目が覚める。

 やけにやわらかなその感触を肌で感じて、「ああそうか、ここはビンの中か」と思い出す。その感覚は、旅先のホテルで迎える朝、「ここはどこだろう」と一瞬不安になる、あの感覚に少し似ていた。

 だが、ビンが位置している場所を見て、私は驚いた。そこは、もう玄関の外だった。

「いってきます」

 流れ込んできたイメージの中の私は、制服を着て、そう言っていた。

「いってらっしゃい」

 お母さんの声が聞こえる。

 目が覚めたばかりなのだから当然なのだが、私は部屋着を着たままだった。制服ではないし、当然ながら外出用の私服でもない。どうにも恥ずかしくなって、思わず立ち上がり、内壁に手を触れて視覚情報をシャットアウトした。ビンに打ち付けていた雨の音も、全く聞こえなくなった。そういえば、ビンの口は上を向いているはずなのに、雨粒は少しも入ってこない。上を見ると、ジャムのビンのような蓋が取り付けられていた。呼吸は大丈夫なのかとも思ったが、まあたぶん大丈夫なのだろう。

 梅雨の空を見ると、どうにも憂鬱な気分になる。こんなときにはあまり見ないほうが良いだろう。そう思いながら、私は再び座り込んだ――と、ビン底とは異なる手触りの何かが手に触れた。見てみるとそれは、畳んで置かれた制服だった。その隣に、よそ行きの服が三セットほど置いてある。見渡してみると、鞄やらスマホやら読みかけの本やらが中に持ち込まれていた。どこまでも手厚いなあと半ば困惑しつつも、私はほっと胸を撫で下ろした。


 しばらくすると、ビンが動きを止めた。おそらく、学校に着いたのだろう。急いで制服に着替え、手を触れて「くもり」を解除する。

 突如、見知った三つの顔が至近距離でこちらを見つめているのが見えて、私は驚きのあまり尻餅をついてしまった(床が柔らかいおかげで痛みはなかったが)。三人――茜、千佳、真帆の言葉が、嵐のように耳に入り込んでくる。

「よかったよー!」「連絡もつかないからこのまま本当にいなくなっちゃうんじゃないかって思ってた」「もう大丈夫? なんかあったら何でも言っていいからね」……。

 その包み込むような優しさに、思わず涙がこぼれそうになる。今はまだ無理だけれど、いずれちゃんと、私自身の言葉で彼女らと向き合おう、いや向き合わねばならないと、堅く決心した。

「ちょっとまだ本調子じゃないけど、多分もう大丈夫。心配かけてホントごめんね」

 彼女らに見えている私は、そう言った。その口ぶりは、お墨付きを与えてもいいほど、私そのものだった。その精巧さにひたすら感心する傍ら、「私」が取って代わられてしまうのではないかというある種のフランケンシュタインコンプレックス的な恐怖もあった。

「ごめんの木」

 虚像の私はそう言って、ガニ股で頭の上に手を乗せた。そう、彼女らの前では奇を衒ったことをしてしまうというところも含めて、いかにも私らしい。

 三人はそれを見てようやく心から安心したという様子で、声を上げて笑いながら自分の席へと戻っていった。

 周囲を見回す。私のビンは、机と椅子に食い込むようにして、なおかつところどころはみ出ていて、明らかに異質だった。しかし、それに気づいているものは誰一人としていない。

 鐘が鳴り、先生が入ってくる。みんなには申し訳ないけれど、調子のいいときであっても私にとって学校の授業は極めて退屈なので、私は自分の殻にこもることにした。こんなことだから留年が危ぶまれる程度にまで知能が後退してしまったのかもしれないが、こればっかりは仕方がない。久しぶりに見た先生の顔が、もやの中に消えていった。


     ○


 どれほどの時間が経ったのだろうか。小説に読みふけっていたら、時間を忘れてしまっていた。スマホを見てみると、もう三時半を過ぎていた。お腹が鳴り、まだ昼食を食べていなかったことに気付く。鞄から弁当を取り出し、急いでかきこんだ。

 おそらく、もう学校を出ているであろう。そう思ってスイッチを切り替えると、そこにはやはり、傘を差した三人の姿があった。

「で、結局なに観るの?」

 タイミングよく、偽物の私が訊ねた。

「どうしよっかな~」

 言いながら、茜はスマホを取り出し、映画館の公式サイトを開く。なるほど、映画を見に行くのかと、私は勝手に納得した。学校の最寄り駅から三駅のところにある、いかにも古めかしい感じの映画館で、デパートの中にあるようなところではやらないであろうという感じのマイナーな映画も数多く取り扱っていた。

 これからの時間帯で上映するのは二作品しかなかった。よく分からないので、選択は虚像の私に一任する。

 多数決で、けっきょく開演時刻が早い方を観ることになった。


 映画館に着いて、チケットを買う。一瞬、みんなの目に映っているのは幻影なんだから、私は無銭で映画を見られるのでは……?という邪な考えが脳裏をよぎったが、受付に着くやいなや鞄から財布がひとりでに飛び出していったのを見て、「やっぱり、変なところでしっかりしてるんだなあ」と思った。ついでにポップコーンも買った。

 シアターに入り、席に着く。ビンは座席に合わせて異様な形に変形していたが、それを気に留める者などいない。しかし、形が歪んでいても内部が依然として快適なのは不思議なことだ。私はある意味最高の特等席に居座り、映画を楽しんだ。

