#15 先輩の異変

 そのとき、音楽室のど真ん中で向かい合う二人に、ひとつの人影がゆっくりと近付く。


 恐る恐るといった具合の足どりで、その表情はいつもの如く、肉食動物を前にした小動物のように怯えていた。


 えっ?と花音は少し驚く。あの二人の喧嘩を仲裁しようとしているのだろう。しかし、部内有数の臆病気質を持つ彼女が———初音が、そんなこと出来るのだろうか。


 初音は二人の至近距離まで完全に近づくと、心を落ち着かせるかのように、深く息を吸った。


「あの……」

「大体、精華学園から来た君なら、この部の意識の低さくらい分かっているだろう?」


 しかし奏多は初音の方には見向き一つもせず、ただ前だけ見て抗議を続ける。この言い争いを終わらせる気は更々なさそうだ。


「初音……」


 突然真横から声がして、花音はビクリと肩を揺らす。首を動かすと、いつの間にやら駆けつけていた美鈴の姿があった。


「先輩も一緒に行ってあげたほうが……」

「自分も本当はそうしたいんだけど、初音が『部長なんだから一人で頑張ってみる』って……」


 一人で立ち向かっている友人の背中を、美鈴は不安気な表情で見つめていた。


 初音は銀小出身で、美鈴とは小学校時代からの仲だそう。初音は小学生時代から今と全く変わらず、事ある度に美鈴が色々サポートをしてきたのだとか。


 本人の意志を尊重して見守る体勢を取っているとはいえ、美鈴も内心では落ち着いていられないのだろう。


 あんなに小さくてひ弱な少女でも、若の宮中学校吹奏楽部の部長だ。その役職を持つ以上、争いごとが起こったのなら部員同士の間に立ち、解決への糸口を開かなければならない。


 だが、ああやって見ると、やっぱり初音はその役割にはかなり不相応な気がする。力不足なのは明らかだ。


 でも、震える体を必死に奮い立たせ、無視をされてもなんとか声を上げようとしている彼女の姿を見て、花音はぐっと目力が入る。自然と応援の気持ちが沸き上がってくる。


 頑張れ、負けるな先輩!花音には何も手出しはできないので、固唾を呑んで初音の動向を見守ることにした。


「なのに、どうしてやる気のない奴らを庇うんだ?君には実力もあるのに、どうしてそんな勿体ないこと……」

「渡部くんやめてよ!!」


 声だけじゃ太刀打ちできないと判断したのか、それとも咄嗟にとった行動なのか、初音は奏多の腕にしがみついた。


 うわっ、と奏多が顔を引き攣らせる。その時点で言い争いは一時中断されたにも関わらず、初音は顔を真っ赤にさせながら、奏多を後ろに引っ張ろうとする。


「何すんだよ、やめ……」


 奏多がそう言っても、初音は彼から離れようとしなかった。有愛が呆気にとられた顔で二人を見ている。ゔゔゔゔ!と言葉にならない声で喚きながら、必死に有愛から遠ざけようとしていた。


「っ、関係ないだろ、邪魔すんなよ!」

 

 ドンッ!と重たい打撃音が響いた。キャッ!という悲鳴と同時に、初音は軽く三メートルは離れた場所に転がった。


「せんぱ…」


 部員みんなが息を呑む。奏多が初音を乱暴に振り払ったのだ。かなり力を込めたのか、小柄な体型の初音は否応なく吹っ飛んだ。

 

