第2話

 それから3日ほどたったころである。それは仕事中のちょっとした事件だった。

 現場の外国人労働者が4、5人集まって言い争いをしている。

 操はやり過ごそうとしたが、いきなり肩をつかまれた。ぎょっとして振り返る。手に熱い感触がよみがえって、また意識下に消えた。

 「ミサオ、聞いてほしいです」

 それは日本語学校に通っている南米からの労働者だった。

 「なに……?」 

 操は戸惑いながら答える。

 「このひと、ぼくのおカネ、盗った」

 それは直截な言い方だった。彼は一人の若いアフリカ系の労働者を指さしている。

 「おカネ? なぜ?」

 あいまいに操はこたえる。こういう争いにはなるべくかかわりあいたくはなかったのだ。

 指さされた若い男は、操にはわからない言葉で反論した。言葉はわからないが、言いたいことの雰囲気はつかめる。本気で怒っていることが分かった。

 「このひと、ギャンブル、手を出してます」

 最初の男が畳みかけるような口調で言った。

 「証拠はあるの。いや、……どうしてそう思うのか?」

 操は早くけりをつけたい思いが先走りながら、言った。

 そのとき、若いアフリカ系の労働者が、ポケットから何か光る細いものを取り出した。

 それはただのシルバーのボールペンだった。

 なのに、操は凍り付いたようにそれを凝視していた。

 それはただそれだけの事件だった。

 疑いをかけられた労働者は、身の潔白を証明するために、ポケットのものをすべて出し、さらにポケットを裏返して見せた。

 その後、この4,5人の労働者は操を巻き込んで荷物置き場に移動しようとしたが、操一人が青い顔をしてそこに居残った。

 結局、あとで聞いた話では、お金は最初に騒ぎ立てた労働者のリュックの底から出てきて、彼は大いに面目を失ったという顛末だった。

 だが、この事件は、操の忘れていた感情を、いや恐怖を、再びよみがえらせてしまった。照り付ける太陽とも相まって、その日は吐き気に苛まれることになったのである。


 テレビではいとも簡単に人が死ぬなぁ。

 それに気づいて、操はあまりテレビを見なくなった。

 簡単に、刺したり刺されたり、痛みもにおいも感触も死に物狂いの力もなく。

 それはドラマなどのフィクションだけではない。

 戦場の映像も、カメラの向こうの現実であるにもかかわらず、同じように消費されている。

 かつてはそれを世に訴えたいと思って、一度は目指した道があった。

 けれど、直接は自分がその中の一人になるにおよんで、そしてそのとたん、急に生の感情に支配されて、意欲は失われた。

 取材と称してカメラを携え戦場に行って、そして当事者になった途端、急に目覚めておじけづく。自分は滑稽な存在である。

 ああそうだ。

 自分はもともとかなり臆病な子供だった。その証拠に、子供のころ、夜布団に入ると、不気味な規則正しい音に怯えてなかなか寝付けなかったのだ。今思えば、それは自分の心臓の音。

 その滑稽さと、今の自分は通じているような気がした。

 こんな人間が取材先で信頼されるわけもない。

 だから、さっきまで作り笑いを浮かべていた人間が、背後から切りかかってくるようなことにもなる。

 実はそのときのことを操は詳しく覚えてもいない。

 ただ強烈な印象が、そのほとんどを生死の先鋭な観念が占めるような印象が、脳裏に焼き付けられているだけだ。

 自分を襲った男がどうなったのかさえ分からないし、知りたくもなかった。

 本物のジャーナリストなら、そういう体験さえ記事にして世に出すのかもしれない。けれど、自分には無理だった。

 意識を操作して、ふだんの生活では巧妙に回避して生きていく道を選んだ。あたかも人は死ぬという現実を、多くの人が意識から遠ざけているように。

 それくらい、恐ろしかったのである。

 いまや操は見栄も衒いも捨てていた。

 ベッドの上でうとうとしていたらしい。

 スマホの振動で我に返った。

 見ると、洋一からだった。

 「はい、もしもし」

 『おい、いったいいつまで待たせるんだ?』

 「え、なんの話ですか」

 『この間の件、やるつもりなんだろう? 返事がないんで、電話したんだ』

 「ちょっと待ってくださいよ。期限はいつでもいいって言ってましたよね」

 『ばか、それはあの資料を受け取らせるための方便だ。あれをそろえるのだって、けっこう時間かかったんだ。いい加減決めろ』

 「はあ」

 『資料は読んだか』

 「まだです」

 『ばか!』

 電話を切られてしまった。

 操は一人で肩をすくめると、無意識にベッドを降りて、机の横に放りっぱなしになっていた、厚い茶封筒を取り上げた。

 きちんと目を通してはいなかった。が、いくら何でも読みもしないで放置するのは、確かに失礼だ。

 操は一気に束を引き出し、胡坐をかいて、ぱらぱらとめくり始めた。

 新聞、雑誌、ネット記事のコピーが入り混じっている。

 几帳面に、報道日順に並べられていた。

 洋一は、ざっくりしているようでいて、仕事には厳しい人間だ。その洋一が集めたものなら、安心して読める。

 そう思いながら、操は、つくづく自分は横着で、ジャーナリスト向きではないと自嘲していた。

 しかし、内容はごくありふれた事件のようでいて、なにか興をそそられるものがあった。

 いつしか、操は手帳を取り出してメモを取り始めていた。

 

数日後。

 私鉄のホームに操はいた。

 ごく普通のカーキ色のポロシャツにベージュのチノパン、リュックは不釣り合いなほどに大きい。

 スマホに目を落として、デジタル版のニュースに目を通す。

 やがて、電車が滑り込み、操は乗り込んだ。人はまばら。朝の下りなら当然である。リュックをわきに置いて、操はさっき売店で買った弁当を食べ始めた。

 これから向かうのは、神奈川の、静岡に近い方の街である。

 いうまでもなく、そこが事件の現場となった場所だ。

 できるだけ安いビジネスホテルをすでに予約してある。

 操は国内取材は、あまりしていない。洋一が言っていたように、したとしても公害訴訟などで、実は国内の現場の取材はほとんどなかった。

 今回、洋一には、『経験を捨てて一からやれ』と言われている。

 実はこの言葉に背中を押されたといっても過言ではない。自分をセーブするものを取り払ってみると、それはかなり魅力的に思えた。

 しかも、今回はいわばこれといった期限のない取材で、いかようにも組み立てることができる。操は今は、洋一に感謝しているのだった。

  窓の外ははだんだんと密集した住宅地から畑や立ち木の見える景色に代わってきた。

 薄曇りだったのが、一瞬、急に雲が切れて陽が差した。

 操は目を上げた。

 思いのほか、気持ちが弾んできている。殺人事件の取材にいくというのに。

 しかも、被害者は女性と子どもだ。

 凶器は、ナイフ。

 洋一はわざとこの事件を操のためにピックアップしたのだと思う。いや、そこまでいわなくとも、この事件に含んだ意味を持たせて操に渡したのはたしかだ。


 大手マスコミの記者などは、現場に足を運ぶ場合であっても、移動過程で、大方の物語、つまり記事をもう作ってしまって、後は穴埋め式に気の利いた新情報を組み込むだけだという。

 そんな取材には興味はなかった。だから、大手など見向きもせず、洋一のいるあの通信社を選んだのだ。

 矜持のようなものはまだ自分の中に生きている。しかも、経験さえ捨ててまっさらに。

 操はいつの間にか、わくわくしている自分を発見していた。

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