一
一
「おーい」
聞き慣れた声で目を覚ます。瞬間、そこにいてはならない人の顔が逆さまに目に入る。
「起きて、七時」
「あのさあアヤメ、勝手に
悪態をつきながら、大きく伸びをする。そして、両手をベッドに叩きつけて、大の字になる。
「無断じゃない。ちゃんと親御さんの許可をいただいてます。曰く『いつ来てもいいよ』と」
逆さまのアヤメが、自信ありげに言う。
「だとしても、起きたあと最初の景色に勝手に侵入されるこっちの気持ちにもなってほしいっていうか」
「屁理屈はいらない。とにかく早く起き上がって、遅刻する」
「まだ遅刻って感じの時間じゃなくない!? 一時間もかからないでしょ!」
「何も食べずに行くつもり? 朝食は大事、食べないと日中の活動が覚束なくなる。ただでさえふわふわなスモモがさらにふわふわになったら、たぶん飛んでいっちゃう」
「余計な一言! 私はれっきとした地上生物だから。それに私の地面への執着は、今のこの状況が何よりもよく……」
その刹那、額にコチンと痛みが走る。驚きのあまり、思わず飛び起きる。
「デコピンとは卑怯な!」
私は頬を膨らませて抗議したが、アヤメは
「ようやく起きた。朝食はもう作っておいた。早く一階に」
などと大真面目に言い放つのだった。私は呆れ果てた。
「あんたはこの家のなんなの……」
「さしずめ、女中といったところかな」
「何百年前だ!」
朝っぱらから友人の自由奔放が過ぎるボケに付き合わされる私の人生とは、いったい何なのだろうか。
そんなある種哲学的な問いについて思いを馳せながら、私は階段を降りた。途中躓きかけたのも、アヤメの私に対する領空侵犯のせいということにしておこう。
○
とはいえ、彼女が、私の生活を成り立たせている最大の功労者であることもまた事実である。共働き家庭で、家族全員が家に揃うことは極めてまれなので、(私自身もそう自覚している程度には)ズボラな私にとって、幼少期から毎日のように来訪してくるアヤメの存在が大いに心の支えとなってきたことも、否定しようがない。
しかし、最近の「これ」はどうも行き過ぎなのではないかと思う。歩いて十分弱のところに家があるとはいえ、彼女にも自分の生活というものがあるはずなのに、「そんなものはない」とでも言わんばかりに私の生活に干渉してくる。高校生になってまた一緒の学校に通うようになったのは私にとっても嬉しいことだが……。
そんな私の思案も、味噌汁の温もりですべて流し込まれた。向こうが善意でやってくれてるんだから、甘えちゃっても、まあいいか……と思わずにはいられない、そんな温もりだ。
「悔しいけど、おいしい。ごちそうさまでした」
「よかった。じゃあ、学校に行こう。早く準備を」
「え~、もうちょっとこう、ゆとりというかなんというか……」
「もうすぐ七時半、そろそろ本当に遅刻しちゃうよ」
「は~い……」
○
私、
創造学芸科というのは、全国で十三の国立学校にしかない学科である。しかも、華智第二高校は一学年七クラスもあるのに、創造学芸科クラスは一つしかないから、全国で見ても「創造学芸科生」というのは希少な存在だろう。その一人になれたということが、自分でも思いがけないくらいに嬉しかったのだ。
創造学芸科では、舞台上で歌を歌い、ダンスを踊り、役を演じる、「ミュール」と呼ばれる人々の育成に特化した教育が行われている。そのため、一日の半分ほどが練習に充てられるが、意外なことに、座学もそれなりに多い。そんな学校生活は正直言ってキツいけれど、楽しくやっていけていると思う……いや、これはまだ始まったばかりだからかもしれない。そうでないことを願っているが。
「おはようー!」
景気づけに、大きな声で叫んでみる。少し遅れて、アヤメも「おはよう」と挨拶したのち、先生にも「おはようございます」と丁寧にお辞儀をした。ちなみに、この女、
「おはよう!!」
私の大声の二倍くらいの声量で、挨拶が返ってくる。真っ先に返事をしてくるのは、いつも決まってこの子――
「今日も頑張ろうね!」「ガンバロウネ!」
そして、こちらは
そして――我らが華智第二高校一年一組一班には、もう一人のメンバーがいる。
私の経験則では、彼女はこういうとき、柱の裏などに――やはりいた。ビンゴだ。申し訳なさそうな顔で、ユユカはこちらを見上げる。
