第2話 気がつくとそこは

 久住永遠は、背中への冷たさを感じながら目を覚ました。


 最初に覚えたのは、使い慣れたベッドの柔らかな感覚とは異なる硬質な不快感だった。

 目を開くと、薄暗い視界の中央に不安な表情を浮かべた少女が陣取っていた。


「ああ、良かった。目を覚ましましたね」


 永遠は一瞬少女が誰なのか分からず困惑した。

 それからたっぷり十秒ほど後、少女を見つめ返した末にようやく思い出した。水城杏樹だ。


 彼女が永遠の顔を覗き込んでいた。


「ええと、お、俺は……」

「トワ。やっと起きたんだ」


 状況への理解が及ばずどもりながら口を開いた時、軽い口調で話しかけてきた男がいた。顔を向けると帆足歩が永遠の元へ駆け寄ってくるところだった。


 永遠は上半身を起こした。寝起きの脳がじんじんと鈍い痛みを訴えていた。


「大丈夫ですか? 気を失う前のことは憶えてます?」

「僕たちが教室にいたら急に床が光り出して、いつの間にかここにいたんだよ」


 二人の言葉を切っ掛けに、永遠の記憶は鮮明になった。

 入学式。教室の床に現れた魔法陣。眩い光。

 

「思い出した。そうだ、悠城学園の教室で……」


 言いかけて永遠ははっとした。彼は周囲を見回した。

 記憶が途切れる前、最後にいた一年四組の教室ではない。薄暗く広い空間だ。そこに彼と同じくあの教室にいた生徒の姿が散らばっていた。


「ここは? 学園のどこか?」


 永遠が問いかけると、杏樹は首を振った。


「いいえ、白坂先生が言うには違うそうです。まったく見たことのない場所らしくて……建物の中のように思えますが、詳しくは分かりません」

「窓がないから外の様子も分からないんだ。灯りがあるのは幸いだけどね」


 歩の言う通り、部屋には窓がなかった。代わりに天井に照明が設置されており、青白い光が彼らを照らしている。静けさと冷たさを連想させる光は、異様な雰囲気を強調させるのに一役買っていた。


「今のところ私たちの他には誰もいません。部屋の外へ通じる扉はありますが、調べるのは後回しにして先に皆さんを起こそうということになったんです」


 杏樹は少し離れた場所にいた白坂菖蒲に視線を向けた。この場にいる唯一の大人は一人の女子生徒と話をしている。


 菖蒲は視線に気づくと、女子生徒との会話を切り上げて彼らの元へ寄ってきた。


「先生、トワも起きたよ」


 菖蒲は小さく頷きを返し、身を屈めて永遠と視線の位置を合わせた。


「久住永遠くんですね。気分はどうですか?」

「ええと、はい、なんとか」

「まだ混乱しているみたいですが大きな問題はなさそうですね。良かったです」


 菖蒲はほっとした様子だ。

 杏樹が訊ねた。


「他にまだ目を覚ましていない人はいますか?」

「何人かいますが、そちらは織田おだくんや陶山すえやまさんが中心となって対応してくれています。水城さんと帆足くんも休んでいただいて結構ですよ」


 菖蒲が背後を見やる。釣られてそちらを見ると、まだ意識を失っている生徒の世話をしている生徒が数名いた。その中に他の生徒へ的確に指示を出している男女がいた。


 その光景を見ながら杏樹が言った。


千紘ちひろさんが率先して動いてくれて助かりました。私だけではどうすればいいか分からなかったので……」


 陶山千紘は目の前の仕事をてきぱきと捌き、有能な様を見せつけていた。眠たげな瞳が頼りなさそうに見えるのとは裏腹だった。


 既に目を覚ましている生徒たちは顔を突き合わせて話し合っていたり、膝を抱えて不安そうな表情を浮かべていた。


「他の皆も困惑してるな」

「落ち着いてるのは僕たちくらいだよ」


 永遠は歩の言葉に同意した。程度の差はあれ己の身に何が起きたか理解できないと言いたげな顔ばかりだ。杏樹たちのように他の生徒を気遣う余裕があるのはほとんどいない。無理をさせるわけにはいかないのだろうと考えた。


