目を覚ます。

 なんとか体を動かして、スマホを確認する。23時27分。そろそろ彼女らの集まりも終盤、あるいは既に終わっているだろうか。

 ローテーブルの上に、数時間前にお母さんが持ってきたと思われる、夕飯のお盆があった。もうすっかり冷めているだろうが、いつもお母さんは冷めていても美味しいものを出してくれる。あとでいただくとしよう。

 そしてその横には、もう二週間ほど開いていないパソコンがホコリを被り始めている。

 スマホを見る。メンションの通知が数件届いているのを見て、反射的にそれを消去する。

 他にもいくつか、ゲームアプリからの通知が来ている。それらを一つ一つ、半ば無意識に消去していく。

 今から参加したら、間に合うだろうか。そんなふうに思って、私はパソコンに手を伸ばし、ベッドの上に乗っけた。そして、徐にそれを開く。途端に、けたたましい音が流れ出てきて、私は思わずビクッとしてしまった。

 それは、二週間前の夜、私が何もできなくなってしまった日の前夜に、みんなで遊んだゲームのBGMだった。

 息が詰まるような、あるいは何か悪い発作が起きるような感覚に襲われて、私は衝動的にパソコンを閉じる。ぱんと、誰かの頬を引っ叩いたかのような音がする。


 それで、ようやくわかった。

 私は、「追いつこうとすること」に疲れてしまっていたのだ。

 私たち四人は、共通の趣味こそあったが、それぞれが最も好き好んで嗜んでいる分野は大きく異なっていた。映画同好会などといういかにもな文化部に所属している私であれば、それは映画であったし、彼女らにとってのそれは、アニメやら漫画やら音楽やらゲームやら絵画やらであったりした。

 なんとなく、分からない話には入ってはいけないような、そんな感じがしていた。だから、今まで家庭用ゲーム機でしか遊んだことのなかったのに、コンビニでプリペイドカードを手に入れて、大セールのタイミングを見ておすすめされたゲームを片っ端から買い漁った。廉価なものも多かったが、中には八〇〇〇円くらいするものもあった。こんなのを何十個も買ってプレイしている人もいるのかと思うと、気が遠くなった。

 いくつもの古本屋を渡り歩いて、おすすめの本を安く手に入れた。漫画アプリを七個ほど入れて、毎日無料で一話読める作品を、十五個ほど掛け持ちしていた。小遣いから差っ引いてもらい、映画やアニメのサブスクに入った。音楽はスポティファイを使って無料で聴いていた。

 朝の電車内では目を閉じながら音楽を味わって、学校では彼女らと過ごして、帰りには映画やらアニメやらを嗜む。家に帰れば、おすすめされたゲームをマルチプレイで遊ぶ。思えば、私の生活には四六時中、三人の影があった。

 追いつかなければ置いて行かれるという、ある種の強迫観念みたいなものが、私の中には特に強くあったのだと思う。そう考えたら、こんな風に疲れてしまうのも無理はない。いや、むしろ至極当然のことだろう。

 だから、ある意味ではとても安心した。あの子たち自体を嫌いになってしまったわけではないのだと。

 とはいっても今は、どうにも身動きが取れそうにない。なんにせよ、私には休養が必要なのだ。それがいつまでになるのかは、全く分からない。だから怖い。すごく怖い。でも、仕方がない。連絡すら一切寄越してやれないのは本当に申し訳ない限りだけれど、今の私にはどうしても、アプリのアイコンをクリック(ないしタップ)する勇気が出ないのだ。

 

 ふたたび、スマホを放り投げる。目を閉じる。

 でも、ほぼ一日中寝ていたのに、そんなにすぐに寝られるはずがない。

 ガタガタと、ベランダへとつながる大きな窓ガラスが揺れる音がする。今日は風が強いらしい。思わず、布団を被って音を遮る。

 しかし、そのガタガタ、ガタガタという音の中に、少々信じがたい音が混じっているような気がした。

 布団を取り去り、耳を澄ませる。その音は、確かに聞こえていた。


 コンコン、コンコン……。


 それは、どう考えてもノックの音だったが、奇妙なのは、それが窓ガラスから発せられていたことだ。私の部屋は一軒家の二階にある。ノックの音などあるはずもない。強盗かと思ってしばしの間身震いしたが、冷静に考えたら、わざわざ二階のベランダから侵入しようとしているのに律儀にノックなんかを寄越してくれる強盗は、いくらなんでもメルヘンすぎるだろう。ストーカーなんかの心当たりもないし……。

