02 雨雲をつれて──①

 天をくビル群が、グレートーンの天盤そらを反射している。

 街全体を洗い流すような豪雨ごううは、いよいよ勢いを増していた。 


────まるで世界から色が無くなったみたい。


 地上三階から見下ろすスクランブル交差点に、色とりどりの傘が世話しなく行きかう様子が見えて、朝霧あざぎりジゼルはホッと息をつく。


 もうしばらくは、この雨が続く予報だ。


 それはつまり、今にも叫びだしたくなるような不安と、連日の徒歩移動で全身にたまった疲労感とを、熱いコーヒーで麻痺させるくらいの時間の猶予ゆうよはある、ということを示している。






 超機構学園都市ちょうきこうがくえんとしクレイドル、東学区南東部。

 一帯では最も大きな、交通のハブとなる六ツ森むつもり駅のすぐ目の前にあるビルに、ジゼルは滑り込んだのだった。


 昼過ぎだというのに、カフェには意外なほどに人気ひとけがなかった。

 それが今のジゼルにとっては好都合だ。


 窓際の席に浅く腰かけ、ふところからスマホを取り出す。


 ロック画面には、古い家族写真。

 父と母と幼いジゼルが写っているものだ。

 

 何度機種を変えても、この画像だけは残し続けた。

 ジゼルはこの写真が好きだった。


 雨に湿った指先で、思い出の輪郭を少しだけなぞる。

 と、思い直して、『クレイドル公式天候予定表』アプリのアイコンを叩いた。


 若い男性店員がコーヒーを運んできたのは、ちょうどそのときだった。


「お待たせいたし────えっ」


 ジゼルを見て固まった。

 いな、顔を上げたジゼルの、見るものを惹きつける美貌から目が離せなくなった。


 シルバーともブロンドともつかない長髪は、ほんのりとウェーブがかかり、店内の薄明かりを受けて、星屑を散りばめたかのようにきらめいている。


 ゆるく弧を描く眉も、印象的な長いまつげも、いずれも髪と同じ淡色あわいろだ。それが余計に、くっきりとした二重の目をいっそう際立たせていた。


 透明感がある、という月並みな表現では到底言い表せないような美少女だ。しかしその表情には、隠しきれない疲労の色がにじんでいる。


 それがかえって、まだあどけなさの残る顔立ちに釣り合わない、不健康な色気を感じさせた。


「…………あの、何か?」


 湧き水のように甘く澄んだ声。

 眉をひそめるその仕草さえも、ドラマのワンシーンのように見えてしまう。


「あ、いえ、ごちゅ、ご注文のコーヒーをお持ちしまして」

「ありがとうございます……?」


 店員はしどろもどろになりながらコーヒーを置くと、逃げるように立ち去った。


「…………?」


 ジゼルはバックヤードに退散していく店員の背を見送ってから、ようやくスマホに向き直った。


 【5/10(土)/14:30/クレイドル東学区・六ツ森町/豪雨】


 表示の下には、現在時刻とともに、一時間ごとの気温が立体的なグラフになって置かれている。

 ジゼルは14時という文字列をタップして、表示を一分おきの、より詳細なものに変更した。


 【5/10(土)/14:32/クレイドル東学区・六ツ森町/快晴】


「────うそ」


 か細く、喉から漏れ出た声は、窓に当たる雨音にかき消された。






「おい見たか?! あそこの窓際の席の子、マジでやべーぞ‼」


 興奮した様子の同僚に、客席から見えない位置で電子タバコを片手にスマホをいじっていた女店員は、あきれた声で返した。


「は? 何がよ」

「スッゲーかわいんだよ! 目が合うだけでドキドキする! こんな気持ち、幼稚園で担任の先生に感じてたやつ以来だ!」

「おー? やべー、ガチじゃん?」

「どうしよ、連絡先聞いてもいいかな。でも俺こんなこと初めてだし、ナンパとかダセーって思ってたのにこんなこと……‼」


 うるせーな、と気のない返事を返す女店員に、若い男は間抜けな声を上げた。


