第5話
「バブルが弾けたって言ってもな、90年代はまだよかった。稼ごうと思えば、おれみたいな高卒でも、けっこう稼げたのさ。
あんたはいくつ? 29か。おれは今年で50だが」
上山は操の横に胡座をかき、語り始める。
「とにかく、あんたはおれのこと、何も仕事もしてない、暇を持て余してる、怠け者だと思ってるだろうが、おれだってあの頃は、睡眠時間3時間あればいい方で、それでも充実してるって、自分では思ってたね」
「なんのお仕事ですか」
「ああ、すまん。SE、システムエンジニアだったんだ。けっこう優秀でね。学生のころからプログラミングなんかが好きだった」
上山の表情が少し緩んだ。きっと、当時のよかったことを思い出しているのだ、と操は思う。
上山は今年50だと言っていた。上山の年齢を操はあらかじめ知ってはいたが、言われて改めて意識してみると、彼には年齢不詳な雰囲気がある。疲れてはいるが荒んではいない。頭は薄くなっているが、肌はまだ若い。
「母親の介護がきっかけだったな」
上山は自分もコップの水を飲んだ。
「今から言えば甘かったんだね。親父はもう亡くなっていたが、一人暮らしの母親が病気してさ。おれは貯金はあったし、しばらく休職して、介護に専念しようと決めたんだ」
「ご結婚は?」
「もうその前に別れていたね。子どもも二人いるが、どちらも妻が引き取った」
そして少し顔を歪め苦々しい表情を見せる。
「養育費もあのころ、いやもっと後か、……から払えなくなったんだ。おれだって払いたかったさ。でも、自分がこのざまじゃね」
「介護はどのくらいの間?」
「それは二年かからなかったね。でもな、IT業界ってのは、文字通り生き馬の目を抜くような世界でね。復帰したときには、もうすっかり勝手が変わって、ちんぷんかんぷんの世界だった。しかも、睡眠時間を削るのもおれは年齢的にきつくなっていたし、要するに、若い者にはてんで追いつけなくなったのさ。気づいたら、おれはもうすっかりガラクタになり果ててた」
上山の話は完全に逸れていた。
しかし、操はときどき相槌を入れて、話をきき続けた。
話を引き出すのに一番大切なことは、当たり前だが、相手との信頼関係である。それは国の内外を問わず変わらない。
しかし、と操は思う。上山は、実はあまり話せることがないのかもしれない。
あの事件は、白昼、住宅街の路上で起きたものだ。
上山が見たのは、被害者である工藤留美子(32)が角を曲がろうとしたとき、追ってきた夫の工藤和義(44)に刺殺されたその瞬間だけである。実際に上山が、どの程度正確に、その瞬間を目に焼き付けたかは定かではない。しかも、その後何度も警察やマスコミに証言を繰り返し、自分でも反芻しているうちに、記憶に相当の加工が施され、かつ自分でもそれを事実だと思い込んでいるということは十分ありうることだった。
上山の身の上話らしきものが一通り終わったあたりで、操は今日の取材を切り上げることにした。上山はそれを聞くと、少し物足りなそうにしていた。上山の話に飽きたわけではない。むしろ興味を抱かせられていた。だが、操は彼の病のことを気にしたのだ。あまり無理はさせない方がいい。
操が礼を言って出ていこうとするとき、上山が声をかけた。
「あんまり役に立てなくて悪かったな。また思い出したことがあったら連絡する。あんたは聞き上手だから」
聞く能力があると思われたらしい。操は、当初自分のうちにあった、ふつうの日本人に取材することへの不安が軽くなったのを感じていた。
(参考文献:『週刊東洋経済』2018.4.14)
何とか最初の取材相手とつなぐことができた安ど感と、そしてこの安ど感から来るのかもしれない軽い疲労感を操は感じていた。
戦場では、我が子の遺体を見たばかりの父親や母親に平気で話しかけていたというのに。
戦場ではこちらの感覚も、ある種麻痺させられる。とにかく状況を突破しようと、自分の仕事に突き進んでいくのだ。けれど、今回の取材は、それとはまるで空気感が異なっている。
