目が覚めた。時計を見ると、六時半だった。自力で起きたのなんて、一体いつぶりだろうか。いや、起きてしまった、というのが正しいが。

 階下からは、ザクザクと野菜を切る音が微かに聞こえてくる。こんな時でも、アヤメは相変わらずということらしい。

 起き上がって壁に凭れかかり、しばし虚空を見つめる。窓から差し込んだ光が、顔の左側に当たって、思わず左目を閉じる。片目だけで見る世界は、幾分か平面的なものになる。距離が掴みづらくなる。何が近くにあって、何が遠くにあるのか、不明瞭になって、どこにいるのか、分からなくなる。瞬間、視界が闇に包まれる。だんだんと上下も左右も曖昧になって、流動体のようになった空間の中に、徐々に溶け込んでいく――。

 そんなところで、また目が覚めた。いつの間にか、夢の中に落ちていたようだ。

 昨日、永井先生に言われたことを反芻する。

 ――お前たち五人で、ミュールの舞台に出てみないか。

 それが、彼女の提案だった。もちろん、私たちだけで行うわけではなく、プロのミュールが行う演目の合間に、この間の発表会でやった喜歌劇オペレッタを披露してみないか、とのことだった。

 プロの公演に客として来るのは、もちろん普通科の生徒ではなく、五歳ほどの子供――私たちがそうであったような――たちである。新入生発表会とは訳が違う。求められているのは、「創造学芸科生」としてではなく「ミュール」としての演技だ。はっきり言って――私には自信がなかった。

 そんなことを考えているうちに、もう二十分ほども経ってしまっていた。せっかく自力で起きたのだから、アヤメをあっと驚かせてやろう。そう思いながら急いで階段を下る。最後の二段をジャンプして一階に降り立つ。想像よりも鈍い痛みが足の裏に走り、思わず「いてっ」と声が出てしまう。そんな声を聞いて、ダイニングから制服姿のアヤメが飛び出してくる。

「なんというサプライズ。感動したよ、スモモ。さあおいで、十分早い分普段よりも数倍ホカホカな灼熱ご飯がスモモを待ってる」

 やはり、アヤメの言動は普段と何ら変わりない。

「そんなに熱いならもうちょっと寝てればよかったかも」

 取ってつけたような不平を零してみる。アヤメは何も言わず笑った。


 アヤメが作る朝食は、平凡で憂鬱な朝を、湖畔の瀟洒なホテルで迎える優雅な朝のように鮮やかに塗り替えてくれる。プロポーズの常套句の一つに「毎日君の作る味噌汁を飲みたい」というものがあるが、そのような脚色抜きで本当に毎日食べたいと思えるほど、アヤメの作る料理は美味しい。尤も、アヤメとの同居状態はこの朝の時間だけでそれこそお腹いっぱいだが……。

「ねえ」

 勇気を振り絞って、話しかけてみる。するとアヤメは、突然真剣な顔になって「分かってる」とだけ言った。

「なにが」

 私は思わず詰問する。

「昨日のことでしょ。私に相談したいのは分かるけど、こういうのはみんなで話し合わなきゃダメだよ。それだけ」

 返す言葉もなかった。私は白米をかき込み、急いで身支度を整えて、学校に向かった。道中、アヤメとは一言も喋らなかった。けれども、不思議と気まずい感じもしなくて――それはきっと、アヤメの方も同じだろうと、私は断言できる。「これでいい」と、お互い何も言わずとも分かっていた。


     ○


 放課後、私たちは校門前に集まっていた。誰が言い出したわけでもない。全員が、何も言わず、それでいて確信を持って、ここに集まったのだ。

「それで……どう、しますか?」

 真っ先に口火を切ったのは、ユユカだった。何も言えず、目を落とす。

「どうする、ったってなぁ……みんなは、どう思う?」

「うーん……」

 空気を読んでか、ポヨちゃんも黙ったままだ。気まずい沈黙が訪れる――と、アヤメが徐に口を開いた。

「あのさ……」


     ○


 ――今から出かけない?

