第3話 ファーストコンタクト

 永遠は時間が停止したような感覚に陥った。眼前の光景を脳内で処理することができなかったからだ。

 眼前の獣は狼のように思えたが、その躰から突き出した棘が異様さを明白にさせている。彼はそのような特徴を持つ動物を知らない。一見すると作り物のようにも思えるが、僅かな灯りに照らされた棘が放つ生々しさがそれを否定していた。

 現実を認識すると、ようやく生命の危険を自覚した。


 最初に言葉を発したのは晴臣だった。


「な、何だよこれ……」


 彼の言葉はその場にいるほとんどの人間の内心を代弁していた。


「野生動物? でも、これ……」


 歩は緊張に満ちた顔をしているが、冷静に観察しようと試みた。声を震わせつつも狼から視線を逸らさない。


 狼は喉を鳴らしながら、永遠たちを見回した。そして、先頭に立つ晴臣を視界に収める。


 狼の脚に力が込められた。


「危ない!」


 菖蒲が叫んで飛び出すのと狼が床を蹴ったのは、ほぼ同時の出来事だった。

 狼が晴臣へ一直線に喰らいつこうとし、菖蒲が彼の身体を床に押し倒した。勢いをつけて倒したせいで、二人の身体が床を滑った。


 永遠はその流れを見ていることしかできなかった。


「大丈夫ですか!」

「は、はい」


 菖蒲が血相を変えて問うと、晴臣はやや顔を赤らめながら答えた。スーツが形作る菖蒲のプロポーションが彼に押しつけられていた。晴臣の様子に気づいた永遠は、余裕あるなと場違いな感想を抱いた。


「テメーらもぼーっとすんな! 動け!」


 天麗が叫んだ。思考を引き戻された永遠は歩と顔を合わせた。この殺意に満ちた獣を相手に戦うのは無謀だと思った。だが、どこへ逃げるべきか? 地図もないのに建物の外や上階へ逃げるのが不味いのはすぐに理解できた。


「皆さんはさっきの部屋に戻ってください! 扉に鍵はついていたから閉じ籠れるはずです!」

「先生はどうするのさ!」


 歩が訊くと、菖蒲は狼を睥睨した。獲物を狩るのを邪魔された狼の眼は憎しみに満ちていた。


「私はこの狼を引きつけます。後から向かいますから貴方たちは先に行ってください!」

「先生を置いて行けるわけないでしょう!」

「まずは皆に伝えるのが先決です!」

「問答してる暇はねえぞ!」


 菖蒲と晴臣が言い合っていると、天麗が再び叫ぶ。


 晴臣はどうするべきか迷っていたが、ふと床に目を落として表情を変えた。彼は菖蒲の傍を抜けると、彼女の後方へと駆けた。彼が向かう先には太い金属製の棒が転がっていた。

 晴臣は棒を手に取り、感触を確かめた。それなりに重量のある棒だった。十分に武器として使えると思った。


「こっちだワン公!」


 晴臣が狼へ向けて挑発する。

 相手は獲物に反抗的な態度をとられたことで、さらに怒りを増した。そして、再び晴臣に狙いを定めて吠えた。

 晴臣は金属棒を狼の頭を目がけて大きく振る。狼はその攻撃を回避し、晴臣から距離をとった。

 両者が互いを睨みつける。


 永遠は固唾を吞んで見守る。

 天麗が近づいて永遠の肩を揺らした。


「ぼーっとすんなって言ったろ! 戦うか逃げるかどっちか決めろ!」

「そういう星加はどうするの!」


 歩が声に焦燥感を滲ませる。天麗は辺りを見回すと、晴臣が拾った物と似たような棒が転がっているのを見つけた。彼女は急いで駆け寄りそれを拾い上げた。暗くてよく見えなかったそれを間近で見ると、木製の槍だと分かった。


 永遠の頭に疑問符が浮かんだ。金属棒といいこの槍といい、何故武器になりそうな物が当たり前のように転がっているのか?