 ふと、永遠は壁際へ目を向け、壁に背中を預けて立っている女子生徒を視界に留めた。ウェーブのかかった髪に鋭い目つきが特徴的な少女だ。腕を組んで皆の様子を観察しているように見えた。

 永遠と彼女の視線がかち合った。少女は一瞬警戒するように目を細めたが、すぐに逸らしてしまう。一瞬身を強張らせた永遠であったが、何事もなく安堵した。


 すべての生徒が目を覚ましたのは十五分後だった。


 菖蒲は広大な部屋の真ん中に四十名の生徒を集めると、皆の顔を見回した。


「皆さん落ち着きましたか? 何が起きたか分からないという人もいますが、一先ず全員無事で良かったです」


 菖蒲の穏やかな笑みは、幾分か場の空気を和らげた。


「目を覚ました後に最後に憶えていることを確認されたと思います。私たちは悠城学園の教室にいて、入学式後のSHRの最中でした。その時突然床が光り出して、気がついた時にはもうこの場所にいました。皆さんの記憶もそれに違いありませんか?」


 彼女の言葉に生徒たちは頷いた。


「まだちょっと眠い……」

「持ち物は全部揃ってるな。財布とか鍵はなくなってないぜ」

「念のため怪我をした人がいないか確認しましたが、特に異常は見られません」

「スマホの電波通じない……」


 誰かが口にしたようにスマホの電波は一切通じていない。今彼らがいる場所全体が圏外となっていた。


「で、結局ここはどこなわけ? 誰か思い当たる節はないの?」


 背の低い女子生徒が言った。

 菖蒲は彼女を見やり答えた。


「いいえ、誰も知りません。どこかの施設のように思えますが……」


 菖蒲は天井を見上げた。青白い光は変化なく彼らを照らし続けている。永遠は海底にいるかのような錯覚を覚えた。


「結構広い部屋ですね~。宮殿の広間か何かみたいです」

「そうだな。言われてみるとそれっぽい気がする」

「海外旅行でお城見に行った時のこと思い出すなー」


 間延びした口調の男子生徒が言うように、その場所を表現するには宮殿の広間という言葉が一番近いように思えた。ただ、部屋の造りは永遠の知る宮殿の一室と差異があるように見えた。


 皆が思いつく内容を述べていると、ずっと考え込むような仕草のまま黙っていた陶山千紘が口を開いた。


「……気になることは他にもあるよ。扉の近くの壁に案内板みたいなプレートがかけられているのは見える?」


 千紘は出入口の扉の隣にかけてある長方形のプレートへと目を向けた。

 歩が不思議そうな顔をした。


「ああ、あれがどうかしたの?」

「帆足くん、何て書かれているか読んでくれる?」


 歩は言われた通りに行動した。プレートの前まで近寄り、しげしげとそれを眺めた。そして、部屋の中央まで聞こえるように大声で答えた。


「特に大したことは書かれてないよー。この部屋の用途とか注意事項とかそんな普通の内容だねー」


 その回答を聴いて、千紘は目を細めた。


「じゃあ、それ読めるんだね。日本語で・・・・書かれていないのに・・・・・・・・・

「え……」


 永遠は思わず声を漏らした。

 一方、歩の方は小さく声を上げただけだった。


「本当だー。これ日本語で書かれてないねえ。言われるまで全然自覚してなかったよ。何でだろー?」


 歩は首を傾げた。

 彼の回答に皆が騒ぎ始めた。


「もしかしてこれは……“異世界転移”って奴じゃないですか?」


 そう言ったのは教室で床の光が魔法陣であると気づいた男子生徒だった。

 皆の視線が彼に集まった。


「それってあれ? ネット小説とか漫画でお馴染みの」


 一人の女子が言うと、男子生徒は肯定した。


「そうです。ある日突然元々住んでいた世界とは異なる世界へ迷い込んだり、呼び出されたりするっていうファンタジー系列の物語でよくあるパターンです。ほら、教室の床に魔法陣が浮かび上がってましたよね? あれもそういった展開で見られる展開です。僕たちはあの魔法陣でこの場所へ転移させられたんじゃないでしょうか?」

