第11話

「そのうちにね、母はまるでうちに寄り付きたくないみたいに、出かけることが増えて。でも、私は母が浮気してたとは思ってないの。だって、母が死んだとき、父はじっと背を丸めて、耐えて、耐えて、耐えてた。あれは、浮気を疑ってた人の姿ではなかったと思うの。夫婦だったら、分かるでしょう? 

話が先走っちゃった、ふふ」


 ここで美知は少し言葉を切った。洋一が黙って、近くの自販機から、缶コーヒーを3人分買ってきた。

「サンキュー」

  美知の話では、あの「Michi」と名付けられた喫茶店が、夫婦の不和、いや、不和とまでもいかないすれ違いのきっかけのようだった。少なくとも美知は今もそう考えているらしかった。

「母はある意味完璧だったのよ。でも、完璧じゃない自分をいつも私に吐き出していた。父への不満。でも、私は自分の名前を付けてもらって、父が誇りを持っているあの店が好きで。

 母が父を見下すなら、私が母を見下そうと決めたの。私は反抗的になって。母はいやなものを見るように、私を見るようになって。

 あの日、家を出ていく母に私は『行ってらっしゃい』をわざと言わずに無視して、そしたらその直後に」

 ぽろぽろと美知の目から涙があふれ出た。

「車のスリップするような音が聞こえて、何かぶつかった鈍い音が聞こえて、ただ事じゃないなと思って、外へようすを見に行ったの。

 周りからの人がばらばら出て遠巻きにしてた。

 私は、不思議と予感がして、その事故現場の方にまっすぐ歩いて行って、見ちゃったの。母の無惨な姿を。

 最初見たときは、母は不自然に横になってぴくぴくしてた。後から思えば、いえそのときも分かってたのに、私『生きてる』って叫んで走り寄ったの。すぐ血を止めなきゃ、と思って。でもそれは血が噴き出る勢いで動いていただけ。

 遠くからはただ倒れているように見えたけど、違うの、反対側の、車にぶつかった方の身体はもう潰れてた」

「もう、いいよ。話さなくて」

 操は低い声で言った。

「ううん。今話さないと、きっとずっと、私の頭の中にそのまま残り続ける。頭ではもう死んでると分かってたのに、私は周りの人たちに『血を止めて、血を止めて』とばかり言っていて、でも私は足がすくんで近づくこともできなかったの。

 頭のなかは『勘弁してよ』って気持ちだった。さっきあいさつしなかったことばかり頭にこびりつついて。いきなりこんなふうに死ぬなんて、私が困るって。

 あんなに嫌いで、母の悪口ばかり考えてたときに、いきなり死んじゃったのよ。ずるいよね」

 しゃくりあげる美知を前に、二人の男はしばし、黙っていた。

 操は何か言わなければならないと思いながら、言葉が出ずに、考え込んだ。

 洋一は、しばらく沈黙した後に、静かに言った。

「人の死は、やはりつらいよ」

 操もそっとうなづいた。

 「ああ、それは」などと軽く言えるものではなかった。操は久しぶりに戦場の苦しさを思い起こしていた。「戦場の実態を伝える」などと言いながらも、そこにあるのは大勢の死ということを超えた、ある、一人の生きていた人間の死にほかならず、抽象化を拒否する。そこに迫るのはやはり一番困難を極めることだった。

