04 ガールミーツボーイ──①
通知があった。
巨大複合型商業施設『らぽーる』の屋上階。
人の居ないほうに流れるようにして、さまよい着いた喫煙者用スペースの軒下で、丙一は風にあたっていた。土砂降りの雨ということもあって、屋外にはほかに客の姿はない。
学園都市クレイドルは、途方もなく広大な地下空間に構築された地下都市だ。
当然、地下世界に雨など降りようはずもない。
無数に降り注ぐ雨粒も、髪を揺らす風も、すべて人工的に造り出されたものだ。
丙一は空を見たことがなかった。
──この雨は、灰色にくすんだ空は、頬に吹き付ける風はすべて偽物なのだろうか。
──こうして見上げている空が誰かの作り物だとして、本物を知らない自分は、どんな感慨を持てばいいのか。
「…………難しい言葉だな、普通って」
独り言が雨に溶け消える。
と、パシャパシャと雨水を散らす足音が聞こえてきた。
何事か、と物陰から身を出した丙一の目の前に、飛び出してくる影がある。
「────っ!」
衝突する寸前、スローモーションのように、驚きに目を丸くするジゼルと、丙一の視線とがぶつかった。
弾き飛ばされて雨の中に尻もちをついたのは、ジゼルのほうだった。
丙一は強靭な体幹をほとんどぶらすことなく、平然と衝撃を受け流す。
うめくジゼルに、丙一は逡巡した。
謝るのが先か、手を差し伸べるのが先か。
いや、こういうとき普通は手を差し伸べるものなのか?
「……おい、大丈夫か?」
おずおず、と差し出された手は、しかし掴まれることはない。
ジゼルは自力で起き上がると、「ごめんなさいっ!」と切羽詰まった様子で再び駆け出した。
理由はすぐにわかった。
ジゼルの後を追うように、ほどなくして黒服の男たちが走ってきた。
様子をうかがう丙一には目もくれず、水たまりを踏み抜いた複数の革靴の足が、ジゼルが抜けていったほうへ向かう。
そこで、丙一は少女の落とし物に気づき、拾い上げた。
「…………普通、普通」
丙一はとんとんと指先で自らのこめかみを叩く。
困った。
逃げる少女と、それを追う男たち。
あきらかに只事ではない。
屋上解の出入り口は限られていて、少女が逃げた先に道はなかったはずだ。
落下防止用の柵で囲まれた、文字通りの袋小路。
うーん、と唸り声をあげてから、丙一は喫煙スペースの軒下からふらふらと歩み出た。少女や男たちが駆けていった、裏手のスペースに足が向いていた。
容赦のない雨が丙一を濡らした。が、気に留める様子もない。
「なあ真琴、俺は今、普通か?」
そのつぶやきに対する答えは、当然ない。
「来ないで! それ以上近づいたら、ここから飛び降ります!」
身一つで強引に乗り越えた柵の向こうで、ジゼルは声を振り絞った。
柵の手前側には、ジゼルがかかえていた大型のスポーツバッグが転がっている。
雨に濡れたフェンスを掴んだ指先が、かろうじて体を支えていた。
あと一歩足を踏み出せば、真っ逆さまに転落してしまうような危険な位置だ。
これにはさすがの黒服たちにも動揺が走った。
「あなたたちが用があるのは、私の脳なんですよね⁉ ここからなら頭を割って死ねる! そうなったら回収できないでしょ?」
「落ち着いてください、朝霧ジゼルさん。何も我々は、あなたを殺そうとは────」
「勝手なこと言わないで! 人間から脳だけを摘出して、水槽の中で生かされるようなこと、人殺しと何が違うって言うの⁉」
感情をむき出しにした叫び声だった。
遠巻きに状況を察した丙一は、どうしたものかと後頭部をかく。
思ったとおり、だいぶ穏やかではなさそうだ。
ジゼルを過剰に刺激しないよう、しかし確実に包囲するように、距離をおいてジゼルを取り囲んだ黒服の代表が口を開いた。
「お父上……
「────‼」
「現在、彼の身柄は我々が預かっています。中央学区の尋問官のことはご存じですか? 彼らには、おおよそ人間が持つべき正しい倫理観を期待しない方がよろしい」
どういう意味か、もう子供ではないあなたならわかりますね?と、諭すような声音に、ジゼルは指先が白くなるほど強く柵を握りしめる。
「あなたが逃げれば逃げるだけ、お父様が受ける尋問は増えます。手遅れになる可能性も高い」
不吉な言葉に、ジゼルの体が大きく揺れた。
