「佐仁田先生! 何しに来たんですか?」
クラスメートの一人が声をかける。
「龍造寺さんと山田さんが分からなかった問題があったという事なので、それを教えに。皆さんも、分からないことがあれば何でも聞いてください」
「えー、いいんですかー!?」
語尾を間延びさせて話す女生徒。もう少し上品に話してほしいものだ。
「ええ。でもまずは、龍造寺さんたちの問題を解説してからです」
相変わらず腹の立つにこやかな笑みを浮かべた後、佐仁田は私たちに向き直る。
「ええと、小テストの最後の問題でよろしいでしょうか?」
「はい!」
元気に答える山田さん。
「そうですね」
私も一応、敬語で答える。
全く、なんで下僕に敬語なんか……腹立たしい。
「でしたらまず問題文から見ていきましょうか」
そう言うと、佐仁田は回答されていない小テストを取り出す。
「まず、ここを見てください。ここの値と、ここの値が重要です。加えて重要なのが―――」
すらすらと説明していく佐仁田。
……なるほど。そう言わざるを得ない。そこでその公式を使うのか。思いつきもしなかった。
「―――と、いうわけです。後は計算式を処理するだけです。高校数学なんてものはいくら難しく見えても、大抵の場合授業で習ったものを駆使すれば解けるように作られているんです。まあ、裏技的に簡単に解けるようになってたりするものもありますが、それはそれ。そういったことも教えるつもりなので、安心してください」
「ありがとうございます! とても分かりやすかったです!」
山田さんがお礼を言う。
「ありがとうございました」
私も礼を言う。癪だが。とても癪だが。
「さて、と。質問がある人は他にいますか? 私でよければいくらでも教えましょう」
周りで談笑していた生徒たちが集まり始める。
「先生! 私、全部分からなかったんですけど!」
元気よく駄目なことを言う彼女は確か……
「困りましたねえ。どこからおさらいするべきか。少し待っていてください。問題集をいくつか取ってきます」
「はーい!」
教室を後にする佐仁田。元気よく返事をする西川。元気なのが悪いとは言わないが……彼女も結構な会社の令嬢だったはず。どうしてこうなったのやら。
「龍造寺さんと山田さんも、分からない問題あったんだねー! なんでもすぐに解けちゃうのかと思ってたよ! なんか、少し親近感湧くな!」
「そりゃあ私たちだって分からない問題はあるわよ……無かったら、学校に通う意味もないじゃない」
呆れたように私が言うと、
「それもそっかー。そうだ、二人とも勉強教えてよ!」
馴れ馴れしくそう言い放つ西川。
「ええ……? 佐仁田……先生に聞けばいいんじゃないかしら?」
私達が教える義理は無いだろう。
そんな意思を込めて山田さんの方をチラリと見る。
「いいじゃない。教えてあげましょうよ、龍造寺さん」
まるで聖母のような笑みで答える山田さん。
……少し自分の考え方を後ろめたく感じた。クラスメートに優しくする。少なくとも一般的には良いとされることだろう。ここで断っても感じが悪い。仕方ない、人に教えるのも勉強になるというし、やってみるとしよう。まあ、こんな風に打算で動いている辺り私はどうあがいても聖母にはなれないのだろうが。
「分かったわ。教科書持ってきて」
「やったー! あ、そうだ! 折角だしさ、朱音ちゃん、幸恵ちゃん、って呼んでもいい!? 私のことも
……驚いた。てっきりなんでもかんでも右から左に抜けていく残念な頭かと思っていたけれど、対して話もしないクラスメートの下の名前を覚えているとは。私は覚えていなかったし、少なくともそこでは私の負けだ。彼女に対する認識を少し改めなければいけない。
「うん、いいよ。改めてよろしくね、夢乃ちゃん」
相変わらず聖母のオーラを醸し出す山田さん。
……なんだか、なし崩し的に私も同意しているような流れだ。はぁ、仕方ないか。
「私からもよろしく、夢乃さん」
なるべく山田さんに近い微笑みを心がけつつ答える。
