塩川の日常《リプレイ》

@karashina_hentetsu

-1話 May God bless you

さて、彼は惰性から日々を喰い潰して、貰った恩も思い出さない阿呆でる。なにか面白い夢を見ようとして、一日中眠っている間抜けでもある。

ただ、時折そこに、特に陽当たりと風抜けの良い日に、どこからともなく喉の痛みがやってきて、

【嗚呼、過ぎ去る】

と、静かに告げるのだった。

「じきに良い時代が来るだろうか。棄て去りたかったような日々を、ひねもす賛美して受け取る時代が。」

───それで、彼は目を閉じた。



……Take your time.



ある日の昼下がりのこと。一人の若くてかわいい女の子が、ハイウェイ沿いの、駐車場のあるLLSコンビニの軒下で雨やみを待っていた。

広い敷地には、この子の他に誰もいない。ただ、U字型の「バリカー」に囲われた、軒下の犬走いぬばしりの反対側に、羽根を濡らしたアルビノのハトが一匹とまっている。自動ドアの前には、真新しい白線が続いた。それが日陰から日向へ差し掛かったあたりで、光る雨粒が跳ねている。

───ところで、この日和のことを指して、「天気雨」また「日照り雨」、あるいは「日向雨」、ひいては「狐の嫁入り」と呼ぶことがある。

それが、新しいコンクリートに降り続いている。彼女の他には誰もいない。

アクリルを噛んだLLSのガラス張りに、うっすらと彼女の姿が映る。

背が低く、白いパーカーを着ている。傘を持っていないが、ぶかぶかの長靴を履いている。そして、翡翠ヒスイ色の瞳をしていた。

彼女は暫くあの濡れた鳩を見つめていたが、それが遂に飛んでいってしまうと、軒下を歩いて行って、店の中に入った。


店内はがらんとして、音楽も無い。

自然光を迎えたイートインスペース、ランドリー、無人のサービスカウンター、バッテリースタンドを通り過ぎて、「食べ物を売っている自販機」の一つに近寄った。


───紅しゃけおにぎりは167円だ。


女の子はそれを買って、脇の画面に〔残高 10049円〕とあるのを見た。装置の内部で静かな作動音が続いて、最後に「すとん」と言った。女の子は包装されたおにぎりを取り出し口から取った。

LLSでの買い物は、一様にこのような手順で行われる。

「レジ袋」は7円、ボトル入りのミネラルウォーターは48円だった。それで、カードの残高は9994円になった。彼女は買い物が済んだので、自動ドアから外へ出た。


雨が上がっていた。駐車場が明るくなって、軒の日陰は前に伸びた。見れば、水滴のたくさん付いたU字型のバリカーに、さっきのアルビノの鳩が止まっている。何処かから緑の葉をくわえて、此処に戻ってきたらしかった。そばには大きな水溜りがあった。そこに空が映った。

(……)

水溜りのを、何かが泳いだ気がした。

それで、女の子は顔を上げた。駐車場の向こうには、本線に沿った半透明のパネルが見える。そのさらに向こうの晴れ間に、目を見張った。

雲の隙間の蒼穹ソウキュウに、二重虹フタエニジが現れていた。

……長らく、車の音は聞いていない。

彼女は歩き出した。道路に出て、その中央を堂々と進んだ。その足で、開けたところに出る。ハイウェイ本線、彼女は道路の上に立った。

いつの間にか、虹は見えなくなっている。あれは静かに現れて、静かに消えたのだった。その代わりとして、道路の上にある、大きな緑の看板が道を示した。



……Take it easy.



太陽が眩しいから、一度目を閉じる。瞼の血は透けて、強い赤色が見える。風が木々を揺らす音、それと、ほのかに草木の匂いがする。さて、こうして目を開ける。

道の向かう先は───



The "Story" is over.



───西暦2040年の春。起承転結のは、既にその幕を閉じている。

東京は、水没していた。

超緑化チョウリョクカした都市】の俯瞰フカンが、少女の視界に広がっていた。崩れた建造物の群れ、空と水と、鮮やかな緑が光った。長い長い下り坂が、その場所へと続いた。

六車線のハイウェイライン、水と超緑チョウリョクの幻想都市───

かつて【シンジュク】と呼ばれた遺跡群。

女の子は紅しゃけおにぎり一つと、500mlのボトルが入ったレジ袋を提げて、



「お金、無くなってきた。」



と呟いたのだった。LLS───これは『Life Line Service』の略称だった───の明かりは、ずっと灯っている。

ただし、彼女の他には、誰も居なかった。



さて、女の子は長いこと坂をりてきたが、ようやく平たんな下道と繋がろうというところで、道路の端に低い芝が見え始める。その生い茂った青い芝に、コンクリートの地面が段々と呑まれていって、中央を走る白線だけが残った。女の子は、すぐに立ち止まった。

眼前に、透き通る水面ミナモが揺らめいていた。

道路は、ここで水没している。奥に見えるインターチェンジ(IC)の設備は、丸ごとが水面の下にあるのだった。



「……あった。」



反対車線の脇に、一ソウのボートが泊めてある。女の子は水際ミギワを歩いて行って、それに小さな足をかけた。ガードレールの脚に括り付けた鎖の金具を解き、一本のオールを取った。

