第12話 重なる異常
ミラ・バルトハイムとリオ・ヘイドンは、夕方に《青嵐》のクランハウスへ帰還した。
この日、彼らは一年四組に対してスキルの活用方法と成長について教え、その方向性を考えることを示した。それに加えて各自の保有するスキルについて個別の相談を受けた。
スキルの扱いに悩んでいる生徒は久住永遠以外にも何人かいた。二人は彼らの抱える悩みに真摯に答え、着実に信用を獲得していった。
午後は探索者や迷宮に関する基礎知識を教える座学の時間に占められた。授業の内容は迷宮の成り立ち、それに探索者の権利義務に関してだった。
すべての授業を終えた頃、二人は四組に対して確かな手ごたえを感じていた。あの調子なら彼らとの契約に大きな支障は生じないだろう。実力面は時間をかけて伸ばしていかなければならない。だが、スキル持ちというアドバンテージは間違いなく停滞した現状を打ち破る糸口となる。
そんな未来への展望を考えながら帰還した二人を待っていたのは、迷宮管理局からもたらされた緊急の連絡だった。
ミラは一階の個人用オフィスで着替えた後、すぐにクランマスターの執務室へと向かった。
執務室の扉をノックすると中から聞き慣れた声が応えた。扉を開くと三人の男女がミラの目に映った。
奥のテーブルに両肘を突いて座っている《青嵐》のクランマスターにしてミラの夫であるライアック・バルトハイム。彼の隣に立っている事務主任のレイチェル・ハンター。そして、革張りの来客用椅子に座っている迷宮管理局職員のシーリア・ラング。
三人の視線がミラへと集中する。
「こんな時間に迷宮管理局が人を寄越すとは只事ではないな」
「ええ、只事じゃありませんよ」
シーリアはにこやかに、しかし硬さのある声で言った。彼女はライアックに小さくを礼をする。
「急な用事なのに応対してくれて感謝します。一年四組の件で忙しい最中だというのに」
ライアックは気にするなと言うように手をひらひらと振った。
王都メイリムでも随一の探索者クランの長を務めるライアックは、今年二十八歳になる若い男だ。十六歳の時に初めて探索者になり、それから王国各地の迷宮を渡り歩き、二十二歳の時に王都に身を落ち着かせ《青嵐》を設立したという経歴を持つ。それから僅か六年で《青嵐》を名だたるクランへ昇華させたのは、彼の経営手腕と探索者として比類なき力を誇る妻のカリスマがあってのことだ。
クラン設立前に結婚した二人は、今でも王都のおしどり夫婦として知られている。二人の間に子供はまだいない。《メイリム都市迷宮》踏破と“冥樹の果実”獲得を達成するまでは探索者稼業に専念したいというミラの要望があったからだ。そんな事情もあり、ライアックは今もクランマスターとしての役目を全うしている。
「業務に支障が出ない範囲で手を伸ばしているから心配はいらない。強いて言うなら他のクランが情報を抜き取ろうと陰から手出ししてくるくらいだ」
ライアックがレイチェルを横目で見ると、彼女は笑った。
「うちに直談判してきたところはありません。みんなこそこそしてますよ。別に四組と他のクランの交流を禁じているわけではなく、変な理由じゃなきゃ許可を出すつもりなんですけどね」
「どのクランもまだ様子見の段階だな。リジーあたりは突っ込んでくると予想していたが来なかったな」
ライアックが言うと、彼の妻はくすくすと笑う。
「大方他のメンバーが止めたんだろう。勢いの良さが売りだが考えなしなのがあいつの欠点だ」
「容易に想像できますねえ。まあ、それが彼女の良いところです」
シーリアは名を挙げられたリジー・フォックスの顔を頭に浮かべた。ミラやライアックより若くして同様にクランマスターの地位に就いた才媛であり、ミラの友人であり宿敵を名乗る娘だ。彼女が一年四組に興味を抱かないはずがないと、シーリアは彼女の思考を正確に予想していた。
「さて、世間話はこのあたりにして本題に入りましょう」
シーリアがそう言うと、三人の表情が引き締まる。
「緊急案件と聞いたが何があった?」
ミラが訊ねる。シーリアは彼女の顔を見つめて言った。
「つい先程、《メイリム都市迷宮》からの膨大な魔力放出を観測しました。“氾濫”が起きます」
彼女が告げた言葉にライアックが呻いた。彼は右手で顔を覆った。
一般に迷宮と称される構造物は、地下に巨大な魔力の流れる川――精脈を持つ土地に存在する。迷宮はその多くが土地の持つ魔力を有効活用するために建造された施設であり、かつては産業や研究が盛んだった場所だ。
ところが、天災や事故により精脈に大きな穴が開き、魔力が制御できないほどに溢れることがあった。溢れ出た魔力は自然消費されることなく施設とその周辺地域に充満していく。それが続いた結果、魔力は互いに結びつき魔物という形で固体化する。
魔物はその場に居着き、徐々にその数を増やしていく。さらに魔物の増加は建造物を空間的に歪ませる効果を伴う。魔物とは魔力そのものであり、魔物という形で魔力が指向性を持った結果起こる事象だ。獣の姿を模った魔物が増加すると、獣の巣穴のような場所が突如出現するといった事例がよく知られている。迷宮とはそうして元の建造物が様々な形で歪んだ結果誕生した異形の空間である。
やがて、魔物は迷宮の外にも溢れ出るようになり、人里に被害をもたらすようになった。国はこの問題を深刻視して対処に乗り出した。
だが、魔物の発生を根本から絶つためには精脈の穴を塞ぐしかなく、現在人類が持つ技術ではまだ不可能という結論に達した。そうして新たに下した方針が、迷宮を管理し、溢れ出る魔物を討伐するというものだ。
これが迷宮管理局が創設された経緯である。