「ああ、そういえば異世界へ行っても魔法か何かで言語が通じるとかよくあるわよね」


 二人の会話を横で聴いていた男子生徒が口を挟んだ。


「馬鹿言うんじゃねえよ! そんなユメみてーな話があるわけ……」

「あながち嘘とも言い切れないんじゃない? 実際常識じゃ説明できないこともあるみたいだし」

「そうですよ。僕も信じられませんけどこれは……」


 三人が熱くなる様を周囲のクラスメイトたちは興味深そうに眺めていた。半信半疑であるような表情の者も多かったが、誰一人として馬鹿げた話と断言することはできなかった。


 永遠もまた同じ意見だった。


(異世界転移? 本当にそんな話が――)


 突然、歩が扉へと顔を向けた。


「ん……?」

「どうしたんだい、帆足くん」


 千紘が近寄って訊ねると、歩は扉に耳をつけた。


「扉の向こうから何か聞こえるよ」


 彼女はすぐに歩の真似をして耳をつけ、集中するような面持ちになった。


「……確かに聞こえる。誰かいるみたいだ」


 二人の会話に気づいたクラスメイトたちが扉に駆け寄ってくる。永遠も後を追った。


「ひょっとして他にも誰かいるのかな?」

「助けが来たのかも! 早く行って……」


 一人の女子生徒がドアノブに手をかけた。

 だが、菖蒲が大声をあげて制止した。


「待ってください! 早まった行動をとるのは危険です! まずは私が一人で行ってみます。皆さんはここで待機していてください」


 菖蒲は扉の近くに集まった生徒たちにそう言い、扉から遠ざけようとした。

 それに反対したのは杏樹だった。


「駄目ですよ! 一人で行く方がもっと危険じゃないですか!」


 真正面から見据えられ、菖蒲はたじろいだ。


「し、しかし……」

「数人だけで行くのはどうかな? 他はここで待つってことで」


 新たな案を出したのは歩だった。その意見にクラスメイトたちは次々に賛成した。

 菖蒲は渋々といった調子で頷いた。


「……分かりました。そうしましょう」


 彼女が了承すると、真っ先に千紘と一緒に皆に指示を出していた男子生徒が挙手した。すらりとした長身の快活そうな少年だ。


「なら俺は立候補しますよ。悠城学園の生徒が緊急事態に巻き込まれてるのに、理事長の孫が縮こまっているわけにはいきませんから!」


 先程皆に手を貸していたことで好感を得ていた彼に反対する人間はいなかった。菖蒲も彼なら大丈夫だと考えたらしく、首を縦に振った。


「ああ、理事長の孫ってあいつなんだ」

「織田晴臣はるおみ。さっき少し話したけど良い奴だよ」


 永遠の言葉に、歩が返した。織田晴臣はステレオタイプな好青年のように見えた。


 次に手を挙げたのは杏樹だ。


「それじゃあ私も……」

「いや、水城さんはここに残って皆を纏めてくれないかな。誰かリーダーやれる人はいてほしいから」


 晴臣が申し訳なさそうに言った。歩もそれに続いた。


「そうだね。水城さんは残ってもらった方が良いと思うな。あ、僕は行くよ」

「外の様子は気になるけど……ボクも残って水城さんを手伝おうかな。そっちは任せたよ」

「お願いします陶山さん」


 歩は調査班に名乗りを上げた。千紘は好奇心を抑え、杏樹のフォローをすることを決めたようだ。


 他に誰か名乗りを上げないか待っていると、手を挙げる女子生徒がいた。


「……私も行く」


 先程永遠と視線が合った壁を背に立っていた女子生徒だった。


「黙ってじっとしているのは性に合わねえ。人任せにするのも癪だ」

「分かりました。星加ほしかさんも参加ですね」


 星加と呼ばれた女子生徒は指を鳴らした。彼女の瞳は爛々としていた。


