3話 Special Thanks
(嗚呼、いつ終わる?)
こういうことを、いつも考えている。
切迫した感情を長いことぶら下げている。
(いつまで続く?)
横腹を軽く切ってしまった。防護服の裂け目から赤い線が浮かび上がって、血が伝う、軽傷だ。それでも、思わず拍子抜けした。『フルフェイス』はほっと一息をつき、肩をおろして安堵した。
(───いつ。)
『塩川』が歯を食いしばる。やや過剰に、汎用短刀の柄を固く握り直した。自身の腹部にできた裂傷部を
(いや、いい。)
水を打ち鳴らす。
(ようやく終わる)
(ようやく……)
【まだ裏切ったまま】
【震えるこの足のまま】
【虫食いの心のまま】
「ああああああああああああああああッ!」
この場面に感情任せの叫び声を入れてみたが、おおかた、これは大した意味もない。事実、大した意味もなかった。
(あ、ぁ……)
黒鉄が肩に突き刺さっていた。二、三本の別の黒鉄が、後から突き刺さった。
塩川は黒い波に呑み込まれていった。目の前が真っ暗になったことが分かった。
汎用短刀の閃光は最後にゆらりと、揺らめいて絶えた。
……心臓の脈動が一度だけ、景気よく全身に響いたのだと分かった。
こんなことに、何の意味もない。
【Memento ───.】
風の音が聞こえる。窓の広いピロティホールと、開いたプルタブを覚えている。
「甘ぇ。なぁんだこれブラックじゃねぇの」
「缶コーヒーだからな。これがまた良い」
「あぁ、そう。……ま、たまにはな。」
昼下がりの自然公園と、真面目なスカートを覚えている。
「あの。何してるんですか。」
「あぁ、その。『かいじんうるとらイモムシ』。」
「……はい?」
屋上のフェンスと、無駄に高い購買のパンを覚えている。
「……話題ないな」
「まあ、ないな。美人相手ぐらい無い。」
「なんで美人相手だと話題出ないんだろうな」
「美人だからだろ」
「しかし今美人いないだろ」
「だから駄弁ってんだろ」
「「ああ」」
自転車置き場裏の日陰と、芝生を囲った石畳を覚えている。
「ん、塩川じゃん。珍しいね」
「ああ。……この場所、お気に入りだろ」
「なんで分かるの?」
「何しろ。この芝生が良い。」
【嗚呼、そうか】
【確かに覚えている】
過ぎ去った季節が、鮮明に
体育館の遠い天窓は良い。四階の美術室の風も、プールサイドの水面も、図書室の窓際にあった机も、照らされた下駄箱も、グラウンドの木漏れ日も、LLSの軒先も、最寄り駅の踏切も、誰もいない四号車の揺れも、海の見える下り坂も。
鮮やかな記憶を持っている。
干された洗濯物が揺れている。鳥は舞う、飛行機が雲を抜ける。
【『命の日』を覚えている】
【Memento ──『Vivum』.】
(もっと早く、気が付いていたなら)
(俺はあの景色を……)
【───選び取らなかった】
「代わるよ。」
……こうして塩川過去の心臓が止まる。白昼夢の中に溶けて、その蒼い炎は───
翌日の朝。
長い雨が上がり、水深4センチメートルの海は干上がっていた。朝露とともに苔に似た植物が緑を見せた。空と水と緑。都市そのものが、最初にあった姿に還ろうとする。黒い帽子を深く被った教官が、その内をゆっくりと歩いて行った。
斜めに曲がった道路標識の下に、一人間の身体が横たわっていた。
走り寄って肩を持つと、その顔色は良かった。
包帯の巻かれた左脚の上部に、適正な解毒治療を施した痕跡があった
───即ち、この副隊長には息があった───。
見渡す草原に、黒い塊が転がっている。教官は歩いて行って、それを拾い上げた。
「……嗚呼」
無機質なアクリル面と、はっきり目を見合わせる。それから、震える声でこう呟いた。
「君だったか。」
ひび割れた『フルフェイスヘルメット』だった。教官は立ち尽くして胸の痛みを噛んだ。見れば、インナーバイザーに『一枚の紙きれ』が挟まっている。教官は手に取って、片面に青いボールペンの字で
『Special Thanks.』とあるのを確かめた。
「捨てる、約束だったろう、これは。」
教官はとうとう膝から崩れ落ちた。フルフェイスの内側、その深い淀みの奥底に一瞬だけ、微かな蒼い炎が
───【じきに良い時代が来る】
万年筆のインクを以て、裏面にこう記してあるのだった。
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