 それは、予想だにしない提案だった。「出かける」というのはつまり、今から街の方に出ようということである。七限が終わるころにはもう四時前なのに、往復でおよそ二時間ほどかかる市街地に向かうのは、普通に考えれば愚かな提案というほかない。寮生の門限に合わせようと思ったら、十数分、よくて二十数分くらいしかあちらに滞在できないからだ。私たちが普段土曜日にあそこを訪れているのも、平日には時間があまりにも足りないからに他ならない。

 しかし、それでもなお「行こう」と言うのだから、何かアヤメの方にも考えがあるのだろう。私たちは、特に反駁することなく、彼女の案に従うことにした。


 黄昏を駆ける快速列車は乗客が多く、空席を見つけるのに少しばかり苦心した。車窓に凭れかかって左手を見やると、茜色に染まる街並みが立ち現れては消えていく。ふと、この景色はいつどうやってできたのだろう、と考える。しかし、分かるはずもない。俯瞰するだけでは見えない、小さな傷や汚れ、本棚に眠る黄ばんだ古本、誰かの落書き、誰かが吐いたガム、誰かがガードレールに嵌めておいた手袋、廃商店の文字が消えかかった看板といった見向きもしたくないようなものたちこそが、語り部として街を街たらしめているからだ。街とは物語の交差点だ。断じて、誰かの作為によって作られたものではない。そうであってはいけない。街は「たまたまそこにある」だけなのだ。そうであってほしいと、私は思う。

 列車は凄まじいスピードを保ちながら、屋根のない小さな駅を通過していく。左手に荷物を抱え、右手で帽子を押さえて、所在なげに佇んでいる老婆を見て、私は安心した。

 そしてほどなくして、列車は目的地に到着した。

「しばらく、適当に歩き回ろう」

 アヤメは言った。他の三人は訝しげな表情を見せたが、特に何も言わず歩き始めた。

「ねえ、本当にどういうつもり?」

「いいから、とりあえず行こうよ」

「はぐらかさないで、ちゃんと答えて」

「すぐに分かるから、心配しないで」

 これ以上詰問しても無駄だと判断し、私もしぶしぶ歩き始めた。


 線路沿いの道を進んでいくと、やがて駅前商店街に至る。道中、駅ビルの従業員通用口が見えた。こうした通用口の類は、客が利用するエリアとは打って変わって、往々にして蛍光灯の無機質な白に照らされているものだ。しかし、私はそんな無機質さこそが街の本当の姿なのではないかと思っている。街はいつも正気のふりをしている。そんな気がする。

 午後四時半の商店街は賑わって――いるはずもなく、いつも通り閑散としていた。商店街の中ではほぼ唯一まともに経営が成り立っていると思われる精肉店に、七人ほどが列をなしているばかりである。そのうちの一人に、かなり小さい子供がいた。六歳くらいだろうか? 彼は「いつものおねがいします」と言って店員から肉を受け取り、利口なことに深くお辞儀をして、トコトコと走り去っていった。

 商店街を離れ、国道沿いを橋の方へ進む。この時間帯の国道は車の往来が激しい。立ち並ぶ飲食チェーンには、絶えず車が出入りする。ときおり足止めを食らいながらも、私たちは橋の袂までたどり着いた。

「あれは……?」

 コイが突然呟いた。河川敷の方を指している。目を凝らしてよく見てみると――。

「子供?」「コドモ! コドモ!」

「なぜこんな時間に、あんなところに……?」

 私たちが困惑していると、後ろ手を組み、顔を突き出して、アヤメが得意げな顔でこう言った。

「あれは幼稚園の年長さん。サケの放流をしてる。来年の春、一年生になったときに、遡上してきたのを見に行くんだって」

 そして、一歩前に出て、私たちの方を振り返ると、満面の笑みでこう言った。

「ところで、あの子たちは今、五歳なわけだけど……あとは、分かるよね? だってさ、あの子たちの顔を見てみてよ」

 アヤメは園児たちの方を指さす。見ると、浅瀬で膝下まで水に浸かり、その冷たい感覚に戸惑いながらも、ピチャピチャと音を立てて楽しんでいるいくつもの影が目に入る。彼らは笑っていた。大地が鳴動しているんじゃないかと錯覚するくらい、大きく、どっと笑っていた。彼らの目は、遠くから見ても、まばゆい光を放っているのが分かった。