探索者は迷宮管理局の指導の下で、魔物の討伐と迷宮の調査を代行するために生まれた職業だ。探索者とは一般に広く知られた名であり、正式名称は特別地域作業従事者という。彼らは迷宮管理局の許可を得て迷宮探索を行う。迷宮の管理のみならず、探索者の管理と権利の保護もまた迷宮管理局の業務である。
探索者は迷宮で獲得した魔力資源等の成果物を、法で国への引き渡しを定められたものを除いてそのまま所有権を主張できる。これが探索者の収入源となり、彼らに莫大な富を与える要因となった。かくして探索者は瞬く間に市民権を得ることとなった。
迷宮管理局が創設された直後は大小様々な問題が生じたが、概ね迷宮の管理自体は滞りなく進んだ。迷宮内に発生した魔物は速やかに討伐されるようになり、人里への被害は皆無といっていいほどに減った。人々は安寧を取り戻したのだ。
しかし、何事にも例外は存在する。それが“氾濫”である。
精脈を通る魔力は通常状態においてその量は安定している。だが、何らかの理由により流れる魔力量が極端に増大することがある。増大した魔力は短期間で地上に溢れ、その結果として魔物が大量に発生する。
氾濫が抱える深刻な問題は、溢れ出た魔力が人里の近くまで達することにより人里周辺にも魔物が発生することだ。こうなると民を守りながら魔物と戦うことを迫られる。そして、氾濫への対処もまた探索者に課せられた義務であった。
「既に兆候は出ているのか?」
ミラが続けて訊ねると、シーリアは否定した。
「今のところ迷宮で異常が発生したという報告は受けていませんね。帰還した方々もいつも通りだったと証言しています。ただ、現在も振れ幅はありますが継続的な魔力放出を確認しています。過去の傾向からするとほぼ確実に氾濫が起きると予測されます」
ライアックが椅子の背もたれに寄り掛かる。年季の入った椅子が軋む音がした。
「異常がないこと自体が異常だな。普通は何かしら氾濫の兆候が表れるものだ」
ライアックの言葉にレイチェルは頷いた。
氾濫が発生する前には迷宮にその兆候が表れるのが常だ。多くの場合、魔物の大量発生という形で表れる。それ以外には迷宮内部の魔力濃度の上昇、迷宮とその周辺地域における地震の発生、水源が枯れたり逆に水量が不自然に増すといった異常が挙げられる。そういった事象が氾濫の訪れを人間に告げた。
しかし、今回は魔力放出のみ観測され、迷宮と周辺地域は平穏そのものだった。
ライアックは言葉を続けた。
「何より……四組がこちらへ来たのが一昨日だ。その時にも魔力放出が観測されてるんだろう? こんなに短期間で複数回の魔力放出があるか?」
「私の記憶している限りではありませんね」
レイチェルが上司の疑問に答えた。
「一度に数十人の漂流者が現れる異常。その全員がスキルに覚醒する異常。立て続けに魔力放出が発生する異常。氾濫の兆候が表れていない異常。全部偶然で片付けるわけにはいかねえな」
ライアックは妻の様子を窺った。彼女は目を閉じてじっと考える素振りを見せた。他の三人は彼女が口を開くのを黙って待った。
ミラはゆっくり目を開くと、シーリアに訊いた。
「……一応訊いておくが四組の連中を疑っているわけではあるまいな?」
シーリアは小さく息を吐いた。
「
「囮という線もあるにはあるが――」
ミラはライアックをじろりと睨む。彼は両手を挙げた。
「あくまで可能性の話だ。俺もシーリアと同じ意見でシロだと思ってる。勘だけどな」
そう言ってライアックは苦笑した。
(まだ三日目なのに随分入れ込んでるな)
(元々面倒見の良い人ですからね。クランの利益抜きにして後輩の指導に気合が入っているみたいです)
ライアックとレイチェルは小声で囁き合う。ミラはそれに気づかないふりをして、シーリアとの会話に意識を向けた。
「それで発生時刻と発生地点の予測はできているのか?」
「発生時刻は二日から三日後。発生地点のほとんどは湖ですね。こちらはリオさんや他のクランの水上戦担当要員に任せておけば問題ないと思います。問題なのは街に発生する方ですね。発生地点が広範囲にばらけています。こちらがその予測地点です」
シーリアはテーブルの脇に畳んで置いていた地図を広げた。王都全域を表した地図にはまばらに赤い丸が書きこまれている。
椅子から立ちテーブルに近寄ったライアックは、地図を見下ろしながら呟いた。
「これまでの氾濫と比べて明らかに広いな……これもまた異常の一つにカウントだな」
「王宮の方も情報収集に奔走しているそうです。我々が思っているより問題は深刻かもしれません」
ミラは溜息を吐いた。
「あいつらの訓練が遅れるな。クラン設立までできるだけスムーズに終わらせたいのだが……」
シーリアが慰めるように言った。
「説明すれば理解してくれますよ。これからこの国で生きていく彼らにとっても今回の件は決して避けられない話です。いずれ彼らが氾濫の対処に駆り出されることもあるでしょう」
「四組の皆さんには氾濫が終わるまで寮で待機してもらいましょう。暇潰しの本やボードゲームでも支給しますか?」
レイチェルが努めて明るく振る舞った。予断を許さない状況であったが、精神的に余裕をもって臨むべきというのが彼女の信条だった。
ミラはレイチェルのように振る舞うことはできなかった。彼女は厳しい表情のまま考え込んだ。
(既に五つも異常が重なっているのだ。六つ目がないとも限らない。このまま何事もなく終わるというのは楽観的だな)
彼女の脳裏には先程別れたばかりの生徒たちの顔が浮かんでいた。
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