ウラ —高波晴朗

筑駒文藝部

本文

ウラ

高波晴朗

 裏世界への入り口は常に開かれている。

 別に異世界だのなんだのの話をしたいわけじゃない。

 俺たちの住む世界のすぐ隣に、常識では測れない空隙、ユメマボロシが横たわっている。都市伝説やら伝奇小説やらで散々語られている手垢のついた与太話だが、この眼に見えない「隣人」は人々の心をいまだ捕らえて離さない。

 思うに、この絶妙な非日常観こそがミソなのだろう。論理的にはあり得ない。しかし、心のどこかでもしかしたら、と思ってしまう。そんな自分の心理状況すら楽しめてしまう。だって、絶対にありえないのだから。

 このバランスはなかなかに危ういものだ。ひとたび裏世界が人々に牙をむけば、創作を創作として楽しむことは不可能になる。ヤクザの抗争やら不運な事故死を裏世界の所為にしていたから、それを娯楽として楽しむことができていたのだ。創作が創作を飛び出した時点で、創作でなくなった創作は人間の創作たり得ない。

 つまり、つまりだ。

「何が起こってんだ……?」

 まとわりつく冷感。フィルターをかけたように霞む太陽。くぐもった雨音の反響。

 俺は裏世界に飲み込まれたのだ。


 常識ではありえない事柄を前にして、俺の意識は相当に麻痺しているようだった。他人事のようにぼんやりと、この空間は何なのだろうかと考える。

 確か海外の創作サイトにこんな場所があったはずだ。現実世界から運悪く(或いは良く)落ちてしまうことがあるという、無限に連なる部屋部屋。しかしこの空間は黄色い壁に囲まれてもいないし、現実世界の様子が霞んではいるが良く見える。

 それでは、これはバグなのだろうか。現実という広大なフィールドに残された小さな瑕疵。

 周りの様子もそれらしい。ちょうど3Dゲームで無茶な動きをしたときに(或いは特定の手順を踏んだ時に)入れる裏世界のようではないか。

 まるで昔のゲームで流行った裏技。全てが真っ暗な謎の場所に偶然、或いは意図的に迷い込むことで伝説のモンスターを捕まえられるというあれだ。しかしあれは一歩でも踏み間違えたらセーブデータを失う危険な領域ではなかったか。

「イヤイヤイヤ……」

 思わず背筋がぞっとなる。急に自分の存在が薄くなったような感覚。例えるならば立っている地面が急に揺らいだような、いや正に地面が揺らいだせいでこんなとこに落ちてきて、待て俺は今何の上に立っているんだ?

 恐る恐る足元を覗き込む。地面は淡く灰色に照らされており、俺の影をぼんやりと照らしていた。右手に視線を向ければ灰色の地面(仮)は三メートルほど先で消滅しており、その先は無明の闇が広がっていた。左手にも同じく、想像するのも恐ろしいような黒が二メートルほど先に広がっている。

 突然俺の脳裏に鮮明なビジョンが浮かんだ。何の前触れもなく、はるか下方から吹いて

来る突風。俺の体はなすすべもなく翻弄され、たたらを踏む。二歩、三歩。懸命に踏ん張ろうとする努力をあざ笑うかのように、冷たい風は容赦なく俺を突き飛ばし…、そして抗う間もなく今度こそ本当の意味で裏世界に飲み込まれる…。

「っっっ!」

 足腰から力が抜けて、俺はへたり込んだ。地面の感触を確かめるように二度、三度と地面をなぞれば、皮膚は冷たい感触を確と伝えた。灰色だった地面には薄く橙色が混じり始め、雨の音はいつの間にか遠ざかっていた。息を整えると漸く思考が鮮明になっていく。

 早くここから出なければ。そもそもどうやってここに落ちてきたんだっけ…。

 今日は早く学校が終わったので、なんとなく駅の裏側の繁華街に寄っていた。バックの中に隠し持ったテストの結果が俺の帰巣本能を押さえつけ、喧騒に身を委ねながらあちらこちらをぶらぶらしていた。しとしとと陰気な雨に降られているにもかかわらず、町はどうにも浮ついていて、俺も何か一杯ひっかけようと裏路地の自販機へと足を進める。

 うん、まあ、自分でも思い返すだけで相当恥ずかしいのだが、その途中に水たまりでスっ転んだのだ。踏み込んだ水たまりが思いのほか深くて、上の空で歩いていた俺の足は見事にタップダンスを踏んだ。我ながら見事な転び方だった。ズルッて行って背中からビターンって。生涯最高の飛び込みだなんて思っていると、気が付いたらここにいた。

