3話 Special Thanks

(嗚呼、いつ終わる?)

こういうことを、いつも考えている。

切迫した感情を長いことぶら下げている。汎用短刀レーザーナイフのなけなしの閃光が、強い雨でかぼそくなる。押し寄せる黒い波を突き刺してみるが、その甲斐は無い。息切れした腕と足では、波を捌くのに限界があるように思われる。ナイフが「あと数十秒だ」と呟いて、心臓が「あと数秒だ」と訴えるように思った。


(いつまで続く?)

横腹を軽く切ってしまった。防護服の裂け目から赤い線が浮かび上がって、血が伝う、軽傷だ。それでも、思わず拍子抜けした。『フルフェイス』はほっと一息をつき、肩をおろして安堵した。


(───いつ。)

『塩川』が歯を食いしばる。やや過剰に、汎用短刀の柄を固く握り直した。腹部にできた裂傷部をえぐるように焼き切った。【蟻酸】の神経毒から逃れるためだった。悪足掻きを続ける。すぐに死神の鎌が降りる、フルフェイスは重い水を蹴った。


(いや、いい。)

水を打ち鳴らす。

(ようやく終わる)

飛沫シブキを弾き散らす。フルフェイスヘルメットの内側に、喉の痛みが伝う。失くした言葉が、すぐに駆け巡った。

(ようやく……)


【まだ裏切ったまま】

【震えるこの足のまま】

【虫食いの心のまま】


「ああああああああああああああああッ!」

この場面に感情任せの叫び声を入れてみたが、おおかた、これは大した意味もない。事実、大した意味もなかった。


(あ、ぁ……)

黒鉄が肩に突き刺さっていた。二、三本の別の黒鉄が、後から突き刺さった。


塩川は黒い波に呑み込まれていった。目の前が真っ暗になったことが分かった。

汎用短刀の閃光は最後にゆらりと、揺らめいて絶えた。



……心臓の脈動が一度だけ、景気よく全身に響いたのだと分かった。



こんなことに、何の意味もない。


【Memento ───.】

風の音が聞こえる。窓の広いピロティホールと、開いたプルタブを覚えている。

「甘ぇ。なぁんだこれブラックじゃねぇの」

「缶コーヒーだからな。これがまた良い」

「あぁ、そう。……ま、たまにはな。」


昼下がりの自然公園と、真面目なスカートを覚えている。

「あの。何してるんですか。」

「あぁ、その。『かいじんうるとらイモムシ』。」

「……はい?」


屋上のフェンスと、無駄に高い購買のパンを覚えている。

「……話題ないな」

「まあ、ないな。美人相手ぐらい無い。」

「なんで美人相手だと話題出ないんだろうな」

「美人だからだろ」

「しかし今美人いないだろ」

「だから駄弁ってんだろ」

「「ああ」」


自転車置き場裏の日陰と、芝生を囲った石畳を覚えている。

「ん、塩川じゃん。珍しいね」

「ああ。……この場所、お気に入りだろ」

「なんで分かるの?」

「何しろ。この芝生が良い。」


【嗚呼、そうか】

【確かに覚えている】


過ぎ去った季節が、鮮明によみがえる。吹く風の香りとともに、確かに思い出せる。

体育館の遠い天窓は良い。四階の美術室の風も、プールサイドの水面も、図書室の窓際にあった机も、照らされた下駄箱も、グラウンドの木漏れ日も、LLSの軒先も、最寄り駅の踏切も、誰もいない四号車の揺れも、海の見える下り坂も。



鮮やかな記憶を持っている。

干された洗濯物が揺れている。鳥は舞う、飛行機が雲を抜ける。


【Memento ──『Vivum』.】


(もっと早く、気が付いていたなら)


(俺はあの景色を……)


【───選び取らなかった】




「代わるよ。」



……こうして塩川過去の心臓が止まる。白昼夢の中に溶けて、その蒼い炎は───




翌日の朝。

長い雨が上がり、水深4センチメートルの海は干上がっていた。朝露とともに苔に似た植物が緑を見せた。空と水と緑。都市そのものが、最初にあった姿に還ろうとする。黒い帽子を深く被った教官が、その内をゆっくりと歩いて行った。

斜めに曲がった道路標識の下に、一人間の身体が横たわっていた。

走り寄って肩を持つと、その顔色は良かった。

包帯の巻かれた左脚の上部に、適正なを施した痕跡があった

───即ち、この副隊長には息があった───。


見渡す草原に、黒い塊が転がっている。教官は歩いて行って、それを拾い上げた。



「……嗚呼」



無機質なアクリル面と、はっきり目を見合わせる。それから、震える声でこう呟いた。



「君だったか。」



ひび割れた『フルフェイスヘルメット』だった。教官は立ち尽くして胸の痛みを噛んだ。見れば、インナーバイザーに『一枚の紙きれ』が挟まっている。教官は手に取って、片面に青いボールペンの字で

『Special Thanks.』とあるのを確かめた。



「捨てる、約束だったろう、これは。」



教官はとうとう膝から崩れ落ちた。フルフェイスの内側、その深い淀みの奥底に一瞬だけ、微かな蒼い炎がただよった気がした。




───【じきに良い時代が来る】



万年筆のインクを以て、裏面にこう記してあるのだった。

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