 はっきり言おう。私の中で、好奇心が恐怖心を上回りつつあった。いや、既に圧勝だった。

 自分でも信じられないくらい、ひとりでに体が動いて、私の肉体はすでにベランダのすぐ前にいた。

「どちら様ですか」

 そんな言葉が、口を突いて出ていた。もっとも、二週間の引きこもり生活で、本当に誰とも話していないから、出てきたのは自分のものとは思えないくらいしゃがれた声だったが。

「お届け物です」

 どこからともなく声がした――どこからともなくと言ったのは、その声の主がどこにも見当たらなかったからである。窓の外を見ても、それらしい影の一つも見当たらない。

「どういうことですか、ベランダに配達だなんておかしいでしょう。そもそも、あなたは誰なんですか?」

 私は訊ねた。

「それは言えません。強いて言うなら――〝救い〟にまつわる諸々のことを執り行う仕事をしている、とでも言いましょうか」

 胡散臭い。胡散臭すぎる。私は直感した。間違いなく、新興宗教の類だろう。少しでも心を許せば、すぐさまユグドラシルのてっぺんで磔となったシッダールタが啓示を受けて破壊の限りを尽くすというトンチキな創造論を毎日のように効かされるに違いない。

「あいにく心に決めた宗教があるもので。すみませんがお断りさせていただきます」

 丁重にお断りした。だが、「それ」は引き下がらなかった。

「いえ、お届け物なのですから、受け取ってくださらないとこちらとしても大変困るのです。それに、これはあなたにとっても大変好ましいものなのですよ。さあ、こちらにサインを」

 そういって、「それ」は伝票のようなものを差し出した。いや、「差し出された」というより、「出てきた」とでも言った方が正しい。なにせ、まだ窓も開けていないのに、私の目の前には、青白いモヤのようなものを纏った紙らしきものがふわふわと浮遊しているのが、たしかに見えたのだから。

 本能的に理解した。これは人ならざる物の怪の類であると。どうやら、「断る」という選択肢はないらしい。

 とはいえ、「それ」は見たところかなり温厚そうである。多少問いただしてみることくらいはできるだろう。そう思い、私はいくつか質問をした。

「三つ、教えてほしい。私に届いたのは何なのか、それは私にとって何が『良い』のか、そして――差出人は誰なのか。あと、できればあなたたちがどういう存在なのか、何が目的なのかってことも、詳しく教えてほしい。それを教えてくれたら、サインする」

「うーむ……」

 いかにも難しいといった感じで、「それ」は唸った。気配すら感じ取れないほどの静寂がしばし続いたが、ほどなくして「それ」はおもむろに口(といっても、口があるのかどうかすらわからないが)を開いた。

「立場上、どうにも難しいところではあるのですが……可能な範囲でお答えしますね。

 まず、あなたに届いたのは『ビン』です。ビンの中でも、ジャムの瓶みたいな、入口の広いものです。そしてこのビンなんですが、最大の特徴が――『非常に大きい』ということなんです。全長にして二メートル五十センチ以上はありましょうか。

 そして、このビンはどういうものなのかというと……人間が入るためのものなのです」

「人間が?」私は思わず訊き返した。

「ええ、そうですね……いわゆるボトルシップをイメージしていただくと分かりやすいかもしれません。しかし、入っている本人以外には、このビンは見えません。これは、あなたが普通に活動しているという『像』を周囲に見せてくれるものなのです。そういう意味では、『レンズ』の役割を果たしているといった方が適切かもしれませんね。あなたは生活に疲弊してしまったものと見えます。あなたには休息が必要です。ですが、二週間もまともに部屋から出ていないと――失礼ながら、そろそろ罪悪感を覚えつつあるのではないですか? この中に入れば、あなたは何をしていてもよいのです。ビンの方がひとりでに動いて、『普通に生活するあなた』を映し出してくれるのですから。もちろん、スマホやら漫画やらを持ち込んでもいいんですよ。ビンとは銘打っているものの、快適さに配慮した柔らかい素材でできていますので。そういうわけなので、一見入れそうにないドアにも入れてしまいます。それに、周りの目が気になるならガラスを曇らせることもできますし、外部の音を遮断することもできます。どうでしょう? ずいぶん魅力的だと思いませんか? あっ、ちなみに、私どもの素性についてはあれ以上のことは言えませんので、悪しからず。あなたのような方を救うというのが、我々の至上命題です。これは、本心ですよ」