 唐突に腹の奥がねじれるように痛んで、俺はえずくように腹を抱えた。水たまりに飛び込んで裏世界に来る?客観的に見れば見るほど質の悪い笑い話ではないか。口の端から息を漏らす。ここで本当に笑ってしまえば、もう元には戻れなくなってしまう気がして。

 誰にも知られず発狂死しました、ではそれこそ笑い話にもなりやしない。脇腹に爪を突き立てれば、鈍い痛みと共に発作のような痙攣は多少収まった。大事なのはどうやって元の世界に戻るのかということだ。蟠る暗闇から目を背けながら辺りを見渡せば、地面は俺の経つ地点から五メートルほど後方に行った地点から地上に向けてゆるかな坂となっている。さらに十メートル上った地上にきらり、と光るものがある。わずかに揺れる水面。俺の落ちてきた水たまりだ。

 裏世界へのトビラが一方通行だなんて事があるのだろうか。嫌、否。脳内を駆け巡った思考に突き動かされるように光に向かって這い進む。陽光の角度はいつの間にか鋭くなり、無色の地面を鮮やかに照らす。もしこのまま夜になったとしたら?到底街灯の光程度ではこの闇を斬り払うことはできない。もう想像する気力もなく、俺はのろのろと進んでいく。

 坂に差し掛かった時、腰の抜けたカラダで本当に這い上がれるのか、という不安が俺を襲った。しかし人間とは案外タフなもので、少しずつ、だが直実に揺らめく水面は近づいてくる。

 ああ、遠くからせせらぎが聞こえてくる。揺らめきが世界に投影されている。万力に締め付けられるように頭が痛む。もうこれ以上耐え切れず、俺は手を膜の中に突っ込んだ。そのまま腕を振り回す。

「痛(ツ)ッ……」

 ゴン、と鈍い音が骨に伝わってきた。こわごわ手を動かせば、掌は細い棒をつかんだ。カーブミラーだろうか。それを頼りに上体を起こす。頭が水面を突き抜けた。

 驚くべきことに、何も起きなかった。急な眩暈に襲われることも、幻覚幻聴が観える事も無く、当たり前のように俺は元の世界に戻ってきていた。拍子抜けして辺りを見渡す俺の上を、烏が飛んで行った。

 もし誰か近くにいたら、ゾンビが地下から蘇ってきたように見えたかもしれない。幸運なことに路地裏に人影はなく、俺は頭を振って足を水面から引っ張り上げた。

 水たまりはあれからだいぶ小さくなっていた。まだ足元のふらつく感じは消えないものの、漸く長くため息をつける。太陽はそろそろ地平線に差し掛かっていて、空全体がのっぺりとした赤に染まっていた。また頭が痛くなってきた。眉間を揉みつつショルダーバッグを背負いなおす。

 あの裏世界の出来事は全部夢だったのだ。俺は自分にそう言い聞かせながら帰路に就く。それが本当かどうかなんてどうでもいい。ただ今日の出来事は綺麗さっぱり忘れてしまいたかった。願わくば、二度とこの記憶が浮かんでこないように。








ーーああ、そういえばあんな空間があったじゃないか。

あそこが何なのかなんてどうでもいい。今は目の前のコレを隠しきれればそれでいい。

山奥に車ごと捨てたり、ドラム缶にコンクリートと一緒に詰めて海に流したりなんてよく聞くが、そんな危ない手段を使う必要がどこにある?


 俺の目の前に広がるのは凄惨な風景だった。厭、分かってる。そんなこと、お前に言われるまでもない。酷い末路だ。


よくある話だ。独り言を言っている場合ではない。

二人が帰ってくる前に早々に始末をつけなければ。

確かあいつは「部活に行くつもりだったが、午前だけ出て午後はサボった」と言っていた。

なら本当に、コレを片づけるだけで全てが収まる。

俺は一日部屋に籠っていた。

親は買い物に出かけていた。

あいつは部活に出かけたまま行方不明。


 最悪だ。本当に自首するべきじゃないのか?カッとなってやってしまいました、って。それが人間として当然の行為だろう?見ろよ、コレの顔を。ぐしゃぐしゃだ。血まみれでとんでもない有様だ。こんなことをしでかしていつまでも隠し通せるわけがない。


冗談じゃない。

そんなこと、冗談じゃない。

ばれるものか。ちゃんと後始末をすれば誰も気づきやしない。

血痕検査だろうと関係ない。誰が俺に疑いをかける?死体だってありゃしないのに。

静かに耐えていれば、いずれ元の日常が戻ってくる。


 本当に戻ってくるとでも?