「あの……頑張りましょう」
「うん」
私がユユカを連れ帰ると、コイが真っ先に口火を切った。
「よし、じゃあ始めよう!」
○
「じゃあ、行くよ。手拍子に合わせて息を吐いて」
私たちが今練習を重ねているのは、十日後に行われる「新入生発表会」のためだ。班ごとに、短い
私は歌が苦手だ。にもかかわらず、歌うのが好きだ。好きこそものの上手なれという言葉があるが、その真逆というのはなんともたちが悪い。何と言ったらいいのかは分からないが、結局のところ発声が良くないのだと思う。コイなんかは「体の奥底から太い棒を発射するように……」とかなんとか言っていたが、そういう風に「芯から」声が出た経験というのがただの一度もないのだ。
つまるところ、私は大ピンチだった。オペレッタはセリフ主体の歌劇、何よりも「声」が重要なお芝居なのだ。きちんとした声で正確な音を出すのは、前提に過ぎない。その上に感情を「乗せる」ことが何にも増して重要なのだ――といつにも増して厳然たる面持ちで断言していたのは、これまた永井先生である。
それゆえ、うちの班は、自主練の半分以上を発声練習に費やしていた。ほとんど私だけのために、である(アヤメのハイスペックさは知っていたけれど、コイはともかくとして、ツグミやユユカまで「歌える」側の人間だったと知ったときは、世の中の不条理さを憎んだものだ)。他の班の子たちがどんどん演技のクオリティを上げていくのを横目に見ながら基礎練をやると、どうしようもなく焦りがついて回るものだが、四人が私に歩調を合わせてくれているという安心感もあった。こういうご厚意には思いっきり甘えた方がいいと、私の貧乏人根性が告げている。
「おーい、聞いてますかー」
アヤメがキーボードの「ソ」を連打する音で我に返る。私には結構な頻度でこういうことがある。考え事をしていると、文字通り「心ここにあらず」といった感じの状態になってしまう。アヤメが私のことを「ふわふわ」と評する最大の原因である。
「えっと……次はピアノの音に合わせて『い、え、あ、お、う』と言ってください」
音が鳴る。さっき聞こえた「ソ」の音だ。い、え、あ、お、う。精一杯、声を絞り出す。音が半音上がる。い、え、あ、お、う。次はラの音だ。い、え、あ、お、う。また半音上がる。徐々に、冷たい雑巾のように、自分の体が絞られていくイメージが脳内を埋め尽くしていく。そして――
「い、え……あー! もうダメだー!」
「喉を締めて無理矢理声を出すのはご法度だよ! もっとこう……全身が爆発するみたいに! ね!」
コイの比喩は相変わらずよく分からないが、コイのような人に真っ当な(と思われる)アドバイスをされるときのこのむず痒さは一体何なのだろう。ただ一つ、恋でないことだけは確かである。
「おへその下にある臍下丹田っていうところに力を入れるのを意識するといいらしいよ~」
「セイカタンデン! セイカタンデン!」
およそインコの口から出てくるとは思われない四字熟語が飛び出してきた。それも二回。どういう躾をしたらこんなインコが出来上がるのだろうか。
「ありがとう、意識してみる」
私は笑顔でそう言った。しかし、このセリフを言ったのは自主練が始まってからもう四回目だ。もうそろそろ芽が出てもいいのではないかと思うが、私の冬は極めて長いらしい。春原なのに。
その後、セリフや歌詞の読み合わせなんかを行って、自主練の時間はつつがなく過ぎていった。そう、私の無力感だけを残して……。
○
その日の夜は眠れなかった。なぜかというと、自主練後、二・三限の座学で約百十分間の爆睡を決め込んだからだ。
「バカバカしいなあ……」
と自嘲気味に呟いてみせたのだが、半分冗談のつもりだったその言葉は、妙に私の心にずっしりと重くのしかかってきた。
春の夜は、思った以上に短いものだ。空の暁色が壁の純白を丁寧に汚し始めたのを見て、私は毛布を被り(これは外が明るくなってきて眠ろうにも眠れないときに私がよく使うテクニックである)、まどろみとすら言えない、名状しがたいドロドロの何かの中へと溶け込んでいった。
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