塩川の日常《リプレイ》
@karashina_hentetsu
-1話 May God bless you
意味もなく散歩するような夢を、時折見る。
どこか新しい街で、揺れる街路樹を眺め、深い息、風の匂い、流れる水の気配を知っている。夢中の自分は、過ぎる時間をただ喜んでいる。
ところが目が覚めた朝に、その景色を覚えていない。思い出そうとして、どうにも思い出せなくて、微かな痛みが喉に残る。
そういえば自分は、惰性から日々を喰い潰す馬鹿である。恩を知らない阿呆、なにか面白い夢を見ようとして、一日中眠っている間抜けでもある。
【嗚呼、今に過ぎ去る】
漠然とこう考えて、過ぎる時間をただ、憂いていた。
「いつか良い時代が来るだろうか。」
───それで、また目を閉じた。
【……Take your time. 】
ある日の昼下がりのこと。一人の若くてかわいい女の子が、ハイウェイ沿いの、駐車場のある
広い敷地には、この子の他に誰もいない。ただ、U字型の「バリカー」に囲われた、軒下の
───ところで、この日和のことを指して、「天気雨」また「日照り雨」、あるいは「日向雨」、ひいては「狐の嫁入り」と呼ぶことがある。
それが、新しいコンクリートに降り続いている。彼女の他には誰もいない。
アクリルを噛んだLLSのガラス張りに、うっすらと彼女の姿が映る。
背が低く、白いパーカーを着ている。傘を持っていないが、ぶかぶかの長靴を履いている。そして、
暫くあの濡れた鳩を見つめていたが、それが遂に飛んでいってしまった。彼女は軒下を歩いて行って、店の中に入った。
店内はがらんとして、音楽も無い。
自然光を迎えたイートインスペース、ランドリー、無人のサービスカウンター、バッテリースタンドを通り過ぎた。
「食べ物を売っている自販機」が並んでいる。
───紅しゃけおにぎりは432円だ。
女の子はそれを買って、脇の画面に〔残高 10049円〕とあるのを見た。装置の内部で静かな作動音が続いて、最後に「すとん」と言った。女の子は包装されたおにぎりを取り出し口から取った。
LLSでの買い物は、一様にこのような手順で行われる。
「レジ袋」は7円、ボトル入りのミネラルウォーターは48円だった。それで、カードの残高は9994円になった。彼女は買い物が済んだので、自動ドアから外へ出た。
雨が上がっていた。駐車場が明るくなって、軒の日陰は前に伸びた。見れば、水滴のたくさん付いたU字型のバリカーに、さっきのアルビノの鳩が止まっている。何処かから緑の葉をくわえて、此処に戻ってきたらしかった。そばには大きな水溜りがあった。そこに空が映った。
(……)
水溜りの中を、何かが泳いだ気がした。
それで、女の子は顔を上げた。駐車場の向こうには、本線に沿った半透明のパネルが見える。そのさらに向こうの晴れ間に、目を見張った。
雲の隙間に
……長らく、車の音は聞いていない。
彼女は歩き出した。道路に出て、その中央を堂々と進んだ。その足で、開けたところに出る。ハイウェイ本線、彼女は道路の上に立った。
虹は見えなくなっている。あれは静かに現れて、静かに消えたのだった。道路の上にある、大きな緑の看板が道を示した。
【……Take it easy.】
太陽が眩しいから、一度目を閉じる。瞼の血が透けて、強い赤色が見える。風が木々を揺らす音と、ほのかに草木の匂いがする。さて、こうして目を開ける。
【The "Story" is over.】
───西暦2040年の春。起承転結のあった、その後。
東京は、水没していた。
【
六車線のハイウェイライン、水と
かつて【シンジュク】と呼ばれた遺跡群。
女の子は紅しゃけおにぎり一つと、500mlのボトルが入ったレジ袋を提げて、
「お金、無くなってきた。」
と呟いたのだった。LLS───これは『Life Line Service』の略称だった───の明かりは、ずっと灯っている。
ただし、彼女の他には誰も居なかった。
さて、女の子は長いこと坂を
眼前に、透き通る
道路は、ここで水没している。奥に見えるインターチェンジ(IC)の設備は、丸ごとが水面の下にあるのだった。
「……あった。」
反対車線の脇に、一
