ある殺人事件
仁矢田美弥
第1話
操は日雇いの仕事で生計を立てている。
工事現場の警備員。独り身なら十分生きていける。操はたくましいほうではないが、健康体。
ただ、左腕がやや効かない。だから、警備員のこの仕事は合っているのかもしれない。
砂利を積んだトラックが入ってきた。操は手慣れたふうに誘導する。
運転手ががっちりとした腕を突き出し、あいさつした。
現場には外国人労働者が多い。まるで当然のように皆彫りの深い有色人種だ。一目でそれと見分けられる。
操はなぜか、日本人よりも彼らと話すことの方が多い。かつての習慣からか。
とはいえ相手の話す片言の日本語に付き合う程度で、深入りはしない。
実は彼らのなかには、日本語学校に通いそうとう達者に異国の言葉を話せるものもいたが、それでも必要以上に彼らと話し込むことはしないようにしていた。
今日も暑い一日だった。梅雨が明けたばかりだ。待っていたかのようなぎらぎらの日差し。どこか既視感をともなう。
仕事からあがるときスマホを確かめると、着信があった。
『今日暇か? 花龍亭で会おう。返信求む』
かつての上司、伊角洋一からだった。操は少し考えてから、返信した。
『了解』
洋一と会うときはいつも同じ中華料理屋だった。
その店は洋一の事務所の近くにあり、したがって操のかつての勤め先の近くでもある。住宅街のなかにあり、さほど混みあっていないのがよかった。
洋一はかつての上司であるが、同時に戦友のようなものでもあった。
なぜなら、その会社は主に海外の紛争現場を対象として取材をする小規模な通信社であったから。操にとっては洋一は大学の先輩であり、彼を頼って就職したといっても過言ではなかった。
操は学生時代に、戦場ジャーナリストになろうと決意した。
もともとカメラは好きだったが、さらに加えて世界各地の紛争や戦争にいやでも目がいくようになっていた。もしそれらの取材を通して世に訴えることができれば、非常にやりがいのある仕事だと魅力を感じたのだ。
就活の時期になると、操は大手ではなく小回りの利きそうな小規模の通信社をネットで調べ、片っ端から応募した。そのなかに同じ大学の先輩である洋一が勤める会社もあり、若くして中堅社員だった洋一の強い働きかけですんなりとあこがれの職業に就くことができた。
「おう」
洋一が、のれんをくぐった操を認めると片手をあげて呼んだ。操は軽い笑顔でテーブルをはさんだ洋一の向かいの席にどっかと腰かけた。
「元気か」
洋一が明るく話しかける。すでにジョッキのビールを飲み干していて、食べかけの餃子が皿の上にのっていた。
「元気だよ」
静かに操は答えた。
洋一はいかにも戦場カメラマンといった風体の大男で、日に焼けて浅黒い。操はどちらかというと小柄で、細面で色も白い。二人向かい合っていると、対照的に見える。
操はチャーハンと生ビールを注文した。
「それでさっそくだけどね」
いつもながら洋一はせっかちだ。
「頼まれてほしい仕事があるんだ。安心しろよ、向こうの仕事じゃないから」
洋一が「向こう」というとき、それは海外の取材のことだ。
「いや、いいよ」
即座に操は答えた。洋一は拍子抜けというように、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「なんだよ、聞く前から」
「なんにせよ、ぼくはやらない。もうカメラは持たないんだ」
「情けない」
洋一は粘りを見せる。
「男がいつまでも悲劇ぶってるんじゃないよ」
洋一は、操が仕事を辞めたあともこうしてしばしば誘いをかけてくれていた。それはありがたいことには違いなかった。が、応じるつもりはない。
「もう二度とあんな恐怖はごめんなんだよ。ぼくは弱虫だ。自分でも初めて分かったんだ」
「そりゃトラウマにはなるわな。いくら『地雷を踏んだらサヨウナラ』のつもりでいても」
そのフレーズは洋一のお気に入りだ。夭折したカメラマン一ノ瀬泰三の言葉。もはや洋一の中では自分のフレーズにもなっているふうだ。
「人にさ、殺意を向けられるのは想像以上にきついものなんだよ」
洋一は少し黙る。操も口を閉じた。
チャーハンが運ばれてきた。ここのチャーハンは作り置きを型で抜いただけのようなもので、すぐに出てくるのだ。ビールのジョッキも続いてきた。二人は改めて乾杯した。
「な、話だけ聞かないか。せっかく持ってきたんだから」
洋一は今日は食い下がった。