「槍? 何でそんな物が……」


 歩も永遠と同じ考えを抱きそう言ったが、天麗はそんなことはどうでもいいとばかりに不敵な笑みを浮かべた。


「さっきも言ったとおり他人任せは癪なんだよ。二人がかりなら勝ち目もあるだろ。織田! そいつを惹きつけてろ!」


 狼は天麗に背中を向けていた。その無防備な姿に向かって彼女は駆けていく。

 天麗は槍を狼の躰へ力任せに突き刺そうとする。素人の動きで構えもなっていないが、それでも傷を負わせるには十分だった。

 狼が悲鳴を上げた。苦痛に抗うように大きく躰を振るわせる。それをに合わせて突き刺さった槍も揺れ、柄を握ったままの天麗もまた振り回された。獣の強靭な肉体が放つ膂力によって天麗は後方へ舞うと、地面に叩きつけられた。


「星加さん!」


 菖蒲が天麗に駆け寄り、身体を診た。掌の皮が剥け、薄く血が滲んでいる。


「そんな顔すんな。掠り傷だ」


 天麗は痛みに顔を歪ませているが、声には気力があった。だが、菖蒲は骨が折れていないか心配した。


 一方、狼は未だ苦痛に悶え、吠え続けている。棘に加えて槍を生やしたことで、狼の姿は酷く不格好に見えた。

 狼は天麗には目もくれず、目の前の晴臣を変わらず標的としている。

 晴臣の闘志は益々燃え上がっていた。敵に傷を負わせることはできる。倒せない相手ではない。仲間の働きを無駄にしてはいけないという感情が、彼の胸の内を支配していた。


「何か他に武器になりそうな物ないの!」

「石でも投げて気を惹くくらいならできそうだけど……」


 歩は己も参戦すべきかと考え、武器として使える物を探す。だが、永遠の言うように残っている物は小石や剥がれ落ちた壁の破片くらいだ。


 晴臣は金属棒を構え、深呼吸した。ここで仕留めることができなければ仲間がさらに傷つくかもしれない。他に動ける人間がいない今、失敗は赦されなかった。勇敢さと責任感が彼に逃げ道を与えず、その場へと縫いつけていた。


 狼がもう一度跳躍し、晴臣に牙を突き立てようとする。

 晴臣は瞬きすらすることなく見据えた。

 彼は棒を狼を狙って棒を振り下ろし――。


 その瞬間、光が満ちた。


「え?」


 全員が呆気にとられた。晴臣の両手から白い光が水が湧き出るように溢れている。光は晴臣の足元へと広がり、一帯を優しく包み込んだ。

 何が起きたのか理解できず困惑する中、突如狼が甲高い鳴いた。見ると身を捩らせて光から逃れようとしている。だが、床に広がる光は狼を逃さんとばかりに足元を包む。

 その途端、狼の脚が焼けるような音を立て、白い煙が噴き上がった。


「なんだあの光? 狼が……燃えてる?」


 天麗は摩訶不思議な光景を直視した。槍で刺されても殺気を失わなかった獣が今は怯えているように見えた。不思議な光を嫌っているのは明らかだった。

 狼の脚はみるみるうちに焼けていき、四つの脚はあっという間に爛れた。

 晴臣は自分の手から溢れ出る光に訳が分からなかったが、今が狼を仕留める絶好の機会であることはすぐに認識できた。彼は今度こそ狼の頭部へと棒を振る。


「おらあああああ!」


 棒は狼の眉間を叩き割った。肉の潰れる音と共に、狼の口から呻くような声が漏れた。それが最期だった。

 地に伏せた狼はそのまま動かなくなった。皆が心臓を高鳴らせながらその様子を見守っていた。

 十秒ほど経ってから変化が生じた。狼の躰が徐々に黒ずんでいく。脚が、胴が、背中の棘が、潰れた頭が真っ黒に染まっていった。やがて、その肉体は端から塵となり崩れ落ちる。その塵も空気に溶け込むようにして消滅した。

