1話 Memento mori

ただ、何かが悲しくて、搔きむしっている。必死に追い求めた哲学は、ここで打ち止めになった。


───夢が醒め、色覚を失っている。

「……朝」

二段ベッドの上の段を使っているから、天井は近い。それを眠気眼に眺めたまま、なんとなく耳を澄ましていた。今朝も、木目は灰色をする。

近くで、鳥がさえずっている。三羽か、四羽くらいなのか、数を判別できないが、おそらくはスズメだと思う。

どこか遠くの方から、何か、長続きする音が届いている。

足音とも、話し声とも違う。どちらかと言えば風鳴に近い。ただ、それとも違う。暫く考えて、

「ああ、単軌空道エアーレールか」

と呟いた。そう思って聞けば、あれは箱舟都市フロンティアを泳ぐ単軌空道エアーレールの走行音に違いなかったのだった。


───西暦2040年七月六日、時刻、午前9時55分。

月曜の朝で、目覚まし時計が鳴り終えていた。黒い簡素な寝間着姿で、脇の梯子ハシゴに足をかけた。狭い四人用ドミトリーに、一つある小窓から朝日が差し込んでいる。外はよく晴れているらしい。


【Wake up.】

伸びをして、

「遅刻だ」

と言った。

既に、眠りつかれている。

───塩川過去シオカワカコというのが、彼の本名だった。


……今朝も『箱舟都市フロンティア』の単軌空道エアーレールはダイア通り、静かに都会を泳いでいる。

塩川は学生定期を以て改札を抜けた。

中央駅前の噴水広場に、帽子の子どもが何人かいる。そばで大人の女性が見守っていて、提げたバスケットに布がかぶせてある。あの中身は……サンドイッチなのだろう。ピクニックの日和だった。学生鞄を片方の肩に提げて、ゆっくりと高校へ歩いた。


アクリルを噛んだ透明橋は良い。所々に滑らかな木の板がはめ込まれていて、水路横の芝生に柔らかく影を落とす。水のせせらぎも良い。塩川は歩いて橋を渡った。水が光っていて、眩しい。それで塩川は思い煩って、自分の肩を睨んだ。

外の見えるエスカレーターを介して、七階の教室に向かった。


「今日も『寝坊』ということで、弁明は無いんですか。塩川君。」

「どうして俺はこう、だらしないんだろうと、最近思います。」

「まったく。……いいでしょう、席についてください。遅刻をした生徒には、今日も居残り掃除をやってもらいます。」

「すいません。」

「はは、いいんですよ。ざまをみてください。」

相変わらず、変わった担任だと思う。塩川は窓側の自席に歩き、そのおりに廊下側隅の女子生徒と目が合った。二度まばたきして、彼女───

七竈夏希ナナカマドナツキはなだらかに笑いかけた。



(……成程)



塩川は成程と思いつつ、席に着いた。それからすぐ、始業のチャイムが鳴った。



……さて、一つ平和があれば、時間は穏やかに過ぎていく。



箱舟都市フロンティアは至って平穏で、風が泳ぎ、雲が流れ、飛ぶ鳩はたまにアルビノ個体であったり、オリーブの葉をくわえていたりする。

それから、どうしてなのか、揺れる木々、遠くの空に時折、痛みに似たものを感じ取っている。



───(ひどく長い夢を見ていた気がするのに、内容は少しも思い出せない。)



塩川は頬杖をついて、一日中窓の外を眺めていた。


(視界が色褪せたのは、いつからだったか)


(俺はこのまま、ずっと思い出せずに。)

【……memento ───.】



放課後、塩川は掃除用具を持って教室に残った。

この日は七竈夏希も一緒だった。



「ん、届かないや、塩川ー。」


「あいよ」


「そっち持って塩川。」


「あいよー」



(……よく見てるな)塩川はこう思った。彼女が塩川に手を借りるのは、決まって教室内の物音が止んだ直後だった。閑静な校内で、お互いの一挙手一投足が直に伝わっていた。



「結構楽しいのかもな。」



しゃがんだ塩川が塵取りを眺めながら呟くと、箒を持った七竈は笑った。



「塩川ってやっぱ変なんだ」


「……変じゃない」


「変だよ。」



塩川は不服そうな目を向けてやるが、七竈はやはりなだらかに笑いかけたのだった。隅に寄せた机は間もなくして、普段通りの位置に戻る。



「ね。」



とだけ声がかかったので視線をやると、その『ね』と言った声色通りの目付きをした七竈が、窓際の机に腰掛けて塩川を見ていた。窓からの光が斜めに差し込んで、世界の明暗がくっきりと分かれている。同じ色の机が白かったり黒かったりした。



「もうおしまい?」



彼女の焦げ茶色の髪が、光の当たる分だけオレンジ色になっていた。



「……」


「……塩川、聞いてる?」


「あー、悪い。おしまい、今日は特別長かったくらいだ。」


「あそ。……塩川ってなんか、毎日暇そうじゃない?」

七竈が問いかけて、塩川は少し考え込んだ。

「……これぐらい、何も無い方が良い。」



これが塩川の本音だった。

なんの変哲もない日の、他愛のない会話が続いた。それが塩川の胸中を強く打って、漠然とした確信を与えた。

美しい世界で、明確に、罪を抱えている。



(そうだ、俺の。……塩川過去の『日常』は───)



【──memento mori.】



同日午後、7時55分。

───方舟都市フロンティア郊外【シンジュク・シティ】六丁目防衛自治区、旧東新宿駅構内。



〔周辺一帯の【暗転ブラックアウト】発生を確認。全隊員は直ちに任務行動を中止、離脱急げ。なお、この通信もすぐに途絶し……───〕



浸水した連絡通路。ガラクタじみたトランシーバーから撤退命令が下りる中、その「行き止まり」に潜伏していた。

顔を覆うを被ったまま、一丁のハンドガンに弾薬を詰め直している───



───『ゲウム』階級の下級兵で、名前を『塩川亮シオカワリョウ』と言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る