「嫌いだから、死んでほしくなかった」

 美知は小声で言った。そして、

「ごめんね、こんな話」

 とつぶやいた。

 操は黙っていた。

 やがて、美知はふふ、と弱く笑った。

「関口さんが、現地の人に好かれるのは、なんか分かる気がする。気持ち、何も言わないけど、理解している。言葉が通じなくても、それが分かるから」

「そんなことはないよ」

 暗い口調で操は言った。

「先輩がさっき言ってたのは、買い被り。人の死は、現地の人の死は、ぼくにはやっぱり他人事で、そうだ、ある意味飯のネタにしてただけなんだ」

 洋一は軽く肩をすくめて見せた。

 美知は泣いて少し落ち着いたのか、今は泣き笑いの表情になっていた。

「誰だって、何かを飯のネタにしなきゃ生きていけないよ」

 美知がうがったことをいう。

「気にするな。こいつは、いつまでもうじうじしてて、おれも辟易しているのさ。でも、どうだ。やっぱり取材は面白いだろう」

 洋一のしつこさに操は苦笑する。

「ああ、面白いよ」

 操は投げやりに答えた。

 美知がすっかり元気になったのを見はからって、それぞれの部屋に引き上げた。

 部屋で二人になると、洋一が言った。

「なんだかんだ言って、面白いだろ」

 操が答えないことも気にせず、さらに話しかける。

「今のお前は、1週間前と比べたって、ずっと生き生きしてるよ。しかもかわいい女の子まで引っかけてくるとは予想外だったが」

「やめろよ」

「分かってる、分かってる。でも、いい子じゃないか」

「そうだな」

 それから急に真面目な表情になって洋一は言った。

「飯のネタ云々なんて、どうだっていいだろ。おれはさ、どんな理由だって、やったことに意味があると思ってる。そんなの、おれたちの常識だろ。いい絵を撮る、いい記事を書く。メディアに載せて知らしめる。それだけを目標にしろよ」

 操は返す言葉がなかった。

 翌日、洋一はホテルから会社に出た。夜はまた来るという。美知も東京の友人に連絡をつけて遊びに行くので、帰りは遅くなるという。操は一人になり、とりあえずいったん自宅に帰って、荷物を整理してまたホテルに来ることにした。すでに二泊分は予約を取ってある。

 持っていたカメラは、現場写真を撮ったりした以外はあまり使っていない。洋一の言葉にあったように、「いい絵を撮る」ことにこのカメラは欠かせなかった。動画も撮るが、主にテレビ向けで、本当は操は写真の方が好きだった。今ここにしかない現場を、自分の目を、フィルターを通して切り取る。もとよりすべてを撮りきることはできない。だからこそ、一枚一枚に命懸けでシャッターを切る。あの張り詰めた高揚感。

 いつか、またあの場所に立てるのだろうか?

 信頼する洋一にも話していないことがある。

 自分はあの、襲ってきた男を殺してしまったのかもしれないという疑念だ。

 もともと、彼とは顔見知りであったのだ。あの戦場の村に、長く滞在していたのだから、それは当然だった。

 記憶がはっきりしないのは、もしかしたら、自分はあの男を?

 自分も村になじんできて、そこは前線からは離れており、現地の人々は比較的穏やかで、各国のジャーナリストたちも多く集まっていたのだ。

 カメラは新品の味もそっけもないつややかさとは違う。使い込んで小さな傷がある。使い込んだことの充実感がこもっていて、愛おしい。

 このカメラも今回の取材で持ち出すまで、ずっとしまい込んでいたのだった。

 今回の取材で撮ったのは現場写真やイメージ写真だけだが、それでも手になじむ感覚はよく覚えていた。体が覚えていた。

 あの事件のときも、カメラを提げていた。

 ふと、美しい星を撮りたくなったのだ。

 戦場の近くで何をのん気なことを、と言われそうだが、かえってそういうときほど、美しい絵をおさめたくなる。死と破壊と争いのはざまに、そういった写真が挟まれるのは、実はジャーナリスト本人が求めるからだ。

 油断はあった。比較的平穏な村で、ジャーナリスト仲間も多い。野営地を抜けて、広い場所に行きたかった。

 不用意に歩いて行った。

 多分つけられていたのだろう。とりわけ闇が深い小道に入ったが、地理感覚はあったので、相変わらず空を見上げていた。

 そのとき、気配がした。振り返ろうとしたところで、肩から左腕にどんというような衝撃を受けたのだった。

 思い出そうとすると、頭痛がする。もちろん、ショックはショックだった。操は洋一に言われるまでもなく、自分なりにこの体験を乗り越えなければならないとは考えた。しかし、何か、身体感覚として恐怖がある。それが、不意打ちで襲われ刃物で傷つけられたということからだけ来るのだろうか。思い出そうとすると頭痛がする。けれど、そこに、それだけでないどす黒い何かが渦を巻いているような気がするのである。

 刃物は心臓を狙っていたけれど、気配に振り向いたために逸れた。即死するかどうかの間際だったのだ。そしてそれ自体は一瞬のうちに過ぎていた。

 夢中で抵抗した。揉み合って、文字通り死にもの狂いの力で押し返し、ほんの短い時間だったはずだ。体を押しのけ、腕をつかみ、そのあと。

 そのあと。

 記憶がはっきりしない。でも、確かに何かの手ごたえがあった。

 その手ごたえが、冷や汗をかくような嫌な感覚として、傷などとっくに癒えた今も残っているのだ。

 こんなことを考えているのは、美知の告白の影響だろうか。

 美知の経験と自分の経験の間には、本来何の関連もないのに、なぜかまた意識にのぼってきた。いやな予感がした。

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ある殺人事件 仁矢田美弥 @niyadamiya

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