───それで、漕ぎ出した。浮いたボートから、見渡してみる。倒壊した建物の隙間を縫うにしろ、向こうの高架下をくぐるにしろ、水面はずっと奥まで続いていた。

次に女の子はボートの下を覗いて、それから暫くは手を止めた。というのも、透明な水を、魚が泳ぐからだった。小さな魚の群れも、シマのある少し大きなものも、次から次に、悠々と泳いできて、悠々と泳いでいった。電柱は全体の六分ほどが水にかっていて、どの幹の傍にも何匹か、少し大きい魚が留まっていた。水底のガードレールの影にも、何かが居るらしかった。

吹いた風がボートを揺さぶってようやく、女の子はもう一度漕ぎ出したのだった。



「……また、地震。」



鳥たちが飛び立った。どうやら都市全体が震えているらしい。

遠くの古い橋が落ちているのが見えた。最近妙に増えてきた地震を、彼女はもう怖がらなくなっていた。じきに、陸地が見えてくる。石造りの階段坂の頂上が、水面の上に及んでいるのだった。女の子は階段の手すりにボートを括り付けて、柔らかな緑の大地に降り立った。

明かりの消えた信号機と、白い縞模様と四車線分の草原を過ぎて、彼女は奥に構えた大きな建造物へ向かった。

───かつての【JR新宿駅】だった。



「まだ揺れてる。」



微かに足元を揺らす余震が、緑地に続いている。駅構内は大きく倒壊しているから、苔の喰った鉄骨がいつ崩れるか知れたものではなかった。

ところで、中央口のすぐ前には湖があって、その底には、水没した地下鉄のホームがよく見える。その上を大きなマグロの群れが泳ぎ去るのを眺めて、女の子は「ツナマヨにしても良かった」と声をこぼした。購入したおにぎりの中身は「紅しゃけ」だったが、実は特別好きということもなかった。女の子は一旦、そのホトリにポツンとあるベンチに座った。ボトルとおにぎりの入ったレジ袋が、明るいベンチに置かれた。



Don`t worry.



かつて多くの人を運んでいた車両も、群青に沈んだまま安らかに眠っている。今やその上を大きな魚と小さな魚が泳いでいて、陽の光を微かに通した車内座席に紫の海藻が生育していたりもする。地下鉄の線路は光る湖底洞窟の骨格となって、そこかしこの駅と繋がっている。

誰かが造り上げた、もしくは掘り下げた文明は、歪な形で、自然へと還った。そので、海魚のマグロが群れを成す。



「……?」



女の子は湖の底に『蠢く影』を見る。



「ん」



何処からやって来たのだろうか。分からないが、彼女の足は自然と動き出した。というのも「シャチ」が居たからだった。

深い青の中で、鯱は大きくヒレを返した。命の躍動を見て取って、彼女は身震いした。それで、深く淀む湖の淵まで引き寄せられて、白いパーカーの少女───



浅木翠アサギスイは、足を滑らせた。



思わず閉じた瞼を開くと、水の中にいた。

翠の目に映るのが、陽の光を浴びて舞う水泡だった。浮かぶような心地で、翠の身体は確かに沈んでいく。群青の世界に取り残される感覚が、遂に翠を呑み込んでしまった。



──女の子は息を忘れる。



何かを待ち続けていたらしい。何一つ不自由のない光の湖に、ずっと溺れ続けていた。見上げる晴れ空に、手が届かなかった。電車は動けなくなったのに、湖の底で発車時刻を待っている。鯱は流木のように去ってしまって、電光掲示板はどれだけ待っても光らない。水面越しの空はあまりにも輝いて、息が苦しい。

翠はずっと、待っていた。



May God bless you.



───伸ばされた腕が、彼女を抱いて引き上げる日。



「けほっ」



咳き込んだ翠の額を、顔の見えない、フルフェイスヘルメットが覗き込んでいる。それが少し動いて、驚いた。

久しく見た、自分以外の人の姿だった。

翠は髪を芝生に流して、睫毛まつげの濡れたまま目を見開いた。背の高い、黒服の、フルフェイスヘルメットをかぶった人間がメモ帳を差し出して、翠に見えるように繰って見せた。



『平気か』



メモ帳に水色のボールペンの字で、こう書いてあった。



「んん」



翠は、上手く返事が出来なかった。過ぎ去った記憶が、喉の奥からこみ上げてくる。ある六月、濡れた靴下を自分で乾かしている。

ある八月、LLSのイートインコーナーで、窓の外の明るい道路を眺めている。

ある十二月、末端の赤くなった指先を、凍った街ですり合わせている。

一人分のいただきますとごちそうさま。



『歳は』


「なんて読むの」


素早く振り仮名が振られた。


としは』


「……十さい」


『素直でいることだ』



フルフェイスは新しい白のタオルを持って、横たわる翠の髪をクシャクシャに撫でた。人の手の感触があったので、翠の下唇は震えた。目頭が熱い。

長い孤独を知っている。翠の眼を、顔の見えないヘルメットが覗き込んでいた。



『ところで』


「ん」


『なにか食べ物をくれないか』



暫くもせず、フルフェイスはこう切り出した。少女が不審がって文章の続きを待ったが、フルフェイスは突然、湖畔の芝生に横たわってしまった。メモ帳は地面に転がった。



「……?」



酷く荒い字で

『腹が減っ』と書いてあった。

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