国内の殺人事件の案件ということの他に、事件は過去のことだということがある。また、取材相手となるであろう多くも、当事者ではない。また、こちらの意図の通りに話すことも多くはないのだということも、今の上山の例でよくわかった。
だが、そういう新たな体験が操をかき立ててもいたのだ。
今日はもう一人アポを取ってある。操は待ち合わせの場所に向かった。
「いらっしゃいませ。おひとりさまですか」
店員の声がしたので入り口付近を見ると、きょろきょろとしたしぐさをしている人物がいた。
かなり大柄で、髪は短く刈っており、青いチェックのシャツと黒いジーンズのパンツが体にぴったりと張り付き、一見したところ男性にも見えかねないような風体の女だった。
操は席をたち、近づいて声をかけた。
「戸川和子さん、昨日はどうも。今日は足を運んでいただいて、ありがとうございます」
「ああ、いえいえ」
笑うと人懐こく、女性の表情になった。
駅からは少し離れた、幹線道路沿いのファミリーレストラン。広い駐車場のなかに島のようにレストランの建物があるような、郊外型の店舗である。戸川和子は、昨日のうちに操がアポを取り付けていた人である。殺された工藤留美子のパート仲間で、職場では、生前もっとも親しくしていたということだった。
「今日はお時間は大丈夫ですか」
「ええ、家の者には遅くなるといっておきました」
「お仕事、お疲れ様です」
和子はパートの早番のあとに、そのままここに来たようだった。
「ああ、暑い、暑い」
和子はタオルハンカチを出して額から首筋まで汗を拭いた。
「あのお仕事は大変ですね。暑いでしょう」
「まったくね。食べ物を扱ってるんだから、もう少し冷房効かせてくれてもよさそうなものなのに。食品工場の内情なんて、ひどいものですよ。昔、賞味期限の偽装とかあったでしょ。あんなの、うちだって普通でしたもん」
「あそこのお仕事は長いんですか」
「何十年もやってますからね」
和子が今も勤め、かつては留美子も勤めていたことがあるのは、パンの製造工場だった。留美子はほんの半年足らず、それでも本人には相当きつかったに違いない。
昨日、操は生前の留美子を知る人物を探して、このパン工場の門で待ち構え、手当たり次第に仕事を終えて出てくる人たちに声をかけた。その中で話に応じ、今日の取材も引き受けてくれたのが、和子だったのだ。
お冷がくると和子は注文より先にごくごくと飲み干した。
「食事はとりますか」
「いや、いらないですよ。帰ったら、晩御飯つくるんで」
和子は主婦なのだろうか。まだ彼女のことは、留美子と比較的親しかったということの他には、何もしらない。操は探るような目つきになっている自分を感じていた。
「生前の工藤留美子さんについて、知っていることを話してください」
「留美ちゃんね」
和子はため息をつく。
「なんだって話しますよ。あの人の名誉に関わること以外だったら。だって、あれじゃあんまりかわいそうだもの。あたしはね、人は死んだらおしまいだって、それだけはすごく強く思ってるんですよ」
「一番工藤留美子さんと親しかったと聞いてます」
「そうねぇ。あの工場で、いかにも慣れないというか、なじめないというか、そういう感じだったから。あたしはおせっかいな性分だし、あそこは長いので、自然とそういうのが気になっちゃうんですよ」
「仕事には慣れていない雰囲気だったんですね」
「やっぱりね、なんというか、少し品がいいというか、官僚の奥さんていうのは知らなかったけど、でも一般が思うような気取ったところはなかったですよ。単におとなしかっただけというか。あの事件の後初めて、芯の強いところのある人だったんだな、と。それなのに、あんなことになって」
和子の表情には、留美子への同情があふれている。
以下は、あとで操が起こした、和子へのインタビューの内容である。
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