「ふーん……」相槌を打ちながら、私は「それ」の言葉を反芻していた。

 私に関して「それ」が言ったことは、完全に正しかった。今の私は、他に楽しいことがあるからとかそういう理由で引きこもりを決め込んでいるわけではない。できることなら、一刻も早く元の生活に戻りたかった。でも、今はそんな力も残っていないし、無理矢理戻そうとしたって、かえって調子が崩れるだけだろう。

 だから、最善の選択肢とまではいかずとも、「それ」の提案は悪くない――いや、むしろ良いものだった。

 もちろん、そんな摩訶不思議なビンが本当に存在するのかという疑念は拭いきれていなかったが、数々の超常現象を目の当たりにした後だと、そういったものがきっとあるんじゃないかと思えてしまうのだから、不思議なものだ。

 結局、私はビンを貰うことにした。

「じゃあ、いただくことにします」

「ありがとうございます! では、こちらにサインを!」

 今までになく調子付いて、「それ」は嬉々として言った。例の伝票?と、ペンらしきものが出てきた。よく見ると、伝票というよりは契約書に近い内容だった。小難しい内容がずらりと書いてある。読み飛ばしたいところだが、いかんせん相手が人ならざるものなので、慎重にならざるを得ない。こういう契約は、怪談において悪い妖怪たちが用いる常套手段というものだ。いやまあ、そういう「契約」は基本的に口約束で、普通ここまで人間のルールに則ったものではない気がするが……。よく見ると、「クーリングオフについて」という項目もある。修理についても書いてある。近頃の物の怪はアフターフォローも手厚いのか。特にまずそうな記述も見当たらなかったので、私はサインをした。すると、書いた名前が光を放って――次の瞬間、契約書は青白い炎に包まれるようにして消えていった。

「このたびはどうもありがとうございました。こちらが勝手にご用意したものですので、やっぱり要らないなと思ったら『回収』と油性ペンで大きく書いておいてください。こちらで適当に回収しておきます。では、ご自愛くださいませ」

 そう言い残して、「それ」はいなくなってしまった。そんな適当に管理されてるんですか、とツッコミを入れる間もなかった。もっとも、はじめから見えないのだからいなくなるも何もないのだが、なんとなくそんな感じがしたのだ。


 何やら気配を感じて、後ろを振り返る。

 そこには、横倒しになった巨大なビンが――ベッドと本棚に挟まれて既にビンらしからぬ形に変形しながら、こちらに口を向けていた。


     ○


 そのビンは、はっきり言って異様だった。何やら妖しい邪気のようなものを放っている、そんな気がした。

 それになにより、とてつもなく邪魔だった。

 ローテーブルを押しのけて部屋の中央に鎮座しているビンは、女子高生の普通の部屋を、日夜奇妙な実験が行われている研究室へと変貌させてしまった。


 何はともあれ、このまま放置しておくわけにもいかない。

 ビンの口に足をかけ、バランスを崩しそうになりながら中に入ってみると、「あれ」が言っていた通り、見た目に反して柔らかい感触が肌に感じられた。

 内壁に手を触れてみると、透明だったガラス(らしきもの)が一気に曇って、外が見えなくなった。ついでに、外の音も聞こえない。これはこれで居心地が悪い。もう一度手を振れたところ、予想通り曇りが消えて、音も聞こえるようになった。なんとなく、ワイヤレスイヤホンのような仕組みだと思った。あの契約書といい、現代の妖怪は思った以上に現代的なのかもしれない。

 ビンの中に、寝っ転がってみる。何からできているかは分からないから何とも不気味だが、肌触りとしてはふわふわといった感じで、もしかするとベッドの上よりもよっぽど快適かもしれない。全身の力が抜けていく。ふと、ボタンのようなものがあるのに気付く。「機能オン・オフ」と、ゴシック体で書いてある。風情がない。おそらく、「あれ」が言っていた「普通の生活をしている私を映し出す」機能をオンにするためのボタンなのだろう。さっそく、それを押してみた。

 一瞬、ビン全体が七色に光った。そして、ビンの〝流動的〟なガラスが徐々に変形していくのが分かった。いや、これは変形というより――徐々に傾いている? そう思ったときにはもう、私はビンの「底」にするりと落とされていた。見ると、ビンは口を上にして立ち上がっていた。そして驚くべきことに、少し浮いていた。かの有名な青い猫型ロボットは地面から三ミリほど浮いているそうだが、私のビンは「浮遊」と呼ぶにふさわしいと自信をもって言える程度には、しっかりと浮いていた。おそらく、これがこのビンの「臨戦態勢」とでも言うべき状態なのだろう。