 後には何も残らなかった。彼ら以外の生物は最初からいなかったかのようであった。


「消えた……?」


 永遠は無意識に呟いた。


「や、やったのか……?」


 晴臣は気の抜けた声で言った。両手の光は既に消えており、床に広がった光も同様だった。


 菖蒲はほっと一息吐くと、天麗に向き直った。


「星加さん、大丈夫ですか? すぐに手当てをしないと」

「いいって。本当に掠っただけだから……」

「駄目です!」


 天麗は菖蒲の手を振り払おうとするが、叱責を受け思わず身体を硬直させた。彼女は何か言おうとしたが、下手に反論するより従った方が良いと判断し口を閉じた。

 歩が菖蒲の傍に立ち、怪我の状態を確認する。


「確か小太刀こたちさんが絆創膏とガーゼ持ってたはずだよ。部屋に戻って手当てしてもらおう」

「そうですね」


 永遠は天麗に大事がないのを知ると、晴臣の方へと向かった。

 彼は自分の両手を交互に見ていた。


「お前も大丈夫か?」

「ん? ああ、平気だ。ちょっとびっくりしてるけど……」

「あれは何だったんだ? 急に光が湧いたと思ったら狼が苦しみだすし」

「全然分からねえ。俺が訊きたいくらいだよ。でも、どうにか倒せて良かったよ。本当になんだったんだろうなあれ」


 晴臣は安堵の溜息を吐く。まだ少し表情が引き攣っているが、どこか誇らしげであった。

 それを見た永遠は胸の奥がちくりと痛む感覚に襲われた。


 今回永遠はただ見ているだけで何もできなかった。晴臣と天麗は戦い、菖蒲は身を挺して生徒を守った。歩も戦いには貢献できなかったが、彼が目を覚ました部屋で皆の助けとなっていた。何もしなかったのは永遠だけだ。

 彼は今まで何かをした・・・・・ことがない。誰とも仲良くなることもなく、何かに打ち込んだ経験もない。悠城学園に合格できる程度には勉強に励んだが、精々人より頭が良いと評されるのが関の山。彼以上に優れた人間など掃いて捨てるほどいる。


 何一つとして取り立てることのない人間。周囲の環境から隔絶されたぼっちの少年。それが久住永遠だった。


 それはどこにでもいる平凡な人間であれば仕方のない話かもしれない。異常な状況下で十二分に能力を発揮できる人間は少ない。永遠のように何もできないことは無理のないことだ。

 そう頭では理解していても、疎外感に似た感情が燻っているのは事実だった。


「さあ、それじゃあ一旦戻ろうか。出口が見つかったことも知らせないと――」


 歩が開け放たれた出口を見て、そう言いかけた時だった。

 出口の向こうに広がる暗闇の奥から何かが迫りくる気配がした。

 そして、三つの影が建物の中へ飛び込んでくる。それを視認した時、誰かが呻いた。


 現れたのは三匹の獣の群れ。たった今晴臣が倒したばかりの狼と同じ種だ。

 そのすべてが彼らを視界に捉えている。

 それを見て永遠は絶望した。

 

「マジか……」

「まだ来るのかよ。それも三匹って……」


 永遠と晴臣は揃って顔を蒼くした。

 最悪の展開だった。一匹相手でも死を覚悟したというのに三匹相手などどれほど過酷か想像に難くない。


 歩は悲壮感を露わにする。


「嘘でしょ……群れ相手は流石に無理だよ」


 新たな敵はじりじりと永遠たちへ迫ってくる。晴臣が唾を呑んで再び棒を構え、天麗は興奮と恐怖が入り混じったような笑みを浮かべた。永遠の視界の端では、菖蒲が覚悟を決めたような表情を作った。


