#16 歌とトトロ

 へっ、と花音は体を硬直させる。 口に付ける直前だったほうじ茶入りマグカップを落としそうになって、慌てて持ち直す。


「愛梨、まだなんかしてくるの?」

「い、いやぁ?そんなこと」

「嘘だね。なんかされてるでしょ」

「……う」

  

 何も言えなくなり、花音はスッと目を逸らす。親友の目は誤魔化せまへんで?と風歌は悪戯っぽく笑う。でも、すぐに口角を下げた。

 

「……本当、大丈夫なの?愛梨たち、いつもなんかしてくるの?」

「え、いや、た、たまに?」


 へへっ、花音は無理やり口角を上げる。心配そうな親友の視線を誤魔化すよう、大げさに首を傾げて笑う。


 六月のあの日、初めて愛梨に面と向かって言い返してから、それまで花音の心身を完全に支配していた彼女の影は、以前と比べ物にならないくらい薄くなった。


 愛梨の存在を気にすることなく学校生活を送れるようになって、教室にいる時間も大方マシにはなってきている。


 しかしそれが気に食わなかったのか、以前にも増して愛梨の嫌がらせは酷くなった。


 大体誰かと一緒に行動するようになったので、何かされる頻度自体は減ったのだが、たまに人気が少ない場所で一人で歩いていると、後ろから教科書で叩かれたり。階段を降りていて、半分を通過したときを狙って、後ろから突き飛ばされたり。


「もう横センに言えば?小六のときの事なかれクソ担任とは違うし、ちゃんと対応してくれると思うよ?」

「えぇ!いいよそんなの。ほんとうにたまにの事だし、もうあんまり気にしてないし」


 嫌がらせの内容は以前よりも過激なものへと変わっているが、今は花音もある程度は抵抗できる。愛梨の言いなりで、彼女の暴言一つ一つを真に受けていた頃とは違う。


 担任兼、副顧問の横山は、温厚な性格かつ非常に生徒思いの人物だ。彼ならきっと、花音が助けを求めたら、すぐにでも行動してくれる。そうすれば、嫌がらせも収まるかもしれない。


 しかし、花音自身がそこまでの緊急性を求めているわけではないし、何よりも彼の負担をこれ以上増やしたくない。


 入学したばかりの頃、クラスで友人もおらずいつもうつむいてばかりだった花音を、横山はずっと心配してくれていたのだ。何か困ってることない?と密かに声をかけてくれたこともあった。


 部活に入って、友達もできて、毎日が楽しくて。笑顔で過ごせるようになった花音を、横山は喜んでくれた。


 横山が、花音の事情をすべて正確に把握しているのかは、花音には分からない。小学校時代からずっといじめられていること。もしかしたら、小学校の先生から何かしら聞いているのかもしれない。


 けれど、仮にもし知られていたとしても、花音からは何も言わないつもりだ。ただでさえ中学教師は自分の時間もろくに取れないほど多忙なのに、緊急でもない花音自身の事情で、負担を増やしたくない。


「ほんとに?」

「本当だよ!それに、今は……」


 ガラガラ!と、頭上から引き戸が開く音がした。うわぁっ!と驚いて花音と風歌がほぼ同時に見上げると、そこには「げっ」と嫌そうに顔をしかめている響介の姿があった。


「お前らまた来たの?」

「何もう、びっくりさせないでよ!」 

「いやここ俺の家だから」


 よっこらせ、と花音の隣に座る。響介は少し皺の寄っているスポーツウェアに着替えていた。


「あ、篠宮。なんか、ばあちゃんが買い物から帰ったら渡したいものがあるって言ってたぞ」

「えっ、何?」

「ピアノの親睦会で演奏する曲の楽譜」

「ん?北上、何それ?」

「聞いてねぇの?篠宮は今年の親睦会でオープニング出演するんだよ。ホルンで」

「うえ゛っ?!」


 途端、お茶を飲んでいた風歌がむせ返る。ゲホゲホと勢いよく咳き込み出したので、花音は慌ててテッシュを差し出す。


「ちょっと、ふー、そんな話聞いてないんだけど?!」

「いや、まだ何ヶ月も先の話で……」

「そんなの関係ないよ!花音が吹くんでしょ?」

「……うん…」


 口をティッシュで拭きながら、風歌は花音に詰め寄る。ゆっくりと、花音は首を縦に振る。なんだか急に恥ずかしくなってきて、再びうつむいた。


 キタガミ楽器店では毎週決まった時間に、おばあちゃんによるピアノ教室が開かれている。


 とはいえ、プロのピアニストや音楽家を育てるとか、そんな固い感じではなく、格安の費用で子供たちに音楽の楽しさを知ってほしいという、あくまでおばあちゃんの趣味でやっている教室だ。