 やおら、ビンが水平移動を始める。やわらかなビンの底に寝っ転がりながら、私はそれを眺める。一階にでも行くつもりなのだろう。脳内に、自分がドアまで歩いていくイメージが流れ込んできた。一体どうやったのか、ひとりでにドアノブが動いて、ドアが開く。それよりも一回りも二回りも大きなビンが、ぐにゃんぐにゃんと変幻自在にその形を変えながら、まるでゼリーみたいにそこを通過していく。はっきり言って、ちょっと気味が悪い。

 階段を降りる。洗面所で、お父さんが洋服棚を整えている。べつに潔癖症というわけではないのだが、お父さんは整理整頓が趣味と言ってよいくらいには、いつも何らかの収納をいじっている。そういうことなので、ものを仕舞うとか並べるとか、そういった作業を伴う家事(洗濯物干しとか、掃除全般とか)は我が家では基本的にお父さんに一任されている。私に頭を下げてまで「部屋を掃除させてくれ」と頼み込んできたときは、さすがに困惑した。次の日部屋に帰ると、雑多な書籍を置いていた本棚が、まるで大型書店のように一定の秩序に基づいて並べ替えられ、キラキラという効果音を放っているかのようだった。

 お父さんは、私に気付く気配すら見せない。相当熱中なさっているのだろう。いい人ではあるんだけど、ちょっとそういうところがある。

 廊下を進んで、ドアを開ける(実際は勝手に開いているのだが、まあこう言ってもいいだろう)。キッチンで、お母さんが皿洗いをしている。と、お母さんがこちらを見た。相当驚いている様子だ。まあ、当然だろう。うちには一階と二階、それぞれに一つずつトイレがあるので、わざわざ一階に降りる必要はない。両親がともに外出している時間帯に勝手にシャワーを浴びたりはしたが(体が言うことを聞かないなんて言っていたのに随分まともに生活できているじゃないか、との批判は当たらない。いくら引きこもりと言えども一人の人間、風呂に入らなければ数日にして頭のかゆみもピークを迎え、体が勝手に風呂場へと向かってしまうのだ。トイレと同じ、生理現象の一つとでも思ってほしい)、ご飯が運ばれてくる時間帯も私は基本的に寝ているので、お母さんとちゃんと顔を合わせるのすら数日ぶりだし、まともな会話に至ってはそれこそ二週間ぶりだ。

 少し、不安にもなった。「あれ」が言ったことは嘘で、実は向こうには「ビン入りの私」がはっきりと見えてしまっているのではないか、と。私は思わずその場に正座した。しかし、それが杞憂であったことはすぐに分かった。

「起きてきたの? 体調は大丈夫? 夕飯は食べれた? できればもう洗ってしまいたいんだけど……」

 質問の嵐が押し寄せる。そういえば、夕飯の存在を完全に忘れていた。まあ、あんなことがあった後だから無理もないと思うが……。あーごめん、すぐ食べるから――そう言おうと思って口を開いたのだが、それと同時にお母さんが喋り始めた。

「あら、そう。じゃあ、一時くらいに取りに行くから」

 明らかに、誰かの言葉に対して返事をするような口ぶりだった。そして、その誰かとは――まぎれもない、「ビンが映し出した私」だった。頭の中に流れ込んできたイメージでは、「ビンの私」はこう言っていた。「ごめん、今起きたから……。すぐ食べるから、ちょっと待って」と。概ね、私が言おうとしていたことと同じだ。いや、それよりも適切な受け答えだったかもしれない。なんにせよ、お母さんはその言葉に対して返答をしたようだった。ビンの中でくつろいでいる私が見えていなかったことも、それで明らかになった。

 ビンの私は言った。

「あのさ、けっこう調子よくなってきたから、明日は学校に行ってみようと思うんだけど」

 一瞬、お母さんは間の抜けた顔を見せた。

「よかった……。あんまり調子が悪そうなもんだから、医者に診てもらおうかって悩んでて。よくなったんなら安心。でも大丈夫? お昼過ぎから行ってもいいんだよ? 病み上がりなんだから、あまり無理はしないように。まあ、見たところ調子は良さそうだけど……」

