それからの一週間は、まさに嵐のように過ぎ去っていった。無心で何かに熱中していると、時間は早く過ぎていくという。つまるところ私は、この生活を、なんだかんだで楽しんでいたのだろう。本番が近づくにつれ、練習の過酷さは幾何級数的に上がっていったが、私は、苦手を完全には克服しきれていなかったものの、それでも確かに自分の役が自分の中にすっぽりと収まっていくような、そんな心地良い感覚を手に入れつつあった。どれもこれも、一班のみんなの手厚い協力のおかげである。もちろん完璧には程遠いのだが、それでもきっと上手くいくという自信がふつふつと湧き上がってくる。

 新入生発表会は、学校が所有する小ホール――ホールとは言っても、一学年がギリギリ入りきるくらいの、こじんまりとしたコンサートホールである――で行われる。普通科の生徒や、他学年の先生も招かれ、観覧するので、緊張しないと言ったら嘘になる。尤も、生徒たちは「クソめんどい」くらいにしか思っていないと見えるが。

 発表はもちろん、一班が一番最初である。メイクをしてもらい、舞台脇の控室で出番を待つ。四人とも真剣な表情をしていて、一言も喋る気配はない。ユユカはともかく、アヤメもおどけてみせる余裕はなさそうだし、コイですらいつもの自信満々な表情をどこかに忘れてきたようだ。今日はポヨちゃんも鳥籠の中なので、心なしかツグミも寂しそうに見える。やはり、みんな緊張しているのだろう。これではまずい、と私は直感した。

「あ、あのさ」

「……なに?」

 アヤメの突き刺すような視線にあてられて、何も言えなくなる。それでも、なんとか言葉を絞り出さなければならない、そんな気がした。

「えっと……」

「大丈夫ですよ、分かります……緊張、しますよね……」

 こんな時でも私の気持ちを慮ってくれるユユカの優しさに、思わず涙が出そうになる。

「いや、そうなんだけど、そうじゃなくて……」

「大丈夫だから、絶対大丈夫だって」

 その言葉に、却って圧し潰されそうになる。どうしよう、何か言わなきゃ、でも何を? 思考が渦潮のようにグルグルと回り始めて――

「カエル!」

 気付いた時には、そう口にしていた。

「えーっ! ダメだよ帰っちゃ! 一緒に頑張ろ!」

 ツグミが大声で叫んだ。

「ち、違うんだよ、その……カエルって、可愛いなって」

「え? あーカエルか! 可愛いよね!」

 ツグミのメンタルは、思っているよりも数段強固なものなのかもしれない。そう思った。

「カエル? どうしてカエル??」

「アマガエルを愛でるのはもう古い。そう遠くないうちにヒキガエルが可愛さのメインストリームになるからね」

「そうなんですか? ヒキガエルくらい大きいと、どうにも難しい気がするんですが……頑張って克服したほうが良いのかな?」

「いや、全然そんなことはないよ……っていうか私はアマガエルのつもりで言ったんだけど」

「ならばスモモとは相容れないな。コンビは解散だ」

「誰が芸人だ!」

 刹那の沈黙ののち、私たちはいっせいに笑った。その笑いはどんどん増幅し、最後には大爆笑へと変わった。訳の分からないことを言ってしまったが、どうやらこれが正解だったようだ。そのとき、

「一班のみんな、用意を」

 と、永井先生が私たちを呼びに来た。

「はい!」

 私たち五人は、そう答えた。


     ○


「よろしくお願いします」

 客席に向かってお辞儀をすると、もう劇の始まりである。ホールは舞台が一番低いところにある設計になっているので、視線を意識してしまうと、全身を針で刺されるような感覚に襲われてしまう。ゆっくりと目を閉じ、そして開き、最初のセリフを言う。

「あーあ、毎日お勉強ばっかりで、もう飽き飽きしちゃうわ」

 私たちが演じる喜歌劇オペレッタは、姫に求婚する二人の男が、時には協力し、時には対立しながら、姫に認めてもらうため奔走するという内容の喜劇である。私が演じるのは、姫の役であった。コイが国王を、ユユカが執事を、そしてアヤメとツグミが求婚者たちを演じる。

「お嬢様、お嬢様に来客が」

「来客ですって? 随分と珍しいわね」

「ええ、それも二人でございます」

「二人!?」

「おや、お見えになったようですよ」

「姫様、ぜひ私とご婚約ください!」

「いえいえ、こんな青二才ではなく、ぜひ人生経験豊かな私と」

「おい、青二才とはなんだ! 街外れでうだつの上がらない商売なんざやってる輩に、果たして人生経験なんてものがあるのかね?」

「なんだと! 親の脛を齧っておいてそんな物言いができるとは、なんて厚顔無恥な奴なんだ!」

「ならばここで、どちらが婚約者に相応しいか決めようではないか!」

「受けて立とう、生き残るのは常に力ある者だ」

「おやめなさい、みっともない! 私の見たところでは、あなた方お二人はどちらも私の婚約者には値しないわ。でも、もし本当に私と結婚したいというのなら、あなた方に試練を与えましょう――」


 お芝居は順調に進んでいった。不安要素だった歌のパートも、なんとかやり遂げる事ができた。そして、劇はそのまま何事もなく終わる――はずだった。というのも、私は気付いてはならないことに気付いてしまったのだ。

 ユーモラスなセリフに笑みをこぼす生徒。その表情を見ていると――さっきまでそこにあったはずの笑顔が、一瞬にして消え去ってしまったのだ。その間、劇の中で特に進展があったわけではないし、誰かがアドリブを入れて滑ったというわけでもない。一秒もかからないうちに、何の外因もなく、笑顔が無表情へと変わってしまったのである。そう、まるで、かのように――。

 私はしばらくの間、呆気に取られてしまった。笑顔でなくなったのがショックだったのもあるだろうが、それ以上に、あまりに不自然な現象に困惑していたのだろう。時間が永遠のように長く感じられて、視界は徐々に白く染まっていって――私はほとんど前後不覚に陥っていた。

「姫様! いったいなにゆえに、私のことをそれほどまでに拒絶なさるのですか? 私はあなたに言われたことをなんでも成し遂げました」

「そうです姫様、我々は不俱戴天の敵ながら呉越同舟で協力し、姫様の難題を成し遂げたのです、これでは話が違うではありませんか」

 私が正気を取り戻したのは、彼ら(彼女ら)のそんな突き刺すような声を聞いてのことだった。

「その通りです、あなた方はお二人とも途方もないことを成し遂げられました。ですから、私は一人だけを選ぶことなどできないのです。ですから、結婚とはまた異なる形で、家族として暮らしましょう――」

 なんとかセリフを絞り出して、劇はすんでのところで大惨事を免れた。しかし、先ほどの出来事を経験した後だと、私たちを包み込むような明るい拍手の音も、私たちを飲み込もうとする深い深い影のように思われて、私は字義通り身の毛がよだつのを感じた。


 その後のことは、よく覚えていない。私が見たのことをみんなに話したら、いつもの雑談のように茶化されてしまったこと、それでも私がやけに真剣に語るものだから、只事ではないと思ったのかみんな黙ってしまったことは覚えている。あるいは、みんなも気付いていたのかもしれないが。

 それと、発表が終わった後に永井先生が何気なく言った「感情伝播の作法を良く会得したんだな」という言葉が、妙に心に引っかかっている。

 その日は、広い広い宇宙に、少しずつ包み込まれていく夢を見た。

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