操はそのことにかえって好奇心をそそられた。話だけでも聞いてみたくなった。疲れた体にしみ込んだビールのためもあったかもしれない。操は酒につよいほうではない。
「忘れられた話題を取り上げるんだよ。まあ、あんまり派手なもんじゃないし企画もありきたりだけど、でも価値はあるはずだ」
リハビリにはちょうどいい企画だと操は思った。もしかしたら、洋一は自分にやらせるために考え付いたのかもしれない。それはうぬぼれかもしれないが、洋一という人間を考えるとありそうに思えるのだった。
「公害とか環境汚染とかの方がお前向きかもしれないんだけど、ちょっと手垢がついてるんで止めた」
操が話に乗ってきた様子をみて、洋一は口が軽くなる。
「かわりに殺人事件のいい案件を見つけてきた」
「はあ、なんだかコンセプトがこれまでと違うな」
なかば呆れて操は応じた。そして、
「それも手垢もんじゃないの」
「そこはそこ、っていうか腕の見せどころ、料理次第で面白くなる。大企業をやり玉にあげるのは『答え』があらかじめ決まってて、意義は重々だけど少し面白くない。でも、殺人事件というのはどう転ぶか分からんのが面白くないか」
本人が一番うきうきしているようだ。
「間違っても『心の闇』なんてつまらん言葉で片づけるなよ。大手新聞社みたいなのはごめんだ」
洋一はわざとこういう企画をあげたにちがいない。操は今や確信していた。
洋一はリュックから茶封筒を取り出した。中からネット記事をプリントアウトしたらしいA4の用紙の束を取り出す。
「いいか? これまでの自分の経験は一度捨ててくれ。一から素人のつもりで取材してくれ。期限はいつでもいいから」
「強引だなぁ」
「そうだ。お前にいつまでもぐじぐじされてるとおれも張り合いがないんだよ。前も言ったが、後輩とはいえお前のことは『戦友』だと思ってるんだ」
操はのせられたと思いつつも、今さらうまく断ることができなくなっていた。
心が動かないといえば、嘘になる。
操があの仕事を辞めた直接のきっかけは、取材中の大怪我だった。
空爆にあったとか、地雷を踏んだとか、テロに遭遇したとかではなく、いわば強盗に襲われたのである。しかも単独犯だ。
相手はナイフ一つを武器にしていた。あとで分かったところでは、武装集団の関係者というのではなくまったくの地元の住人だった。3人の子供の父親で、妻を病気で亡くしたばかりだった。
間違っても『心の闇』なんて言葉は使うな。
先ほどの洋一の言葉が突き刺さる。
殺意、死に物狂いの殺意とは、そんな言葉で表現しきれない生々しさがあった。
洋一がこのケースを操に用意したのは、間接的にもせよ自分があの事件と向き合うことを期待しているのだと思った。それを操は感じとった。
ほんの少し、気持ちが揺らいだ。
「ほんとに期限はいつでもいいんですね」
念を押して、とうとうその資料を受けとってしまっていた。
資料を受けとったとはいえ、操はこのとき、この仕事を受けるつもりは少しもなかった。
ただ、毎回入り口にも入らずに話を断っていることの、洋一に対する後ろめたさと、今回の案件への興味とで、資料くらいは読んでみたい気になっていたのだ。
しかし洋一はにわかに満足そうになった。
「どう? やっぱり血が騒ぐだろう」
「リハビリには良さそうですね」
「それでいいから」
そのあとは、近況の報告と、通信社の内輪の話題を交わして、終わりとなった。操は、茶封筒の資料をリュックに押し込むと、地下鉄の駅で洋一と別れた。
血が騒がないわけはない。
操の人生で、もっとも充実していたのは、取材に明け暮れた4年間だった。単調な今の仕事に満足しているかといえば、それを否定する自分がやはり内部にいる。
しかし、そういった、かつての自分と連続してある自分は、いっぽうで、明らかに断絶してしまっている現在の自分と相克を起こす。二つの自分などというものはないと操は考える。現在の自分がすべてなはずだ。そういってふりきればいい。
だが、古傷がうずくように心がうずくのだった。
忘れて生きるというのは、案外に簡単なことである。自分の心は少し麻痺してしまっている。
人間は都合よくできている。
操はそれをありがたく思う。
けれど、真夜中に目が覚めることがよくある。見ていた夢は全く覚えていないのに、思い切り歯をかみしめ、食いしばっている。
「生きてるんだな、心も体も」
これといった感慨もなく、その事実を操は確かめるのだった。
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