 仮にも一介の映画同好会会員である私が言うのもちゃんちゃらおかしな話なのだが、映画の内容ははっきり言って極めて退屈なものだった。あるとき、海で溺れかけた少年がイルカに助けられる。それから毎日、少年は海辺に行き、イルカと親交を深めていく。しかし、イルカにも家族がいる。彼の群れは、遠くの海へと旅するのだという。大粒の涙を流しながらも、少年とイルカは最後のひとときを過ごし、そして別れを告げる。そして三十年後、彼は移り住んだアフリカの港町で、飛び跳ねるイルカの群れを見つける――。概ねこういった感じのストーリーだ。チープとまでは言わないけれども、あまり没入できなかった。

 だが、右の席を見てみると――普段から感情の起伏が少ない千佳を除いた二人、つまり茜と真帆が、声を必死にこらえるようにして泣いていた。

 分からないこともないけど、少々オーバーなんじゃないか、と私は思った。


     ○


 外に出ると、いつの間にか雨が止んでいた。もう日が暮れかけているようだ。千佳の家がそこそこ厳しい門限を設けているというのもあって、私たちはたいてい六時過ぎくらいには解散する。

 だが、今日はそうではないようだった。私たち四人は、住宅街の中にある児童公園に入り、手すりに傘を引っかけて、ベンチに腰掛けた。ビンの外壁が明らかに真帆の身体を押しのけていて心配だったが、どうやら私以外の人がビンに触れても何も感じないようである。

 

「退屈だったでしょ?」

 茜は、まさに今茜色に染まりつつある空を見上げながらそう言った。私には、その言葉の真意が分からなかった。退屈すると分かっていながら、私を映画に誘ったとでも言うのか。

「そうそう、最近はいろいろ振り回しちゃってさ」

「あんまり佐織の好きなこととか、出来てなかったんじゃないかな、って」

 千佳と真帆もそれに同調した。それを聞いてようやく、私はその言葉の意味するところを理解した。

 はっきり言ってしまえば、その通りだった。私は疲れていた。追いつくことに疲れていた。振り回されるのが嫌だったわけじゃない。みんなの好きなことを知って、それが自分の中に取り込まれていくのは、自分がどんどん強くなるような気がして、すごく好きな感覚だった。

 そう、本当は、それで十分だったのだ。

 でも、私は間違えた。茜が好きゲームを、千佳が好き漫画を、真帆が好き音楽を、探すことに夢中になってしまった。そこには、本当のことなんて何一つあるはずないのに。

 やがて、私の生活は「私が生み出した彼女らの幻影」で埋め尽くされていった。それは一見すればキラキラ光る三人の姿だったかもしれない。しかし実のところ、それは私そのものだったのだ。私は、ずっと私を見つめていた。いつの間にか、私は彼女たちからも目を逸らしてしまっていたのだ。

 だから、三人は何も悪くない。すべては、私自身の問題だったのだ。


「……」

 イメージの中の私は、俯いて黙りこくったまま何も言わない。いったい何をしてるんだ。伝えたいことが、伝えなくちゃいけないことは、いくらでもあるじゃないか。

 そう思うやいなや、三人もまた、顔を下に向けてしまった。

「ごめんね、ほんと……」

 そんな声が聞こえた。違う。そんなことはない。悪いことなんて何一つない。一緒の時間を嫌だと思ったことなんてただの一度もない。これからもきっとそうだ。私はみんなと一緒にいたい。

 いまや私は、いかにしてこのビンの外に出るかということしか考えていなかった。外に出たらまた体が動かなくなってしまうかもしれない。でも、それでも構わない。とにかく今は、私の、私自身の口から、本当の言葉を伝えなきゃいけない。

 スイッチをオフにして外に出ようにも、蓋がされている状態ではおそらく困難だろう。思えば、よくこんな狭苦しい空間で快適に過ごせていたものだ。今となっては、この場所を少しでもいいと思った自分自身のことが全く理解できなかった。

 ビンを割るしかない。そう直感した。

 全くもって自信はなかった。一人前の文化部員であることからも分かるように、私は運動が得意なほうではなく、パワーもない。だが、やるしかない。


 私はビンの中に立ち上がり、テレビで見た空手をまね、こぶしに力を込めて仁王立ちになった。そして、精一杯の力を込めて――ビンの内壁を、思いっきり殴った。


 ポフッと、情けない音が聞こえた。ガラスがみるみるうちに曇っていく。失敗した。「ミュート機能」を動作させてしまったようだ。

 ――と思った次の瞬間、頭上から何かが降ってきた。

 手に取ってみるとそれは、ガラスの破片だった。普通だったら大怪我をしているところだろうが、その「ガラス」は見た目に反して非常に柔らかく、やさしい手触りだった。

 そう、曇ったように見えたのは、すべてガラスに入ったヒビだったのだ。

 ジャラジャラと激しい音を立てながら、巨大なビンは崩れ去っていき――あとに残されたのは、公園のベンチの前に不自然にたたずむ、一人の女子高生の姿だけだった。

 三人にはそれが、私が突如として立ち上がったかのように見えたらしく、「ど、どうしたの?急に……」などと、明らかに上ずった声で心配された。

 ビンというよりどころを失った私は、今にも倒れそうだった。

 しかし、この機会を逃したら、二度と謝れない。そんな気がした。

 最後の力を振り絞って、私は息を大きく吸い、そして叫んだ。


「こっちこそ、ごめん!!」


 次の瞬間、視界が真っ暗になった。

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