 永遠は彼女の様子を引き気味に見ていた。そこへ歩から声をかけられた。


「ねえ、トワも行かない? 見た感じ君も結構落ち着いてるじゃない。折角だからついてきてほしいな」


 永遠は目を丸くした。思いがけない誘いだった。


「どうしますか久住くん?」


 杏樹が訊いてきた。


 永遠は考える。普段の自分であれば誰かと一緒に行動するなど億劫に感じたに違いない。恐らくすぐに断っていただろう。

 だが、現在の状況は永遠の思考を別の方向へと導いた。


(正直言うとちょっとわくわくしてる)


 現実離れした状況が彼をふわふわした落ち着きのない気分にさせた。思考の箍が緩み、大胆な選択をする余地を与えてくる。今彼を取り巻いているのは、これまで漫画やアニメで見た非日常の世界だった。たまにはこういう判断も悪くないと思った。


「分かった。俺も行くよ」

「やったー!」


 永遠が参加意思を表明すると、歩は歓喜の声を上げた。




 杏樹と千紘に見送られ、永遠たちは部屋を出た。晴臣が先頭を歩き、その後ろに菖蒲、さらに後ろに永遠たち三人が続いた。

 廊下は部屋と比べて暗闇が多かった。壁にも等間隔で照明が埋め込まれていたが、明るさは心許ない。彼らはスマホのライトで辺りを照らした。


 歩きながら菖蒲が言った。


「そうだ。お互い簡単に自己紹介はしておきましょう。改めて――皆さんの担任になった白坂菖蒲です」

「織田晴臣。よろしくな皆」

「帆足歩だよ。よろしくね」

「星加天麗てんれい

「久住永遠。まあ、その、よろしく」


 永遠は天麗の顔をちらりと見た。調査に名乗りを上げた割には協調する姿勢が見られなかった。ただ、それを指摘して空気を悪くするのも如何なものかと考え、永遠は何も言わないことにした。


 天井の高い廊下を五人は進んでいく。廊下にも窓はなく建物の全容は依然として知れなかった。永遠は構造と雰囲気からそれなりに大きな施設のようだと思った。


 やがて、彼らは開けた場所に辿り着いた。円形の空間が上に伸びており、両脇に階段が設置されている。階段の先は二階部分に繋がっていた。階段はさらに上へと続いており、天井が遠くに見える。永遠は近所のショッピングモールが似たような構造をしていたことを思い出した。

 正面には彫像が二体対になるように置かれていた。形からしてモチーフは聖職者と思われる。そして、その奥に大きな扉が開いた状態になっていた。


 彼らは前へ進み出た。


「あれ出入口じゃない?」

「そうだな。外が見える。でも、なんか暗いな。夜なのか?」


 扉の向こうに見える光景は判別できなかった。彼らの目に映るのは遠い暗闇だけだ。


「参ったね。暗い中外に出るのはまずいし」

「それならこの建物の中だけ調べてみないか。水や食料は必要だし、あとはトイレも――」


 晴臣の言葉は上方から聞こえてきた音によって遮られた。何かを踏みつけるような音だった。

 全員が上を見た。


 永遠は二階部分に何かの影が走るのを見た。人ではない。動物のような姿形だ。再び聞こえた何かを踏む音と唸り声で、それが見間違いではないと確信した。


 誰もが言葉を発さなかった。

 次の瞬間、二階から影が舞った。


「え……」


 晴臣が呆然とした様子で声を漏らした。


 影は勢いに任せ真下へ着地した。着地の瞬間に床が揺れた。


 永遠はどこか夢でも見ているような感覚でそれを見つめた。


 彼らの眼前で、身体中から棘のような物を生やした狼に似た獣が、獲物を前に唸っていた。

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