「分かった、ありがとう。でもまあ、明日はとりあえず行ってみる。ダメそうだったら、それから考えればいいし」

 いかにも愛想の良い感じで、「私」は答えた。

「じゃあ、お弁当も作っておくから。夕飯食べて、風呂入って、すぐ寝て――って言っても、まあ寝られないか。目閉じてるだけでも体は休まるって言うし、とにかくあんまり夜更かしはしないように」

「分かった。じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

 自分の干渉できないところで誰かと自分との会話が繰り広げられるというのは、少々もどかしい気分だ。家の中だけでも自分の体で動いた方が、多少無理することにはなるだろうが、自分の性にはあっているのかもしれないと思った。なんにせよ、未読無視を決め込んでいた(無視と言っても、通知が来ていてもアプリを開くだけの気力が起きなくなってしまったというのが真相だが)ラインも、後ほど自分の言葉で返信しようと思った。


 ビンはなめらかに家の中を移動していき、私は自室に戻った。ビンが、ローテーブルの方へと向かっていく。食器の乗ったお盆を、味噌汁がこぼれないように水平に保ちながら持ち上げる(というか、浮遊させる)。そして、一瞬青紫色の煙のようなものが見えたかと思うと、お盆はなんとビンの側面をすり抜けて中に入ってきた。これを食べるのかと思うと、ビンの「成分」が含まれているような気がしてちょっと嫌だが、手を差し出すと、お盆はこちらに寄ってきて、その上に乗る。少し、ペットみたいだと思ってしまった。ビンの力による浮遊が終わると、夕飯の重みが両腕に一気にかかる。思わずバランスを崩しそうになったが、なんとか持ち直して、お盆を床(ビンの底)に置く。

 ここで、あることに気付く。お椀に入った白米と味噌汁から、湯気が出ている。どうやらこのビンには、電子レンジの機能もあるらしい――と思ったが、米の方をよく見てみると、表面のところが乾きつつある米を温めなおした時のあの絶妙に嫌な感じは一切なく、むしろ炊き立てといった感じで、温めなおしたというよりはむしろ「時間が巻き戻った」とでも言った方が正確なように思われた。一体どんな仕組みなのかは知らないが、このヘンテコな見た目に反して機能が充実しすぎてはいないか、と思った。まあ、「あちら」の国でも現代化が進んで、このくらい便利なアイテムでないと大衆に受け入れられなくなりつつあるのだろう。商品開発者(そんな存在がいるのかは知らないが)の並々ならぬ苦労を思いながら、私は「できたて」の夕飯を味わった。米はともかく、お母さんの作る味噌汁は冷めていても非常に美味しいので、私はそれでも十分満足だったのだが、実に二週間ぶりの温かいご飯は、まさに五臓六腑に染み渡るというものだ。美味のあまり、涙がこぼれそうになった。


 夕飯を食べ終わったら、次は風呂だ。しかし、風呂に入るには、どうしてもビンの外に出なければならない。しぶしぶ、私はビンの「スイッチ」をオフにし、横倒しになったビンの口をまたいで、およそ一時間ぶりに外に出た。

 とたんに、体が重くなる。頭に血が行き届いていない。そんな感覚がする。頭がクラクラして、私は思わずその場に座り込んでしまった。

 思えば、あのビンの中にいる間は、なんとなく調子が良かった。自由自在に体を動かすことができたし、こころなしか精神面においても快い気分でいられたような気がする。

 モラトリアムの代償、あるいは反作用とでも言わんばかりに、体のあちこちが硬直していく。「自分」がどこかに逃げてしまうような感覚に襲われて、私は思わず自分の体を両腕で抱き締める。体の震えが、加速度的に増大する。ネガティブな気持ちが、暗雲のように思考の空を覆っていく。意思に反して、滝のような涙が溢れ出る。声にならない声が、喉の奥の方からどんどんこみ上げてくる。ああ、これはまずい。私は思った。

 あのとき――「あれ」がやって来たとき、私は「好奇心が勝って、起き上がって身に行ってしまった」と言ったが、あれももしかすると、彼らの頂上的な力によって一時的に体が動かせていただけだったのかもしれない。そう思えるくらいに、今の状況は最悪そのものだった。

 電気がついているはずの部屋が、どんどん暗くなっていく。闇が迫ってきて、私を呑み込もうとしている。世界の全てがパズルのピースとなって崩れ落ちていくような、そんな感覚。一度バラバラになったパズルをもう一度完成させるのには、時間がかかる。心も同じだ。私の心はもう、ほとんど壊れかけていた。それを、否応なく理解させられた瞬間だった。