黙れ。

分かってるんだろ?ばれたりしたら本当におしまいだって。

独り言なんかせずに手を動かせ。

階下からゴミ袋を二枚、ゴム手袋を一組、トイレットペーパーを一巻き持ってくる。ついでに桶一杯の水道水も。

ひとまず目につく血痕を一通り吹拭く。自分の服に血がつかないように、慎重に。

ゴミ袋の口をがばっと開き、中に汚れた紙や服を放り込んで行く。

さて、と一息ついて眼前に横たわるコレを見下ろす。

脱力した人間の体は相当重い、とどこかで聞いたことがある。思えばあいつを抱えてやったことは何度もあるが、寝ている所を抱っこしたことなんて一度もない。体重をたずねるような年齢でもなくなってるし。


 自覚してんのか?回想しながら髪をつかんでコレを引きずって。何をどう取り繕うとも異常者の所業じゃないか。破滅願望でもあるのか?


この期に及んで自問自答なんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。

ああ、相当テンパっているんだろうな。他人事のように独り言つ。

苦労してコレをゴミ袋の中に入れると、汚れた紙と手袋に上着、置いておいた鉄バットも一緒に放り込む。

破れないようにさらにもう一枚ゴミ袋で包んでやれば、狼藉の痕跡は飛び散った微かな血痕のみになった。ようやく一息ついてから、水の張ってある桶を掴む。いっそ生々しいほどの重みが腕に伝わり、俺は危うく部屋中をびしょびしょにするところだった。

ゆっくりフローリングを水に浸していく。差し込む陽光を仄かに反射しながら水たまりが大きくなる。床に飛び散った緋色に触れると、それはマーブル状に水面に浮かび上がった。

渦を巻いて広がる赤。これほど相応しい文様もないだろう。


 これでお仕舞だ。


ああ。これでお終いだ。

目の前の水たまりに、手に持ったゴミ袋を放り込む。水飛沫を立てることなく沈んで行き。

トプン、と小さな、しかし確実な音を立てて消失した。あとには波紋だけが残された。

突然、強烈な不安感が俺を襲った。

これほど。これほど容易く。

これはダメだ。これは何か致命的な……。

しかし、俺はこの違和感を言葉にすることができなかった。

代わりに一つの確信が俺の思考を支配した。

これは誰でもできる。誰でも行ける。じゃあ、誰がコレを見つけるかもわからない。

それはだめだ。何とかしなければならない。逸る焦燥感に任せ、俺は水面に足を突っ込んだ。そのままゆっくり体を沈めていく。

再びトプン、と音がして、俺の体は門をくぐった。

同時、足元に何かを踏む感触。硬く、柔らかい円柱状な……。

「あ……」

これは足だ。

着地に失敗し、バランスを崩した俺の目に飛び込んで来たのは、自分の足がゴミ袋に包まれたコレを踏んでいる姿だった。

体勢を崩し後ろに倒れ込む俺の背筋にゾクリ、悪寒が走る。

まさか。いやまさか。必死に否定しようとしても、確信めいた悪寒は引いてくれない。

どうしようもなく傾いていく視界の中で、虚空を見つめ続けることしかできない。

ああ、これは……。

ふざけるな。こんなところで。理不尽じゃないか。認めるものか。

「ぐおぉッ!」

体を思いっきりひねる。姿勢が崩れ、一層早く落ちていく。

だけど、手が地面の「縁」に近づいていく。

こっちの方が速い!

両手がガシッと地面の際を掴む。直後、両足が虚空に投げ出される。

「ハァ、ハァ、ハァ……」

ああ、やった。やったぞ。

手はじっとりと汗ばみ、頼りなく体は揺れるが、それでも生き延びた。

一息ついたら、上に上がらなければ。


 しかし、まだ終わってはいなかった。

 俺はコレを踏んで体勢を崩したが、コレだって同じだけの衝撃を受けたのだ。

 ゴミ袋という滑りやすい素材に、なめらかな地面が災いした。その重量が故ゆっくりと、しかし確と地面を滑り。

 地面の際に到達し。

 俺の見上げる中、俺の右手の直ぐ右側でゆっくりと傾いていって。

 焦らすような<ため>の末、コレは俺の耳を霞めて落ちていき。

 <破れたゴミ袋から飛び出したコレの指が、俺のズボンのポケットに引っかかった>。


離れていく指。俺はなすすべなく落ちていく。俺は、口から絶叫が洩れるのを聞いた。


 当然だ。罪と罰。奪った以上は奪われる。餓鬼でもわかることだろう?

