0話 One step from Hell
湖畔に倒れた人物に、十才の
ベンチに置いていたレジ袋を持ってきて、傍にしゃがみ、仰向けのフルフェイスヘルメットを覗き込んだ。黒いアクリル面の奥は伺えない。下を向いた掌を返し、開封前の紅しゃけおにぎりを掴ませてみる。その腕がおにぎりを持ち上げようとするが、途中で力尽きた。今度はミネラルウォーターを持たせてみたが、同じようになった。
「ん」
まるで、ひときわ大きな「ダンゴムシ」が目の前にくたばっているかのような、手の施しようのなさがあった。ペタペタ叩いたところで、ヘルメットがどうかするということは無かった。が、何とかしてこれにお世話しなくてはならない。他に仕方がなかったので、翠はそのフルフェイスヘルメットを
「……!」
人肌が覗くと、翠は吃驚してへたり込んだ。大きな「喉仏」が上下して、命の脈動を見て取ったからだった。こうしてはいられないと思って、彼女はおにぎりの包装を開けた。それからもう一度擡げてみると、やはり同じようになっていた。
それで恐る恐る、小さな手で持ったおにぎりを、その顎の傍に近づけたのだった。
───(食べた……!)
どんどん嬉しくなっている。ゆっくりと咀嚼されたものが、喉を通っていった。今度は具のある部分を食べさせた。また同じようになった。フルフェイスヘルメットの男が、翠の手からおにぎりを食べているのだった。飲み込んだそばから、翠は「ん」と言って続きを差し出した。
おにぎりはすぐになくなってしまった。翠は指先についた米粒を一粒だけ食べたが、これは満足なものだった。翠はボトルのキャップを開け、中に入ったミネラルウォーターを飲ませた。ボトルのミネラルウォーターを一口分注いでは、飲むのを待つのだった。翠は最後、飲み口の縁に残った水滴をぺろと舐めた。これも喉を潤した。
暫くして、フルフェイスヘルメットの男は遂に起き上がった。
『助かった』
「ん」
翠は表情を変えないなりに、頷いた。
フルフェイスヘルメットも小さく頷き返した。
『LSSがあるのか?』
「……そうだった。」
翠は此処に来た用を思い出した。揺れは収まっている。
「こっち」
翠は小さな手で、フルフェイスの男の手を引いて行った。倒壊した【JR新宿駅】の駅構内に向かうのだった。
「しょくぶつえんってどんなところ?」
『ここみたいなところ』
「それじゃわからない」
『
「……しょくぶつえんは葉っぱを見るところ?」
フルフェイスは小さく頷いた。
「ふーん……あれは?」
『あれはペリカンだ』
「あれは?」
『ハシビロコウだ』
「じゃあ、あれ」
『俺にも分からない
おそらく新種のバナナだ』
「ふーん」
二人は券売機群の前まで来た。券売機はどれも破損しているが、一台だけ、機能の生きているものがあった。翠は「みてて」と言うと、ポケットからカードホルダーを出した。
〔チャージ金額を入力してください〕とある。
ホルダーの隙間に、現金の一万円札を挟んでいた。翠はそれを抜き出して、券売機に飲ませた。
それで、ICカードの残高は19994円になった。入金が終わると、翠は破損した券売機の内側に手を突っ込んだ。すると、一万円札が出てくる。
「このようにお金を増やす。……いほう?」
翠が支払った金額は、丸ごとが彼女の手元に戻ったのだった。
翠がフルフェイスの表情を伺うと、それがピクと跳ねた。驚いているようにも見えた。
『君は今まで、何回ここに来た?』
「わからない」
暫く俯いた後、フルフェイスは崩れた天井を仰いだ。それから彼は、翠のあたまを不器用に撫でた。
『少なくとも』
───『この壊れかけの機械が君を守った。』
意味はよく分からなかったものの、優しく触れた手があった。翠はどこかにっこりしながら頷いた。
『今日は、食べたいものを食べよう。』
駅を出て、フルフェイスがこう記した。
「ん。……じゃあ、あれがいい。」
翠が迷わず指差したのは、古い「メロンパン」の移動販売車だった。フルフェイスがメモ帳を
二人は四車線の草原の、少し坂になっているところのLLSに寄った。
「これも?」
フルフェイスが頷く。翠は彼の指示通りにして、購入した「薄力粉」と「強力粉」を見比べた。
「メロンパン?」
翠にはさっぱり理解できなかったが、フルフェイスはこくこくと頷いて、翠のあたまを撫でた。
「……この『きかい』はなんで動いてるの?」
───『【entropy】の【paradigm shift】が【singularity】だ。』
「……?」
───『【
翠は男の脇腹を殴った。
買い出しを終えた彼らは、狭い移動販売車の車内に腰を下ろした。翠が手に持った紙パックの「いちご牛乳」を飲んで、彼女は吃驚した。
『うまいだろう
いちご牛乳は』
「あますぎ」
『そこが良い』と書かれた。フルフェイスの男は古びた機械を手入れしながら、合間の片手で器用に話すものだった。
「これはなに」
『ストロー』
「ふーん……それは」
『
少し苦い』
「……」
『のむなら一口』