 これに呑み込まれたら、私はもう立ち直れない。そう直感した。どうにかしないといけない。どうにかって、何を? わからない。誰かに助けを求めたら解決するような、そんな簡単な話ではない。でも、ここから逃げないと、私は助からない。

 ああ、神様――。

 私は本気でそう思った。神頼みというものをしたのは、物心ついてから初めてのことだったかもしれない。私はいまや、助けではなく救いを求めていた。そう、人為を超えた救いを――。

 そう思った瞬間、ある言葉が脳裏をかすめた。


 ――強いて言うなら――〝救い〟にまつわる諸々のことを執り行う仕事をしている、とでも言いましょうか。


 そうだ。それしかない。私はそのとき、あのビンの外壁に、「オン・オフ」のスイッチとは別の、ボタンらしきものがくっついていたことを思い出していた。

 一縷の望みに向かって、私の体はおもむろに動き始めていた。全身が痛い。苦しい。息が詰まる。でも、そうするよりほかに選択肢はなかった。

 ボタンには、「呼出」と書かれていた。多目的トイレのボタンのようなその出で立ちに思いを巡らせる間もなく、最後の力を振り絞って、私はそれを押下していた。そしてそのまま、頭の中から何かがスッと消えていくような感覚とともに、私は意識を失った。


     ○


 目を開くと、ガラスのつややかな光沢が目に入った。どうやら、うまくいったらしい。

 温もりの中で、体が浮いているような感覚がある。見回してみると――ビンが水のようなもの満たされていることが分かった。思わず口を塞いだが、呼吸ができることに気付いて、手を取り払った。

 そのとき、ある違和感に気付く。さっき目をぐるぐると動かしている間にも、やけに視界に肌色が多いなとはなんとなく思っていたが――端的に言えば、私は全裸の状態だった。視線を下方に向けると、歪な丸みを帯びた並び立つ二つのヘミスフィア――この言いぶりからもお分かりかと思うが、私が人体において最もその必要性に疑念を抱いている部位である――が否応なしに目に入る。そういえば、ご丁寧なことに、ビンは「くもりガラス」モードになっていた。

 つまるところ、私は風呂に。まるで赤子のように、お湯のようなものに包まれていたのだ。

「お目覚めですか」

 どこかで聞いたような声が聞こえる。それは、「それ」の声だった。例によって、声の主は視認できなかったが。

「お目覚めですか、じゃないんですよ。これは一体全体どういうことですか」

「お風呂に入りたくて、呼出ボタンを押されたのではなかったんですか?」

「そうだけれど、そうじゃないですよ。まあ、何にせよ助かったのでいいですが。

 とはいえあなた、齢十六のうら若き乙女が一糸纏わぬ姿でいるところに躊躇なく話しかけるとは、少しばかりモラルが欠けているんじゃないですか? あやかしの世界にそういう概念があるかどうかは知りませんけど、何にせよ他人――誰かに裸体を見られるということは、一般的に気分のいいことではありません。人間の世界には『恥じらい』というものがあります。というか第一、目が覚めていきなり全裸だったら、ふつうはびっくりします。もしかしたら、驚きのあまりまた失神してしまうかもしれません。どうか配慮してください」

 自分の口からこんな調子付いた言葉が出てくることにある部分では安堵しつつも、私は不平をこぼした。

「これは失礼。こちらの常識にはまだまだ疎いものでして。では私はこれでお暇させていただきます。お困りのときはいつでもお呼び出しください」

 そう言って、「それ」の気配は消えた。

 ビンから、「お湯」が消えていく。私はずぶ濡れの状態でビンの底に放り出された。と思うと、今度は熱風のようなものが吹いてきて、私を乾かしていく。水滴がポコポコと音を立てながら浮き上がり、やがて消えていく。私はそのとき、自分の身体が浄化されていくような感覚を覚えた。いつも乾燥しがちなてをこすり合わせると、なんだか普段よりももちもちとした感触がした。

 体と髪が乾ききると、どこからともなく着替えが飛んできた。洗面所から持ってきたのだろうか? お父さんの機嫌を損ねないような「取り出し方」をしてくれているといいのだが……。

 急いでそれを着て、ビンの内壁に触れる。ガラスの「くもり」がスッと消えていく。見ると、そこは私の部屋だった。

 なんとなく拍子抜けして、私はビンの底に座り込んだ。

 いま外に出ても碌なことにならないのはよく分かっていたので、その日はそのままビンの中で寝た。

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