───それで、漕ぎ出した。浮いたボートから、見渡してみる。倒壊した建物の隙間を縫うにしろ、向こうの高架下を
女の子はボートの下を覗いて、暫く手を止めた。というのも、透明な水を、魚が泳ぐからだった。小さな魚の群れも、
吹いた風がボートを揺さぶってようやく、女の子はもう一度漕ぎ出したのだった。
「……また、地震。」
鳥たちが飛び立って、都市全体が震える。
遠くの古い橋が落ちているのが見えた。最近妙に増えてきた地震を、彼女はもう怖がらなくなっていた。じきに、陸地が見えてくる。石造りの階段坂の頂上が、水面の上に及んでいるのだった。そこに丁度よく水面から出た手すりがある。女の子はボートを括り付けて、柔らかな緑の大地に降り立った。
明かりの消えた信号機と、白い縞模様と四車線分の草原を過ぎて、彼女は奥に構えた大きな建造物へ向かった。
───かつての【JR新宿駅】だった。
「まだ揺れてる。」
微かに足元を揺らす余震が、緑地に続いている。駅構内は大きく倒壊しているから、苔の喰った鉄骨が少し不気味である。
ところで、中央口のすぐ前には湖があって、その底には、水没した地下鉄のホームがよく見える。その上を大きな
と声をこぼした。購入したおにぎりの中身は「紅しゃけ」だったが、実は特別好きということもなかった。女の子は一旦、その
【Don`t worry.】
かつて多くの人を運んでいた車両も、群青に伏して眠っている。今やその上を大きな魚と小さな魚が泳いでいて、陽の光を微かに通した車内座席に紫の海藻が生育している。地下鉄の線路は光る湖底洞窟の骨格となって、そこかしこの駅と繋がっている。
誰かが造り上げた、もしくは掘り下げた文明は、歪な形で、自然へと還った。その淡水で、海魚のマグロが群れを成す。
「……?」
女の子は湖の底に『蠢く影』を見る。
「ん」
何処からやって来たのだろうか。分からないが、彼女の足は自然と動き出した。というのも「
深い青の中で、鯱は大きく
瞼を閉じて開くと、水の中にいる。
陽の光を浴びて、水泡が舞う。浮かぶような心地で、翠の身体は沈んでいく。待ち構えた群青が、少女を呑もうとしていた。
動かなくなった電車が、湖の底で発車時刻を待っている。鯱は流木のように去って、電光掲示板に文字は流れない。あたりは穏やかだった。ただ、それがひどく悲しくて、翠は上を向いた。水面越しの空は、あまりにも綺麗に輝いている。ふと何かが分かった。
息が苦しくて、泳げないのである。
耳鼻が痛んで、目がよく見えず、喉につっかえがあるので、もがくしか、仕方がないのだった。
実に、少女は待ちくたびれていた。
───伸ばされた腕が、彼女を抱いて引き上げる日。
【May God bless you.】
「けほっ」
咳き込んだ翠の額を、顔の見えない、フルフェイスヘルメットが覗き込んでいる。それが少し動いて、驚いた。
久しく見た、自分以外の人の姿だった。
翠は髪を芝生に流して、
『平気か』
メモ帳に水色のボールペンの字で、こう書いてあった。
「んん」
過ぎ去った記憶が、喉の奥からこみ上げてくる。翠は、上手く返事が出来なかった。
ある六月、濡れた靴下を自分で乾かしている。
ある八月、LLSのイートインコーナーで、窓の外の明るい道路を眺めている。
ある十二月、末端の赤くなった指先を、凍った街ですり合わせている。
いただきますも、ごちそうさまも言ったが、一人分だった。
『歳は』
「なんて読むの」
素早く振り仮名が振られた。
『
「……十さい」
『素直でいることだ』
フルフェイスは新しい白のタオルを持って、横たわる翠の髪をクシャクシャに撫でた。人の手の感触があると、翠は不意に物凄く悔しいような気持になった。どういう感情か分からないうちに、下唇が震えだしていた。
ただ長い孤独を知っている。
翠の眼を、顔の見えないヘルメットが見ていた。そこで、翠は泣いた。
『ところで』
「ん」
『なにか食べ物をくれないか』
暫くして、フルフェイスはこう切り出した。少女が不審がって文章の続きを待ったが、フルフェイスはすぐに、湖畔の芝生に横たわってしまった。メモ帳は地面に転がった。
「……?」
酷く荒い字で
『腹が減っ』と書いてあった。
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