フルフェイスは振り向きもせずに、翠が「これ」とか「それ」と言ったものを答えた。飲み物の好み以外は、よく汲み取るらしい。メモ帳を繰った黒い手袋が、水色のボールペンを器用に回している。翠は不思議そうに眺めながら、変わった香りの飲み物を飲んでみた。
「にがい」
フルフェイスは振り向いて、翠のあたまを撫でた。オーブンの庫内灯を点けると、こうメモ帳に記した、
『おいしいメロンパンを焼こう』。
「翠もやるの?」
『君がやるんだ』
「……おじさんはどうするの?」
『読書』
「だめ」
『分かった
そばで見ている』
「ん」
『あと、俺はおじさんじゃない』
小麦粉の香りが漂い始める。フルフェイスのメモ帳が、少しずつ埋まってきていた。
「……こう?」
彼女が尋ねると、フルフェイスが頷く。
翠は男の膝の上に座って、小さな手でパンの
『次はバターを入れる』
フルフェイスは斜め上から首を出して、筆談用のメモ帳を覗いていた。翠はその腕の内側から、同様にメモ帳を見ていた。翠が逐一「これ?」とか「こう?」と振り向いて訊くのに、フルフェイスは都度、無言の頷きを以て応えた。
「ふくらんでる」
フルフェイスの膝の上で、翠はオーブンの窓を覗き込んだ。メロンパンは、完成を待つのみになった。
『俺が誰か?』
「うん」
『内緒』
「じゃあ、なんで喋らないの」
『それも内緒』
「……いじわる」
『いじわるじゃない』
「なんで教えてくれないの」
───『どうしてだろう
俺にも分からない』
「んん……それじゃ、翠はわからない」
缶コーヒーを持ったフルフェイスは、さっきから、遠くの空を見ている。翠には何も分からなかった。その独特な雰囲気だけが、どこか懐かしい。石か空気のような、無機質でとっつきにくい唐変木に、大人しい翠の口もよく開いた。
『頃合いだ』
「メロンパン、できたの?」
フルフェイスは深く頷いた。ぶかぶかの白いミトンをつけて、翠はオーブンを開けた。少しの熱気と、焼いたパンの甘い香りが満ちたので、彼女は吃驚した。
『みずうみのベンチに行こう』
「ん」
紙袋いっぱいのメロンパンを抱えて、駅間の湖畔にあるベンチまで歩いた。熱いパンを胸に抱えていた。
湖畔のベンチに、飲みかけの缶コーヒーといちご牛乳を挟んで座った。
翠が「いだたきます」と言って、フルフェイスが『いただきます』と記した。
「あったかい」
『やけどをするといけない』
「わかってる」
『たくさん食べるといい』
フルフェイスが記して、翠は湖の水面に視線をやる。鳥のさえずりの内に、翠は沈黙した。指でメロンパンをさわってみると、ふかふかしている。
「……翠のおとうさんみたい。」
ぽつりと、彼女が言った。
フルフェイスは缶コーヒーを置いて、その手をそっと翠のあたまの上に置いた。
翠は、黙って泣いた。
両手で持った大きなメロンパンを噛んで、ぽろぽろ、涙を
『美味いな』
「ん」
『ああ、そうか』
【……Long time no see.】
日の当たる大地の芝が、湖の
───【嗚呼、今に過ぎ去る】───
と、こう告げた。突き動かされて、フルフェイスはベンチを
『今になって
ようやく気づいた』
数々の思念が、一瞬にして、頭を駆け巡った。
(日々も、言葉も、手の傷も、脚の疲れも、記憶も)
【惰性から貪り喰った】
【嫌気が差していた】
【沁みついていた】
【立ち止まった】
【聞かなかった】
【裏切り続けた】
───『俺自身が選んだ』
湖に雷が落ちた。
「……なんで、光ってるの?」
『これは【ユメ】だった』
「ゆめ?」
フルフェイスが深く頷く。翠はよくわからなかったので、メロンパンをもう一口食べた。
『もう少しすれば
みんなが目をさます』
次第に、光は強くなっていく。
『じきに、良い時代が来る。』
翠は不思議そうに眺めた。
『その時まで、
ここで待つ』
白い光が溢れると、昼間のベンチが濃い影を作った。それでも、彼女には不思議と眩しくなかった。翠はまっすぐに見ていた。強い【痛み】が、再びフルフェイスの内側を巡った。
【歩み出せる】
【憂いを抱えたまま】
【虫の食ったまま】
【───この足で】
【One step from Hell.】
『空っぽのメモ帳を
君が埋めた』
取り留めもない雑談で、メモ帳が埋められた。急に、最後のページになる。遂に、最後のページを書き記す。この意味も、フルフェイスに分かった。
『君に会えてよかった』
閃光がはじけると、景色の全てが溶け出す。無機質な白い世界で、その人は黒いが、内側に蒼い火が宿っている。
翡翠色の瞳の女の子が、黙ったまま、その姿を眺めていた。
夢はもうすぐ覚めるということを、どこかで、痛いほどよく分かっている。
2040年、春。起承転結のあった、その後。
【……Just a little more.】
ある日の昼下がりのこと。一人の男が、ハイウェイ沿いの、駐車場のある
広い敷地には、男の他に誰もいない。ただ、U字型の「バリカー」に囲われた、軒下の
男の他には、誰も、居なかった。
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