 刹那の後には、この場は再び狂乱に満ちるだろうと誰もが思った。


 その時、永遠の耳が何かを拾った。


「……?」


 反射的に彼は上階へと目を向ける。階段と上階の床の奥、遠く高い天井が映った。


 歩は怪訝そうな顔をした。


「どうしたのトワ?」

「また上から音がする」


 永遠が言うと、歩も釣られて上を見た。そして、聴覚を研ぎ澄ませる。そして、何かの足音が静かな建物の中に響いた。


「本当だ。何か聞こえる」

「まだいるのか。くそが」


 天麗が吐き捨てるように言った。

 だが、永遠はそれを否定する。


「いや、これ……」


 足音は固い物が床とぶつかり合って生じたものだ。獣の脚が床を蹴って出る音ではない。靴を履いた人間・・・・・・・が発する音だった。


 そして、永遠は見た。上階に現れた小さな人影を。

 人影はそのまま手摺を乗り越えると、重力に従って落下する。人影の真下には三匹の狼の内の一匹がいた。


 人影は狼の上に降り立つ――否、踏み砕いた。


 肉が爆散するように弾け飛び、血飛沫が舞った。踏み砕かれた狼の胴体はぐしゃぐしゃになり、残された頭部は衝撃の余り眼球が飛び出している。


「ふう……」


 永遠はそこで人影の正体を見た。赤い髪をたなびかせた女だ。片手には細く長い剣が握られている。血を浴びているにも関わらず艶めかしかった。


 仲間を唐突に失った残る二匹は、最大の警戒を以って女を見る。

 だが、女はそれを一瞥すると、身を低くして手に持つ剣を大きく横に薙いだ。

 刃の軌跡が二匹の狼を捉える。二匹の躰に線が刻まれた。


 それで終わりだった。刻まれた線を境にしてずるりと上半分が落ちる。べしゃりと生肉が床に叩きつけられた。


 永遠たちは無言のまま一連の流れを見ていた。


 女は三匹の狼が塵へ還るのを見届けると、永遠たちへ顔を向けた。


「危ないところだったな。あと少し遅れていれば誰かの命はなかったか」


 彼女はかつかつと近寄ると、永遠たちをじろじろと見る。髪と同じ赤い瞳だ。永遠は妙に気恥しい思いをした。


 永遠は何か言おうと考えて、頭の中で必死に言葉を練った。


「ええと、助けてくれてありがとう?」

「なんで疑問形なのさ」


 歩が横から口を挟んだ。彼は元の調子を取り戻していた。


 女は永遠たちの観察を終えると、目を吊り上げた。


「お前たち何故まともな武器も持たずに来たんだ。死にたいのか?」


 彼女は晴臣が持つ金属棒を見やった。

 それに対して歩は肩をすくめた。


「好きで来たわけじゃなくて、気がついたらここにいたんだけど」

「はあ? 何を……」


 言いかけて女は表情を変えた。


「待て。お前たち、もしや“漂流者”か?」

「漂流者?」

「こことは異なる世界から来たのかという意味だ」


 永遠は部屋で男子生徒の一人が言い出したことを思い出した。

 異世界転移。

 元いた世界とは異なる別の世界へと誘われる空想の物語。


「何か妙な出来事を体験して、気づいたらこの場所にいた。そうじゃないか?」


 女は続けて質問した。

 永遠の中で不確かな憶測が徐々に確固たる事実へと形作られていく。


「それじゃあ……本当に異世界転移ってやつなのか?」

「そうらしいな……」


 晴臣の言葉に、天麗も溜息を吐いて返した。

 菖蒲は考え込むような表情のまま何も言葉を発さなかった。


「お前たちにも事情がありそうだな。ここで話すのもなんだ。とりあえず場所を移すとしよう」

「はい。貴女は……」


 女は微笑んだ。


「ああ、名乗っていなかったな。私はミラ・バルトハイム。この《メイリム都市迷宮》の踏破を目指す探索者だ」

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