 お前はそれだけのことをしたんだ。

 俺はそれだけのことをしたんだ。


「嫌だ……」


 この手であいつの頭を殴った感触を覚えている。

 あいつの眼を潰した感触を覚えている。

 覚えている。


「嫌、嫌だ!」


 これで少しは罪を雪げるのだろうか。


「こんなところで!こんな……!」


 恨んでいるのだろうか。当然だ。

 俺はあいつがまだ生きているのではないかと思う。

 最後の力を振り絞って俺を道連れにした。


「だって、どうしようもなかったじゃないか!ああ、俺は悪くないんだ!」


 ああ、どんどんと飲まれていく。轟轟となる風音に交じって、声が聞こえる気がする。

 あの水面のきらめきがどんどん小さくなっていく。


「理不尽だ!間違っている!こ……こんな、こんな!」


ーー……ちゃん……!


 ああ、本当に、本当に……。


「ああ……!うわぁ、嫌だ!嫌だぁぁぁ……」


ーー……きてよ!お兄ちゃん!




「あ!やっと起きた!」

 目を焼く朝日。微かな春風の匂い。

「まったく、いくら呼んでも起きないからどうしたのかなぁ、なんて思って見に来たら、すっごいうなされてたよ!」

 頭の奥が痛い。気づけば手と額がびっしょりと濡れている。

「あ……ああ、おはよう」

「うん、もうご飯だからね!さっさと着替えて降りてくるんだよ!」

「おーけー、おーけー」

「ん?なんか疲れてる?」

「いや、なんかすっごい悪夢を見た気がして……」

 俺は何を見たんだろうか?ただ恐怖の余韻だけがぼんやりと胸を占めていた。

「なんかめちゃくちゃ落ちてったような気がするんだよなぁ……」

「ええ、なんかの凶兆じゃない?まあいいや、待ってるね!」

 凶兆だなんて大げさな。胸の奥にくすぶる、目覚めの気持ち悪さを飲み込んで俺はベッドを出る。

 何かあいつに伝えるべき、大事なことを忘れている気がした。


「ふぁああ……」

 今日も今日とて朝の道をゆく。

 学校に行くなんて普段は気が沈むが、今日はなんだかそれさえも安堵を覚える。

 まるで大切な日常が戻ってきたかのような。

 ……そんなにヤバイ悪夢を見たのだろうか?記憶を辿るも、思い出せるのは落下感と恐怖だけだった。

「ん……?」

 何やらすぐ前を歩く男の様子がおかしい。きょろきょろと妙に周りを気にしている。何やらやましいことがあるかのような。

 むくむく、と頭をもたげた好奇心が、厄介ごとには関わるな、という警戒心を押しのける。俺はこの男を尾行することにした。

 尾行はさして難しくはなかった。男は直ぐに路地裏へと入っていく。

 朝の路地裏は人の気配がない。男は立ち止まるともう一度きょろきょろと辺りを見渡し、バックから銀色の水筒を取り出した。何をするのだろう、という疑問が浮かぶより先に男は中身の水を地面にぶちまけた。

 うわぁ勿体ない、と思いながら見つめていると。

 男はさらにもう一度周囲をなめるように見渡した後、自分の作り出した水たまりに脚から入っていく。

 そしてそのまま男の体は、水たまりにのまれる様にゆっくりと沈んで行った。

 頭の中で警告音が鳴り響く。今見たことは忘れて、今すぐ日常に戻れ。誰かの声でわめき散らす。しかし、底なしの好奇心が再びの葛藤を制した。

 俺は物陰から離れ、ゆっくりと水たまりに近づいていく。今あそこから男が顔を出したら、間違いなく漏らす自信がある。

 揺れる水面をそっとのぞき込む。水面は俺の顔、建物、空、太陽を映して輝いている。深さは1センチもない。

 人差し指をそっと入れてみる。爪。第一関節。第二関節。そして指の根本。俺は思わず手を引っ込める。指に水滴はついていなかった。

 これは、これは、これは……。


 気が付くと俺は教室の机についていた。好奇心は背筋を駆け上った嫌な予感に屈服した。

 教室の喧騒と遠くのベルを聞きながら俺は、この記憶もいつか笑い話として語れるのだろうか、と不意に考えた。今はそれが出来ないという確信があった。

 誰かに感謝するべきな気がする。

 しかしそれが誰なのかは、結局思い出せなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ウラ —高波晴朗 筑駒文藝部 @tk_bungei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る