2話 Worst weather

マンホールの蓋が地面に転がっている。傍には円形の穴があって、その中は深くよどんだ。

夜の村雨が暴風に吹かれる。「じゃぶ」と音がして、マンホールの穴から『何か』が出る。黒い鋼の『肢』であった。それは這い出ると、全身をマンホールの外側に現した。

雨中の荒廃地区に【Ecitonアリ】が出る。這う黒鉄であり、劇毒を持っている。大きさは人間より大きかった。

これは『人喰いアリ』だった。



───さて、音楽は聞こえていない。



停止したエスカレーターが、暗い深淵に続いている。下のほうに、薄ぼんやりとした緑色の光が覗く。旧「東京メトロ副都心線」の改札口は、あの非常灯の光の奥に眠っている。



「……」



肥大化した【異彩原鉱】が、上層への通路を塞いでいる。この場所が「行き止まり」だった。一度来た道を引き返して、旧「都営大江戸線」の改札口まで戻る必要がある。しかし引き返すにしても、水浸しの連絡通路は来た時よりいっそう暗くなっている。

地下で【暗転ブラックアウト】に呑まれることは、えて言えば「不幸中の災い」である。



(……考えても分からないくせ、『考えなし』は死んでしまうように思われる。)



そうこうしている内、活性化した【Ecitonアリ】が出てくるかもしれなかった。17秒が経った。水滴がポタポタ言う音は、既にぼやけて聴き取れなくなった。



「まずは」



重い採掘カバンのジッパーを開いた。発光性の【異彩原鉱】が、【暗転】下で妙に鮮やかな色彩を見せる。サブホルダーには、「結晶化した冬虫夏草」のサンプルをしまっていた。塩川はその鞄を掴み上げて、奥の淀みに向けて放った。鞄から溢れた宝石は、黒い水中に散らばって落ちていく。



「……夜目が鈍るといけない」



退路と打開策が無い。それで、見えない目と、聞こえない耳を持っている。連絡通路の暗闇に向き直って、塩川はこう考えていた、



(さて、どうする、『地獄の住民』)。



【Worst weather.】



水深4センチメートルの海を蹴る。

【蟻】が迫る。軋む金属音がして、瓦礫が落ちる。二、三歩遠のいて、その位置から銃声を鳴らした。矢継ぎ早にしろ、ひどく軽い。すぐに終わりが来る。切迫した足音で、【蟻】から逃げている。

(……)

特別鈍い銃声が一度だけ鳴った。それで、静かになる。

11秒が経った。

足を引きずって、再び踏み出した。かき分けられた水が、足元で波打つ。



(……ごく、ありふれた話だ)



七歩と歩けずに、塩川は地面に倒れた。【黒翳シェイド】の浸食症状が進行していた。

フルフェイスヘルメットの内側を、古い記憶が廻っていた。



【もはや失うことでしか、見出すことは叶わない】


【あの特異点の日に、君は】



───塩川亮は色覚を失っている。



少し今朝のことを思い起こして、立ち眩みを起こしたらしい。塩川は立ち上がって、奥の壁にもたれかかっている男に近寄った。

ゲウム第七部隊の副隊長が、蟻の針を喰らっていた。



「塩川か……へへ、俺は見ての通り下手こいちまったよ。【蟻酸】がまわって、妙に眠い。」


「……」


「お前、【インヴィクタス】を一人でやっちまうとはな。」


「……」


「嫌だなぁ、クズのまんま。」


「出口まで歩こう、副隊長」


「……ああ。」



肩を貸して、意味のない歩みを進める。長い階段の一番下に足をかけた時も、塩川の脳裏に焼き付いたものは剥がれ落ちなかった。

箱舟都市フロンティアは至って平穏で、風が泳ぎ、雲が流れ、飛ぶ鳩はたまにアルビノ個体であったり、オリーブの葉をくわえていたりする。中央駅前の噴水広場を抜けると、アクリルを噛んだガラスの透明橋が見えるので、あれは良い。水の潺に目を閉じるのも尚良い。

踊り場で体勢を崩しかけた。副隊長の手足に、もう力は入っていない。



(どうしてなのか)



自分がしていることの理由を、既に見失っていると分かった。塩川はまだ歩くのをやめなかった。



「悪いな、塩川。」



ようやく、旧東新宿駅のA2出口に辿り着いた。ここで掠れた声が聞こえた。

塩川は彼の身体を、斜めに曲がった道路標識の下に横たえた。



「副隊長。」



副隊長は静かになった。耳をつんざくような無音が襲った。雨の音が聞こえない。立ち尽くすフルフェイスに、心臓の感覚だけが在った。徐々に呼吸の音、雨音が聞こえてくるようになる。塩川は再び歩き出した。黒い交差点に、村雨が降っている。



「……俺が倒したのは【殺せない敵Invictas】じゃなくて、ただの【グンタイアリburchellii】だ。」



群れを成した【蟻】が、塩川を囲んでいた。



(嗚呼、分かった。)



竹箒に岩を掃く力はない。憂いは消えない、困難は絶えない。



(どれもこれも、何もかも)



世界がその許可を出している。



「今『ゲウム』が一人、戦って死んだぞ。」



銃口を向けて、先頭の一体に脅しかけてみた。特に反応は無かった。「じゃぶ」と音がして、一丁のハンドガンは沈んだ。弾薬がもう入っていなかった。フルフェイスは両肩の力を抜いた。口に出して言いたいことは、もう残っていなかった。実に、心臓の鼓動が完全に停止する11分前だった。



……塩川亮の『』だった。



【じゃあー、金曜の『女子会』に塩川も連れてくことにした。】


【パフェしようよ。】


【約束ね。】



(……そういやパフェするんだったか。)



不意に、こんなことを思い出す。



(約束しなきゃよかった。)



フルフェイスに蒼い火が宿る。水深4センチメートルの海を蹴る。

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