 花音も小さい頃からそこの教室に通い、キタガミおばあちゃんにピアノを教わってきた。とはいえ全員で二十人いかないくらいの人数で、大手の教室のような華やかな発表会も行わない。


 その代わり、毎年三月に幼児・小学生の生徒を対象とした、ちょっとした親睦の場を設けている。


 若の宮公民館を一日借りて、一人ずつ舞台で好きな曲を一曲弾いて、他の子たちはお菓子を食べながら鑑賞する。


 生徒同士の親睦の場にもなるし、普段の練習の成果を発揮できる場にもできて、結構保護者受けも良いらしい。


 中学生以上になると出演資格は無くなるが、何人かの特定の生徒をオープニング・エンディング出演者として呼び戻すこともある。


 その要員に、今年から中学生で、かつ小学校時代に出演者を経験している花音が選ばれたということだ。   


「じゃあ練習しなきゃだ……あ、ねぇ花音!せっかくだし、なんか吹いてよ!」

「えっ、今?!」

「ふー、花音のホルン聴きたいなー」

「……まぁ、いいけど」


 仕方ない、と言わんばかりに花音は重い腰を上げる。本当は基礎練の方をしっかりやりたかったんだけどなぁ。と心の中でブツブツ言いながら、楽器庫に楽器を取りに行く。


 ユーフォニアムになり、ホルンの練習ができる機会が減ったため、花音は吹雪に許可を取って学校のホルンをキタガミ楽器店に持って帰り、毎日部活後に追加で練習するようになった。

  

 アンコン時期が終わると、おそらく花音はまたホルンに戻ることになる。そのとき、ユーフォニアムのものとは比べものにならないほどの小さなマウスピースを鳴らせなかったら、ショックだろうから。

 

 楽器を脇に挟んで片手で譜面台を持った花音が戻ると、お、待ってました!と風歌が目を輝かせて待っていた。今は、ちゃんと足を曲げて座っている。その横では、響介が肘をついて寝転がって花音を見上げている。

 

 完全な独奏、ソロ状態だが、まぁ観客はよく知っている幼馴染二人だけ。何も緊張することはない。


 舞香に教えてもらったみたいに、ぐるぐると肩を回し、ふぅ、と息を吐く。体の力が完全に抜けると、花音は楽器を構え、息を吸う。


 ————誰かが こっそり

 小道に 木の実 うずめて———


 あ、トトロだ!風歌の無邪気な声が聞こえた。花音はそれに答えることなく、歌う。楽器で、ホルンで、歌う。


 公民館祭りに向けての合奏中、他のパートのメロディーを聴いて覚え、家に帰ってピアノで音を確かめながら楽譜に書き起こしたのだ。


 演奏聴いて音当ててすぐ実演、は流石にできないものの、音を確認できる機械があれば、花音も一応「耳コピ」に近いことができる。


 ホルンのソロ譜はあまり種類もないし、何より市販のものはお金もかかる。だから、花音の部屋にはそうやって作った手書き楽譜が何十枚もある。


 始めたばかり頃は、曲の音一つ一つを確認するのも、紙に書き起こすのも膨大な時間がかかっていたが、最近では一発で当てられて音符を書くスピードも上がってきた。


 普段の練習では滅多に吹けない主旋律。いつもの対旋律もちょっとつまらない裏拍も、他のパートと合われば楽しいしやり甲斐も充分ある。


 でも、やっぱり「歌」の部分を演奏するのは、なんだかんだで好きだ。だって、ちゃんと「歌ってる」って感覚があるから!


 里律と喧嘩した日、合奏で聴いた有愛のトトロは、本当に柔らかで美しい音色だった。


 でも、わたしはどうなのだろう。楽器に息を入れながら、ふと花音はそんなことを考えた。


 大きくて、ふわふわもふもふのあの生き物を、わたしはちゃんと音色で再現できているのだろうか。


 響介と風歌の瞳には、トトロは映っているのだろうか。楽譜から目を逸らし、花音は二人の目をじっと見る。


 風歌は相変わらずキラキラした目で、時折感激したように頷いている。響介はいつもと変わらない———どころか、眠気眼で花音の演奏を聴いている。


 今は、まだ現れていないかもしれない。もしかしたら、小トトロくらいなら来てくれるかもしれない。けど、まだ、あの緑の森の中に隠れたままかもしれない。


 けど、いつか現れたらいいな。いつかわたしの音色で、トトロみたいに優しい気持ちになってくれる人が、少しでも居てくれたらいいな。


 花音の歌うトトロは、年季の入った木造住宅に、充分すぎるほど響いていた。






(舞香による講座の回はこちら)

https://kakuyomu.jp/works/16817330663459841986/episodes/16818023212212825389


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