第6話
「留美ちゃんは要領のよくない子だったわよ。
最初はどうしていいかもよく分からないみたいで、ほら、ああいうところは手取り足取り教えてくれるなんてないから、初めての人は戸惑うの。自分の持ち場がどこかって事さえ、初日から自分で探さなきゃならないし。
だから、大体新人は残っている一番きつい持ち場に回されるので、初日で辞めちゃう人が多いのよ。
私も彼女を最初見たときは、数日もたないと思ったけどね。
でも、あの子、叱られながら、コンベアの仕事一日やって、次の日も同じ持ち場について、楽しようとも思わないみたいだから、それで私もそれとなく見るようになったの。
子どもがいるから、必死だったのよね。そう、健斗くん。健斗くんだけでも、何とか助かってよかったわ。そうでないと、留美ちゃんも最後まで浮かばれないことになっちゃう」
操が考えながらそのあたりまで書いたところで、気配がした。顔を上げると、美知が立っていた。操が注文していないコーヒーを、机の上に置いた。美知のねぎらい、サービスのようだ。
「どんな取材だったんですか」
美知は興味津々といったふうに、のぞき込む。こののぞきこむという仕草は、軽い媚態のようにもとれるが、本人にそういうつもりは全くないようだ。
「だめだめ。取材内容は明かさないよ。守秘義務」
「シュヒ義務?」
「そう」
「でもなんの取材をしているの」
操は少し迷った。話してもよいが、自分がここに来た経緯を話すのは少し面倒な気もしたのだ。今は仕事に集中したい。
「後で教えるから」
「そう?」
残念そうな美知を無視して、続きに取り掛かった。
「大体ね、あの仕事に慣れるには、1カ月くらいはかかるの。
仕事内容は単純作業だけどね。
ベルトコンベアで流れてくるものに、少しづつ付け足していく。
でも、誰でもできる作業でも、慣れるまではラインのスピードについていけなくて、すごく張り詰めるの。それに立ちっぱなしだし。体力ない人はけっこうきついのよ。
でも、留美ちゃんは要領は悪くてもすごく真面目で、失敗してラインを止めちゃったときなんか、身を折るようにして謝ってた。周りは基本、無視なんだけどね。
特別周りの人が冷たいとかじゃなくて、もう慣れちゃってるし、すぐにコンベアが動き出すの分かってるから、それを待ってるわけ。分かる?
「息子さんの健斗くんのことは、ときどき話していたわよ。小学2年生だったわよね、確か。
今日はあの子の好きなから揚げにしてあげよう、とか。あたしがしみじみしたのは、『子どものためなら強くなれる、勇気が出てくる』って、何度も言っていたこと。本当にいいお母さんだったと思う。
もともと旦那から逃げ出したのも、自分へのDVもあるけど、子どもへの暴力が耐えられなかったからだって、あとから私も思い当たったけどね。
『旦那、工藤和義の暴力については』
あんまり言わなかったね。そういうところに触れそうになると、言葉を濁してた。だけど、何となくはあたしも感じていたのよ」
操はPCを閉じた。今日はこの辺にして、明日の取材のことを考えようと思ったのだ。
喫茶店Michiもそろそろ閉店時間のはずだった。
操が顔を上げると、美知が見ていた。ほほ笑んで言った。
「お疲れさま」
そして、「ねえ、これから飲みにいかない?」と。
「いや」
即座に操は、美知の気まぐれを断ろうとしたが、彼女は片手で制する仕草をした。
「『あの事件』、私も知ってるよ」
操は驚いて美知を見上げた。
「ふふ、見ちゃった」
美知は操のPCを指さす。知らぬ間にこっそりと盗み見て、なんの取材をしているのかを察知したらしい。
「ね、マスター」
相変わらず奥に引っ込んだままの父親に声をかけて、また操を見る。
「父は後片付けと明日の仕込みがあるから行けないけど。でも私の方があの事件には詳しいのよ。殺された奥さんも、殺した旦那さんも、この店に来たことがあるの。ねえ、話聞きたくない?」
操には断る理由がなくなっていた。
唯一、美知の父親であるマスターのことが気になったが、先ほどのようすだと、すでに親子の間では了承済みのことのようだった。
「わかったよ。じゃあ、話を聞かせて」
操は席をたった。
店の外で待っていると、美知は小さいトートバッグを片手にすぐ駆け出してきた。
「さて、どこがいいかな。このへん、田舎だけど海が近いから、海鮮居酒屋が多いの」
美知はうれしそうだ。どこに行こうかと言いながらも、その実もう行先は決めているようで、迷いなくずんずんと歩いていく。
駅前のロータリーを横切って、細い路地に入ると、辺りは途端に暗くなり、街灯の白っぽい光が路面を濡らしている。路地を右に折れると、すぐに明るい灯がこぼれるのれんがあった。
「ここ」
美知はのれんをくぐると、大きな声をかけた。
「おじさん、こんばんは」