「とっても、楽しそう」

 そんな言葉が、口を突いて出た。

「うん、楽しそうだ」

「私も混ざりたいくらい」「マザリタイ! マザリタイ!」

「はい、本当に……」

「でしょ?」

 アヤメはかつてないドヤ顔でそう言ってみせた。

 

 そう、結局のところ、答えは最初から出ていたのだ。彼らは、来週にはもう、一か所に集められて、ミュールの歌劇を観覧することになる。そして、そのほとんどが「憧れ」という感情を失い、「普通の人間」として生きていくことになる。しかし一方で、私たちのような道を歩む者も、必ず出てくるはずだ。つまり――彼らは、十年前の私たちなんだ。だからこそ、私はどうしてもあそこに立たなくてはならない。私たちの劇によって、彼らの物語が始まるところを、私たちの気持ちが、彼らの中で書き換えられて再始動リスタートするところを、なんとしても見届けなければならない。もちろん、私たちの演技がプロのミュールたちのそれに勝る力を持っているなんて思っていない。だから、本当に想いが届くかどうかは分からない。それでも、私はやっぱりその瞬間が見たいのだ。つまるところ自己満足ということだが、きっとそれでいいんだと私は思う。

「だから……いいよね?」

 アヤメが何のことを言おうとしているのかは火を見るよりも明らかだった。私は無言で頷いた。コイ、ツグミ、ユユカの三人も、それに追随した。

 それを見るや否や、アヤメは坂を駆けおりて園児たちの元へ向かう。アヤメでなければ問答無用で不審者扱いだろう。目線を合わせて、園児たちと会話する。率先して川の中に突っ込んで行っていた男児が、笑顔でグッドサインをした。どうやら、うまくいったらしい。

 アヤメがこちらを見てウィンクをした。その意味をすぐに理解して、私たちは「せーの」も言わずに

「絶対来てねー!!」

 と大声で叫んだ。園児たちは笑っていた。それを見て、私たちも大声で笑った。


     ○


 帰り際、列車が来るまで少しだけ時間の余裕があったので、駅ビルの屋上に上ってみた。高い建物が一切ない街並みは、五階相当の高さからでも綺麗に見渡す事ができる。ずっと向こうで、なだらかな山並みが控えめにその存在を主張していた。あそこが平野部の終わりなのだろう。

「結局、みんな最初っから『そう』だったんだよね?」

 探りを入れるように、訊いてみる。

「ああ、正直迷ってたんだけどな。あれを見せられちゃあ、敵わないってもんよ」

「そもそも、私たちがこの学校に入ったのは演者としてあの舞台に立ちたかったからでしょ~? だったら、そんなチャンスを逃す理由はないよね、って」

「ブタイ! ブタイ!」

「そうですね……せっかく機会を与えてもらったんですから、全力で臨まないと」

「私は、スモモの気持ちに任せるつもりだったけどね?」

 言って、アヤメはいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「それにしちゃあ、ちょっと強引だったんじゃない?」

 私は苦笑した。

 ふと空を見やると、もうすっかり闇に包まれつつあった。出発まではあと四分しかなかったが、私たちはこの永遠のように長い刹那を、しばし噛み締めていた。

 すると突然、アヤメが叫んだ。

「頑張るぞ~、」

「おー!!!!」

 そして、みんなで笑い合った。誰そ彼時とはよく言ったもので、みんなの顔はほとんど見えなかったが、これ以上ないくらいの笑顔だったのは、確かなことだった。

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