短く不規則な呼吸は、精神状態の不安定さをそのまま映し出していた。
「パパ……」
「今からでも遅くない。今一度、天秤にかけてみなさい。自分と、お父様と」
まだ十六になったばかりの少女に、それはあまりにも酷な問いかけだった。
正嗣は、ジゼルに残された唯一の肉親だ。
もとはクレイドルの出身ではなかった。
ジゼルのために研究者としての信念を捻じ曲げて、クレイドルにやってきたのだ。
幼いころに母を亡くしてから、男手ひとつで育ててくれた。
いまやジゼルにとっての、たった一人の────…………
「────っうう、ぐっ…………うう…………」
意思とは関係なく、涙が零れ落ちてくる。
怖い。
死ぬのが怖い。
でも、父親を喪ってしまうのも、同じくらい怖い。
「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
誰に謝っているのかもわからなくなりながら、ジゼルはうわごとのように謝った。
黒服が、ジゼルにさらに一歩近づいた。
「おとなしくこちらへ来なさい」
「パパ……ママ……だれか……! 助けて……!」
身体の芯から沸き起こってくる震えと感情とを、制御することができない。
大粒の涙は、頬を伝い、雨とまじりあって、はるか下の地面へと溶け落ちていく。
立ちすくむジゼルの様子を見て、あと少しで陥落すると踏んだのか、黒服の一人が
ゆさぶりをかけるように声を張り上げた。
「
「違う! 私は……わたしはっ!」
ありったけの力を絞り出すように、ジゼルが叫ぶ。
それは一瞬の事故だった。
踏みとどまろうとした靴底が屋上の縁を踏み外し、濡れた柵が指先を滑らせた。
ふわり、と浮くような刹那の錯覚。
「「「────なっ!」」」
雨粒が浮いていた。
いや、浮いていたのはジゼルの身体だった。
浮遊感を味わったのはほんの一瞬のことだった。
宙に投げ出された身体は、抗いようのない重力に引かれて、雨粒とともに自由落下を始める。はるか遠くの地面には、モザイクガラス張りの別な建物の天井。
死ぬんだ、とジゼルは本能で理解した。
死を間近にして極限まで引き延ばされた知覚が、遠ざかっていく屋上と、そこにとっさに伸ばした自分の手足を認識する。どこか他人事のような、不思議な穏やかさがあった。
夜も眠れないほど死ぬのが怖かったことが、まるで嘘のようだった。
ジゼルは、すべてを受け入れるようにゆっくりと瞼を閉じ────
閉じかけた視界にありえない光景が映った。
屋上の柵を、軽業師のように飛び越えた何かがあった。
その何か──いや、誰かは、一切の
抱きかかえられるような感触が頭を包む。
「───────え?」
「喋るな。舌噛むぞ」
落下の衝突までのほんの数秒間、あまりにも短い会話。
ガシャァアアアアアアアアアア!
下敷きになった丙一の背が、モザイクガラスの天井を突き破った。
連鎖的に爆ぜるように砕け散るガラスの音とともに、キラキラと光を反射するガラス片に囲まれて、天井から二人が落ちてくる。
視界いっぱいに映るのは、真剣な丙一の表情だ。
目が合っているわけでもないのに、ジゼルは、丙一から目を離せなくなる。
誰もいないプールのど真ん中に、とびきり大きな水柱が上がった。
「───ぷはっ‼」
やっとの思いで水面に顔を出したジゼルは、酸素を求めて必死に息を吸い込んだ。
上も下もなく水に飛び込んだせいで、鼻の奥にまで水が入り込み、水を吸った制服が水底に引き込もうとするかのようにまとわりつく。
と、唐突に襟元が強く引かれて、ジゼルはあっという間にプールサイドに引き上げられた。
「────けほっ、かはっ‼ な、なんでっ……けほっ」
「なんだ、意外と元気そうだな」
けろりとした声が、プールサイドに這いつくばるジゼルの頭上から降りかかる。
ジゼルは息苦しさにあえぎながら、霞む目で傍らに立つ少年を見上げた。
すぐには理解が追いつかなかった。
「あっ、あの! 誰っ⁉ なんで私を……」
「なんか言ったか?」
頭を鋭く振るようにして水滴を飛ばした丙一は、すでに脱いでいた上着を雑巾のように絞り上げた。大量の水が滴り落ちる。
「──あなたは、さっき屋上にいた…………?」
姿をよく見ようと、ジゼルは顔の水滴を手首で拭った。
