第4話

 店をでると、操は小学校のある方には向かわなかった。

 駅前から通りを少し入る。すぐに住宅街が現れる。そして、「殺人現場」はそのごくありふれた住宅街のなかだった。

 大概の事件は、およそ日常の中で起こるものだろう。その日常がどんなものであったのかを探るのが、もしかしたらジャーナリストの仕事かもしれない。

  事件は9カ月前、この街角で起きた。決して新興住宅地ではなく、大小・新旧の一戸建てが雑多に立ち並ぶ場所。路地、電信柱、小さな児童公園。

 道には申し訳のようにカーブミラーがあるが、車の通りは極めて少ない。およそ自家用車専用、あとは宅配の車が入り込むくらいか。

 角を曲がると、3階建ての市営住宅の黒ずんだ建物があった。外階段を上って、2階の廊下に出、204号室前で立ち止まった。ドアポストにマジックペンで「上山」と書かれている。操はブザーを押した。

 すぐに返事はない。この家の雰囲気から、何となく予想はついた。アポを取っているからといって、わざわざ茶の用意をして待っているような住人ではないだろう。

 しばらく待った。近くの樹木から、突如「ジー」というセミの声が響き始めた。少しだけ、操は不安になる。

 ブザーが壊れているのかもしれない。もう一度押してみようと手を伸ばしかけた時、ドアの向こうに人の気配がした。

 「ごめんください。11時にお約束していた、関口操というものです」

 ドア越しに声をかけるが、返事はない。が、ガチャリと鍵を開ける音はした。

 ドアが細めに開いて、中年の小太りの男が顔をのぞかせた。ひげ面で、頭は禿げ上がっている。

 「こんにちは。今日はよろしくお願いします。上がってもいいですか」

 男はドアを全開させ、操を中へいざなった。ぶっきらぼうだが、敵意はない。いや、生気自体がないといった方が正確か。

 操は遠慮なく中に踏み入れた。ありがちなことだが、カーテンは半開きで薄暗く、室内は散らかってはいないが、がらんとしている。

 ここは生活保護受給者のための借り上げ住宅だった。

 上山和夫は、薄っぺらい座布団を操に勧め、自分でもその上に座ると、先に口を切った。

 「皮肉なもんですね。私みたいな者が、成功した金持ちの末路を見るとはね」

 その言葉には、皮肉めいた調子は全くない。

 「人生、どこで落ちるか分かりゃしない」

 操は断りを入れてから、レコーダーのスイッチを入れ、手帳を広げた。

  「そうあらたまれると、なんといっていいか」

 「あなたの見たこと、感じたこと、考えたこと、なんでもいいです。好きに話してください。ただ、勝手に話せと言われても、やりづらいですね。質問をします。単刀直入に、そのとき目撃したものを、些細なものでもいいので教えていただけませんか」

 「正直、刃物があんなにあっさりと、人の身体に食い込むとは、思ってもいなかったね。

 あんた、関口さんが、想像するほどの衝撃は、正直なかったよ。

 絵としては、あっさりとした、冗談みたいなもので。

 いや、もう少し順番にいかないと、分からんかな」

 上山は座りなおした。

 「おれがいたのは……ちょっとペンを貸してほしいが」

 上山は操のボールペンをとって、操の手帳の上に書き込んだ。自分を「おれ」と言うように変わったことに、操は気づいた。描いたのは、住宅地図のようだった。

 「あんた、現場は行ったのか。そうか。なら、分かるよな。ここに児童公園があって、そのはす向かいの、角の……」

 操は頭の中で昨日見た光景を再構成していく。

 「おれがいたのは、この路上。ここに帰る途中で」

 ボールペンをぐりぐりと押し付けて、黒丸を描いた。

 「角から、何かがつんのめるようにして、飛び出してきて、後ろから別の影が。もつれるような感じではなかったな。声も出さなかった。ただ黙ったまま」

 「黙ったまま」

 「後ろから刺した」

 上山は必死に思い出そうとしているようだった。

 少し沈黙があった。

 操は低い声で続きを催促した。

 「それであなたは?」

 上山は表情を変えずに言った。

 「おれはカメラを探した」

 「カメラ?」

 「テレビカメラだ。ドラマかなんかの撮影だと思ったんだ。でも、本当は、そうであって欲しいという方が強かったかな。

 おれのはじめに頭に浮かんだのは、『面倒になった』ということだ。おれは頭の病気でね。この日も億劫なのをむりやり外出して、家に帰るところだった。それが、こんな厄介なことに出くわそうとは」

 そのときのことを思い出したのか、上山は顔をしかめて見せた。

 「刺された人は、工藤留美子さん、32歳ですね」

 「そうらしい」

 上山はそっけない。

 「正直、見も知りもしない人間だから、あとから報道で知った。ああ、目撃者だから、警察にも、マスコミにも話したが、あいつらは、人の話を聞く能力がない」

 「どういうことですか」

 「自分の聞きたいことばかり一方的に尋ねてくる」

 そんなものだろう、と操は思う。

 「ああ、話がそれたな」

 上山は気がついて、

 「すみませんね。理路整然と話すというのが、自分はできなくなったんで」

 「できなくなった」という言い方に含みを残した。

 「女の人は、白っぽかったな」

 「白っぽいとは?」

 「いや、白っぽい服装だったというだけだ。刃物が……ナイフがめり込んで、前のめりになって」

 「声は聞きましたか」

 「いや」

 「倒れて、すぐ動かなくなったな」

 「刺した人間は」

 「黒っぽい」

 「服装が」

 「そう。服装が」

 「女の人と一緒に倒れて、しばらく四つん這いになってた」

 「あなたは」

 「様子を見ていた。まだ、撮影の人間が出てくるのを待ってた」

 「でも、出てこなかった」

 「それで仕方なく、通報を」

 話が途切れた。操は気づかれないように息を吐いた。話はなかなかはかばかしく続かない。これは、やはり戦場の取材とは訳が違う。

 戦場の取材に比べて、語弊を恐れずに言えば、対象との距離が近すぎる気がして、独特のやりにくさがあった。上山は故意にか、とらえどころない斜な雰囲気があり、操は切り口を見いだせない。

 「水でものむか」

 上山もきまり悪いらしく、思い出したようにいうと、のっそりと台所に立った。

 ポットからコップに水を注ぐ音がし、また入ってくる気配があった。

 「あんた、喧嘩か」

 背中から声をかけられた。

 手帳を見ながら次の切り口を考え込んでいた操ははっと身をすくめた。

 「見かけによらず、派手な傷跡作ってるじゃないか」

 すぐ後ろに上山がかがみこんだ。

 左腕には傷跡がまだはっきり見えるのだ。

 「まあ、そんなところ」

 「ふう、ん」

 上山の操を見る目が変わったような気がした。

 「ただの水だが冷えている」

 「ありがとうございます」

 操はコップを受け取る。

 「関口さんは、フリーだと言っていたよな」

 「ええ」

 「それで食っていけるのか」

 「いや、建設現場で働いてますよ」

 「そうか」

 さっきまでの濁ったような目つきとは明らかに変わっていた。

 「おれも病気さえなければな」

 「病気」

 「頭の病気だ」

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