「初音!」


 瞬きするほどの速さで、美鈴が音楽室の中に飛び込む。切迫とした顔で、床に倒れ込んでいる初音の元へ駆けつける。


 ハァハァ、と奏多は顔を赤くさせながら肩で息をしていたが、みるみるうちにその表情が青ざめていく。


「っ……ん゛っ…」


 初音は起き上がらなかった。地べたに這いつくばったまま動かない。肩や背中の辺りが微かに波打ち、苦しそうに歯を食いしばっている。


 しきりに口を開けたり閉じたりを繰り返しているが、まともな声を出せていない。


 もしかして捻挫?!と花音は一瞬よぎったが、それだと足の辺りを押さえているはずだ。それに、遠くから見た限りでは目立った外傷もなさそうなのだ。


「無理して立とうとしたら駄目だよ。じっとしてたら、きっとそのうちから……」


 まるで幼児に言い聞かせるような口調で、美鈴は初音の背中をさする。


「みんな?」


 そのときだ。後方の方から、少し低めな落ち着いた声がした。その聞き慣れた声に、その場にいる誰しもが勢いよく振り返る。


「先生……」

「どうしたのよ、何の騒ぎ?」


 吹雪は眉をひそめて、音楽室の前に謎に溜まっている一年生たちを見渡す。脇腹に挟むようにして抱えているのは、数週間後の若の宮公民館祭りの進行プログラムだった。


「中で先輩たちが、結構不穏な雰囲気で色々と話し合われていて、練習できる感じじゃないんです」


 夏琴がそう言って音楽室を手で指し示す。こんなときでも、冷静に手早く丁寧に状態説明ができる夏琴は流石だ。


 音楽室に吹雪が入っていき、追いかけるように花音が中を覗くと、上半身だけ起こした初音が立ち上がろうとしていた。



【♪♪♪】


「はぁ?!何その先輩、ムカつく!」


 ガバッ、と縁側に寝転がっていた幼馴染———西江風歌にしえふうかが飛び起きる。わぁ、なんだか絵に描いたような新鮮な反応だなぁ。と花音は謎にほのぼのした。


「つまり、後輩いじめて部活来れなくして、それ注意した転校生に対して『お前後から来た部外者だから口出すな』って言ったってことでしょ?」

「……うん、まぁ、そうね…その通り」


 花音はぎこちない動きで首を縦に振る。なんかちょっと過剰表現になっている気はするが、まぁ大まかな流れとしてはそんな感じだ。


「うわ、最っ低だね。つか、まずそいつ男でしょ?女の子に対してそんな強く出んなし」


 心底嫌な顔をしながら、ワンサイドアップを留めてあるゴムの飾りをいじくり回す。プスチック製でできたピンクのハートの髪飾りは、風歌のライトブラウンの髪色とよく合っている。


「えー、にしても吹部にもそんなんあるんだねぇ。おとなしい子と優等生が集まった平和な部活ってイメージだったけど」

「いやごく一部の人を除いては本当にそうなんだよ?『みんなが仲の良い、明るく楽しい音楽室』だもん」


 よっこらしょ、と花音は腰を上げてスカートを伸ばし、縁側に座り直す。何それ?とあぐらをかいている風歌が首を傾げる。


「うちの吹部のモットーだよ。部活のとき、先輩が張ってるの」


 去年の冬頃、部員が半分近く退部して顧問の先生もいなくなったとき、残った先輩たちで考え直した、いわば部活方針みたいなものだ。


 今ではその方針が書いてある特大サイズの模造紙を、部活が始まる前に先輩たちが日替わりで黒板に張っている。


「へー、そういう……空気?雰囲気?的なのって、意図して作れるもんなんだねぇ」

「まぁ、わたしたちは先輩の言うことに従うしかないしね。先輩がいい人で良かったよ」

「あーあ、うちのバレー部の部室にも貼ってくれないかなぁ」

「……なんかあったの?」


 花音が半笑いで尋ねると、常になんかあるよこっちは!と風歌はわざとらしくため息を吐く。


「まぁ、こっちも大概同じメンツだけどね。今日も愛梨たちが練習しなかったせいでミーティング長引いたし」


 その名を聞いた瞬間、ドキッ!と花音の心臓は嫌な音で跳ねた。癖なのか、山下愛梨の名を聞くといつもこうなる。

  

 風歌と愛梨は同じバレー部、いわば部活仲間だ。だから、時々風歌の口から愛梨についての話が出てくることも多く、花音はその度に血の気が失せている。


「あの子たち、ずっと部活中も練習しないで喋ってばっかりでさぁ。他のみんなは真面目にやっているのに、そのせいで先生に怒られて、先輩からは『一年生のせいで怒られた』って睨まれるし」

「……」

「どうせ、運動部に入ってる子はカースト高いとか、そんな理由で入部したんだよ。本当、こっちからしたらいい迷惑なんだよね。先輩も困ってるし、やる気ないんだったら辞めればいいのに」


 はぁー、と風歌は大きなため息を吐き、足をブラブラさせる。じっとしているのが苦手な風歌は、頻繁に姿勢を変えないと気が済まないらしい。


「あ、てか思い出したけど、花音、最近どうなの?愛梨たちと」

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