普段はふわふわとボリュームを感じさせる淡色の髪も、今は濡れて細ってしまっている。身体に張り付いた服が、不健康一歩手前まで痩せた身体の線を浮かび上がらせていた。
丙一はざっと洋服の水抜きを済ませると、ジゼルをじろりと見おろした。
「今はどうでもいいだろ。ほら、さっさと歩け。というか歩けるか?」
立ち上がろうとした膝が震えていた。
「腰、抜けちゃったみたい」
「あの高さじゃ仕方ない。掴まってろ」
「あぅ…………」
いうが早いか、丙一はジゼルの腕を首に回すと、半ば背負うようにしてジゼルの体重を易々と支えた。
決して大柄には見えない。
ジゼルとそう年が離れているとも思えない。
落下のショックに、頭がぼうっとしていた。
ジゼルは少年の筋肉のたくましさを感じながら、運ばれるままに身を任せた。
「あ、あの……これからどこへ……?」
「そうだな────どうするか」
「ええっ」
「ま、一番近い服屋でテキトーに服でも買うか。俺はともかく、アンタは目立ちすぎる」
丙一の目が、横目でジゼルを見た。
栓の閉まり切らない蛇口のように、いたるところから水が滴り落ちている。
ジゼルは自分の状況を顧みて、開きかけた口をつぐんだ。
営業期間外のプールエリアを抜けると、ショッピングモールに続く通路に出た。
授乳所とトイレくらいしかない場所が幸いして、人目にはつきにくかった。
が、通りかかった客は、ずぶ濡れのふたりを見るやぎょっとした視線を向けてくる。
「…………もう、歩ける、かも」
「そうか?」
ゆっくりと足に体重を乗せ、ジゼルは丙一の背から降りた。
「さすがに目立ちすぎるか」
「…………ずぶ濡れですもんね」
「そうだ、とりあえず他の連中にも連絡するか。協力してくれるだろ……うん、多分」
丙一は少しだけ言葉に迷うように言って、無造作にスマホを取り出した。
慣れた操作でどこかへ電話の発信をかける。
「あっ! 私の荷物、屋上に置いてきちゃいました! スマホもバッグの中に」
「ああ、これか?」
通路わきで電話を発信しながら、丙一は懐から白いケースのスマホを取り出した。
「こ、これです! どうしてあなたが?」
手品師を見るような顔で、ジゼルは丙一とスマホを見比べる。
「ぶつかった時、バッグから落ちたのを拾ったんだ。返しに行こうと思ってな」
驚きと、困惑と、わずかな怒り。
「まさか、それだけ? それだけのために、屋上を飛び降りてまで、私を……」
「ばかいえ、それだけなわけあるか」
続けようとした丙一の言葉を、電話が遮った。
「晶か。悪い、ちょっとみんな連れて来てくれ。どうせ俺の居場所はいつでも分かるだろ?」
電話の向こうから、男女の声が漏れ聞こえてくる。
ジゼルにも聞こえるのは、普段より声を荒げているからだろうか。
「じゃあ、よろしく頼んだ」
丙一は言うだけ言うと、気ままに通話を断ち切った。
「……本当に飛ぶ気はなかったろ、アンタ。それに、助けを呼んでた」
「──えっ?」
「俺にも色々あってさ。いまは“普通”って何かをずっと探してる。困ってる人を助けるのは、“普通”のこと、なんだろ?」
ふざけているようには見えなかった。
当然だ、おふざけで自分の命を危険にさらせる人間はいない。
もしもジゼル一人だったら。
あのまま落下に身を任せていたら、まず間違いなく死んでいた。
助けてくれたのはまぎれもなく、今目の前にいる少年で。
ようやく現実感を取り戻してきた身体感覚に追いつくように、もやもやとした濁流が胸の内に渦巻いた。
この人は一体だれ。
なんで私を助けるの。
私を知らないのに。
私を利用したいわけでもないのに。
私は、生きているだけで誰かを不幸にし続けるのに。
次から次へと声にならない言葉があふれ出てくる。そんなジゼルのことを、丙一はまっすぐに見つめている。
自己嫌悪が止まらない。
倒れ込んでうずくまってしまいたい。
これ以上、無関係の誰かを不幸にしてはいけない。
なのに────
ジゼルは自分でもわけがわからないのに、どうしてか丙一から目が逸らせない。
どこまでも吸い込まれてしまいそうなその瞳から。
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