……慣れないな、こういうのは。
「で、えーと……どこが分からないの?」
山田さんが問う。
「それが分からないのです!」
自信たっぷりな表情で言う夢乃さん。
浮かべる表情が違う。
「えーと……困ったね」
流石の聖母も苦笑い。当然だ。
「うん! 困った!」
相変わらず笑顔の夢乃さん。認識を改めたのは間違いだったかもしれない。
「どうしようか、朱音ちゃん」
いつの間にか山田さん―――いや、彼女らに倣うなら幸恵さんか。にも下の名前で呼ばれることに。
嫌ではないが……なんだかむず痒い。
「うーん……できる問題の範囲を明確化していくしかないわね……簡単な問題集でもあればいいんだけど」
恐らく私たちが持っているものは彼女には難しいだろう。
「すいません、遅くなりました。これだけあれば分かる問題もあるでしょう」
佐仁田が大量の参考書を持って入ってくる。よく持ち切れたな、という量だ。本気でいい教師をするつもりらしいのが感じ取れる。
「うわー、いっぱい! 先生ありがと! あ、でもね、他の子優先でいいよ! 私には頼もしい二人の先生がいるのです!」
ふふん、と無い胸を張る夢乃さん。
優秀なのは貴方じゃないでしょうに……
「おや、そうですか? ではすいません、そうさせていただきます。後で進行状況を確認しますね」
実際、他の生徒にも質問攻めにされて、私たちの相手をする暇は無さそうだ。佐仁田は他の生徒の相手を始める。……というか、質問攻めの中には数学以外の、何なら勉強の質問ですらないものも混じっている気がする。というか、むしろそれがメインじゃなかろうか。
そんなにこの男のゴシップが好きなのか貴方たちは。
「さて、じゃあ始めましょうか。まずは……前の学年の問題でも見ましょうか」
なるべく簡単そうな問題集を見繕って開く。
「数Ⅰからになるね。夢乃ちゃん、正弦定理とか、余弦定理とかって……」
幸恵さんが優しく聞く。
「……?」
それに対し、まるで全く知らない言語の単語を聞いたかのような顔をする夢乃さん。何故この子は二年生になれたのだろうか。
「サインコサインって、やらなかった?」
困った様子で聞く幸恵さん。
「あー……聞いた覚えはあるけど……なんだっけ?」
ダメだこれは。根本から教えなければいけないらしい。
「えーと、正弦余弦の定義の話かしらね……」
内心頭を抱えながらもそれぞれの定義を頭から引っ張り出す。
「ええと、まず正弦、サインについてだけれど―――」
◇◆◇◆◇◆◇◆
「なるほどね! なんかやったの思い出してきた!」
根気よく教えた結果、なんとか去年の記憶を取り戻したらしい夢乃さんはスイスイ……とはお世辞にも言えないまでも、ゆっくりとなら問題が解けるようになってきた。
「良かった。教えた甲斐があるってものよ―――ん?」
廊下にチラリと見えたメイド服。見覚えのあるメイド服。
しまった。六浦には学校が終わったらすぐに迎えに来るように言っていたのだった。学校では携帯の電源は切っているし、痺れを切らして校内へ入ってきたというところだろう。
六浦を待たせたこと自体は別にどうだっていいが、校内へ入られると話は違う。私が普段からメイドに世話されているというのは公然の事実だが、実際にそれを見られるのはなんだか気恥ずかしくて嫌だ。
「あー、ちょっと待ってくれるかしら」
廊下へと急ぐ。
「どうしたの朱音ちゃん。調子でも……ああ」
心配そうな顔をして言いかけて、幸恵さんは廊下を見、納得したような声を出す。そのトーンが少し落ちたのはきっと、自分の家と私の家を比べてしまったのだろう。
だから嫌だったのだ。
「あのメイドさん、朱音ちゃんのトコの人?」
「え、ええ。緊急の用事みたい。少し話をしてくるわ」
足早に廊下へと急ぐ―――前に、その声は聞こえてきた。
「な、な、なんでいるんですかこの変態がー!」
六浦が、やらかした。
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