「いけねっ、砂糖とミルク渡し忘れちまった」

「…………わざとだったらちょっと引くわ」

「ちげーよ、緊張して飛んじまったんだよ」

「じゃ、ふつーにさっさと届けに行けって」

「お、おう、行ってくる……‼」


 エプロンのしわを伸ばし、前髪を整えた男は、意を決して物陰からジゼルの様子をのぞき込む。

 振り返って、同僚に小声で声をかけた。


「……俺のほうが先にカノジョ作ってもひがむなよ?」

「寝ぼけたこと言ってないで、いいから行け‼ このタコ!」

「痛っ! ばっ、静かにしろよ!」


 半ば蹴りだされるような格好で、男の店員はジゼルのもとへ向かった。


「すす、すいません。お砂糖とおミルクをですね──」


 声をかけようとしたのと、ジゼルが弾かれるように席を立ったのは、ほとんど同時だった。


「わっ‼」

「お会計、これで」


 余裕のない様子で硬貨を机に置くと、重そうなスポーツバッグを肩にかける。


「あれ? えっ、まだコーヒー飲んでないような」

「急いでいるので。失礼します」

「いや、ちょ、あの‼ お釣りを」

「お釣りは差し上げますので……‼」


 上着のフードを目深に被ると、そのままの勢いで店を飛び出していく。


「えーっと…………」


 店の目の前に設置されたエスカレーターへ飛び込み、そのまま人を押しのけるように駆け下りていく後姿を呆然と見送って、男店員は情けない声を上げた。


 ふと、ジゼルが座っていた席に目線を戻し、椅子にかかったままの黒い傘に気付く。


 これは僥倖ぎょうこう………‼と傘をつかんで追いかけようとした男を、後ろから女店員が呼び止めた。


「待て待て、仕事ほっぽりだしてどこ行くんだよ」

「今ならまだ追いつける。あの人が風邪引いちゃうかもだろ。俺行ってくるわ!」

「だから、待てって」

「ぶべっ────!!」


 今にも走りだそうとする男のエプロンの背を、バイト仲間の指がひっかけた。

 そのまま、バックヤードへ引っ張られていく。


「ほれ見ろコレ」


 突きつけられたスマホの画面には『クレイドル公式天候予定表』アプリが表示されている。


 【5/10(土)/14:32/クレイドル東学区・六ツ森町/快晴】


 一分間隔の天候計画によれば、14:32から雨が止む予定だ、ということが読み取れる。


「一時間くらい前にクレイドルの統括AIから更新かかって、あと一分で雨止むらしいからよ。あの人もきっとビショビショにはならねーよ」

「そうか!……いや、でも、忘れ物だぞ」

「だからこそ、だろ。むしろ傘はこの店で大事に預かっておくほうがいいに決まってる。そしたら、また取りに戻ってきてくれるかもしれねーじゃんか」

「……う、うーん。そういうもんか?」


 若い男店員は、傘をしげしげと眺めた。


 無骨な黒のビジネス用の傘は、可憐な少女にはあまり似つかわしくない。父親の傘を拝借してきた、という印象だ。


「んじゃ、ウチも雨上がるまでテキトーに時間潰してただけだし、もう上がるわ。あとよろしくなー」

「あっ! お前そんな理由で残ってたのかよ!」






 ジゼルが座っていた、窓際のカウンター席。


 一度も口を付けずに残されたカップから、白い湯気が寂しげに立ち昇っている。


 立ち上る湯気の先、窓の向こうで、暗い雨雲の天幕に切り裂かれたような裂け目が生じた。隙間から、白んだ光が差し込んでくる。


 と思ったのもつかの間、雨雲はまるで天空に排気されたかのように、たちまちのうちに消えてしまった。青のパネルを敷き詰めたような、曇りのない快晴が広がり、駅前の街並みが色彩を取り戻す。


 全てが計算された天候の流動。


 ここは超機構学園都市クレイドル────かつて日本と呼ばれた島国の跡に建造された、巨大な地下都市である。

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