「みっちゃん、今日はお連れさんも? 奥の座敷が空いてるよ」
「やった。ありがとう」
美知はこの店の常連のようだ。
「お刺身三点盛りと、……生?」
操はうなづく。
「生二つと、ポン酒、冷でね」
「あいよ」
三畳ほどの座敷に二人は上がり込んだ。
「ここのお刺身は絶品なのよ。おじさんが毎朝海の市場で買いつけてくるんだ」
「そうか、海が近いのか。駅の周りに張り付いてるだけでは、あまりそんな気がしなくて、忘れそうだね」
「そうね。でも風向きによっては、潮の香りがしてはっとすることがあるよ」
すぐに、きんきんに冷えたジョッキで生ビールが来た。
「乾杯」
美知の方からジョッキのふちをこつんとあてた。
「ねえ、名前なんていうの」
「関口操」
「いくつ」
「29。君は?」
「26よ」
取材の絡まないこういう相手を探るような会話は操にとって久しぶりだった。
「名前は水沢美知さんだね」
「あれ、フルネーム知ってるの」
「郵便受けの名前を見たから」
「そうか」
「お母さんは?」
「ああ、母は店には出ないの。勤めに出てるのよ。銀行員。父とは職場結婚だったんだけど、父が脱サラして店を出したの」
「君は勤めに出ないの」
「うん」
「どうして」
「やあだ。追及されてるみたい」
質問にはこたえず、美知はからから笑って、ジョッキを口に当てた。
「だって、ぼくは話を聞くために来てるんだから」
操は笑わずに答えた。
「うん、そうだったわね」
美知は向き直る。
「じゃあ、こたえるわ。勤めに出たこともあるわよ」
「君はずっと喫茶店の手伝いをしていたんじゃないんだ」
「私だって人並みに新卒で就職して社会人やってた時期もありました」
「ごめんごめん」
「いいえー、でも私だって苦労はしてるの。入った会社がもろブラック企業で。最初はめちゃくちゃ忙しくて、いつも終電。でも終電で帰れるのは恵まれてる方で、同期の男の子なんかは、会社に寝泊まり状態だった。
半年後くらいから、パートさんと同じ部屋で、パートさんの指図で、単調な作業をやらされるようになったの。
それでも、私あんまり気にしないから、ふつうに頑張ってたんだけどね。パートさんも、あとから思うといろいろ言われてたみたいだけど、基本的には私に親切だったし。落ちこぼれると優しいんだよね。
それが8カ月くらい続いたんだけど、最後は、とても通勤できないようなところに異動になって、私ったらばかみたいに上司に『通えません』てかけあったり、本気で引っ越しの準備を考えたりしてたんだけど、父がね、『辞めろ』と言われてるんだって。自己都合退職してほしいんだって。でも一矢も報いずに辞めるのはダメ、交渉しろって言われて、しぶしぶ、交渉したら、退職金は出たの。私一人では泣き寝入りだったね」
「へえ、面白い話だね」
「面白い?」
「ああ、ごめん。興味深いって意味だよ」
操は慌てて趣旨を伝える。
「ああ、気にしなくていいのよ。私、やわじゃないから。ねえ、お刺身食べてみて」
「ねえ、素朴な質問だけど、怖くないの。だって、わざわざ戦地に行くなんて。せっかく日本に生まれたのに」
「うまく言えないな。怖いよりも……興味の方が大きかったような気がする」
「現場を見たいのね」
「そんな感じかな。あと、カメラが好きだったというのもある」
「カメラが好きなだけなら、風景写真とか、動物の写真とか、そういうのでもいいわけじゃない。そうじゃなくて、報道をしたかったんでしょ」
「そうだね」
「いいなあ。私もやってみようかな」
操は少し面食らった。
そういう仕事がうらやましいという人には何人も出会った。それは、ほとんど実際にはそのつもりはなく、夢想に近い意味で言っている。しかし、「やってみよう」とまで言う人は、しかも若い女性ではとても珍しかった。
『ちょっと面白い子だな』
操のなかにも興味がわいてきた。
刺身はとっくに運ばれていた。操は箸を伸ばした。
「うまい!」
「でしょ?」
「やっぱり、海の近くは新鮮なんだね。そうか」
「関口さんは、どこに住んでるの」
「都内だよ」
「都内のどこ」
「板橋区」
「じゃあ、海からはちょっと遠いわね」
「都内は詳しい?」
「学生のときから下宿してたから」
それから美知は話頭を転じた。
「関口さんは、そんな経験ないの? ジャーナリストって、何やってるの」
「フリーだから。日雇い仕事もしているよ」
「最初から?」
「いや、初めは通信社に。でもほとんど海外の取材だったから、国内は素人に等しいんだ」
「海外? どこの国」
操は正直に訪れた国、紛争地を教えた。
「戦場ジャーナリストってやつね」
美知の目にこれまで以上の興味が浮かんできた。
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