#09 ピッチ

【10月30日】


「……低いねぇ!」  


 学校から貸し出しているチューナーを片手に、美鈴はため息をつく。デジタル画面に映し出されている針子が、左に大きく傾いて、ゆらゆら揺れている。赤色のランプがチカチカ光っている。


「もっかいやって」


 美鈴がそう言うと、祐揮は再び息を入れる。チューニングB♭を鳴らし……ているはずなのだか。どちらかといえば半音低い、Aの音に近い気がする。


 ブボオオオオオと、やっぱり砂嵐みたいな音が、音楽室を響かせ……いや、濁らせる。

 

 美鈴はより一層眉間の皺を深くし、困ったなぁ、と笑う。周りにいる一年生も、困ったようにお互いの顔を見合わせる。

  

 祐揮の吹くトロンボーンのピッチが死ぬほど低かったことが判明して以降、そのことが金管パートの大きな悩みである。


「いや、合奏してるときからたまに思ってたんよ。なんか変な音聴こえるなーって。気づいてた?」

「なんとなくなら……私、大瀬くんの隣なので」


 美鈴が後輩に話を振ると、舞香がどこか遠慮がちに手を上げる。トランペット1stの舞香とトロンボーン1stの祐揮は、合奏隊形だと隣同士になる。合奏中、どれだけ室内が爆音でごった返していても、真隣の音はやっぱり一番よく聴こえるものなのだ。


「気づいてたなら言ってよ」

「すみません、自分の耳に自信なくて……」

「いやトップトランペッターの言うことならみんな信じるから!」

「でも……」


 舞香は自信なさげに俯く。吹奏楽経験者ではなくても、『トップトランペッター』と聞けば、だいたい明朗快活な自信家を想像しそうなものだが、我が校のトップトランペッターはそれとは真逆をいく人物だ。


 けど、そんな恥ずかしがり屋の少女が鳴らすトランペットは、まるで眩しいほど光輝く太陽を連想させるような―――明るく、華やかな音だ。そのギャップのありように、誰もが目を疑うことだろう。


「うーん、楽器が壊れてる、とかじゃなさそうだし……あれかな、スライドが正しい位置に来てないとか?」

「でもこの音、B♭なので……」


 舞香がスライドを指さす。トロンボーンは他の金管楽器のようにピストンがなく、スライドを細かく調節して音を合わせる。


 そのため初心者だと、ちゃんと正確な位置にスライドを合わせられず、音程がズレてしまうこともあるらしい。しかし、祐揮が今鳴らしているのはB♭の音。B♭とFの音は『開放』といってスライドを動かす必要がないのだ。


 つまり、祐揮スライド調節の不手際で音が汚くなっている訳ではない。何か他の理由があるのだ。


「ああそっか、じゃあ関係ないか。えー、どうしよう。あの坂の向こう、トロンボーンめちゃくちゃ目立つ……」


 美鈴が眉間に皺を寄せつつ、『あの坂の向こう』の総譜を開く。


「ホルンとユニゾンのところは、まだなんとかカバーできるけども……」

「トロンボーンだけのとこも多いし、こことか……あとここ、ここも……」

 

 舞香も五線譜を指さしながら、大きく唸る。


「ソロだとピッチ悪いのも隠しようが無いし、どうすれば……」

「うーん、まぁまずは練習して、少しずつ正確な音を合わせていくしかないと思うから、とりあえず大瀬くんはロングトーンとかの基礎練メインにして……」


 美鈴や舞香の顔は苦かったが、花音はあまりこの状況を悲観的には捉えていなかった。確かに祐揮のピッチは死ぬほど悪いが、とはいえまだ楽器歴半年も経っていない初心者だし、ちゃんと練習すれば何とかなるだろう。それにほら、頼れる先輩が付きっきりで…


「あ、そうそう。みんなに言っておかなきゃいけないことがあるんだけど」


 スッ、と美鈴が手を挙げる。初めて彼女の手を間近で見て、花音は驚いた。


 あかぎれだらけで肌触りの悪そうな、女子中学生とは思えないほど荒れた指先。介護職で毎日高齢者の世話をして、家に帰ってからは家族のために家事をしている、花音の母親の手とそっくりだ。


 花音はこっそりと、彼女の手と自分の手を見比べる。伸ばした自分の指先は、初めて綺麗に見えた。


「自分、これからあんまり部活来れないんだよね」


 え? と、その場にいた全員の顔が固まった。


「……来れないっていうのは?」

「その……」


 美鈴は少しの間、恥ずかしそうに体をもじもじさせる。


「この度、生徒会選挙に立候補しまして」


 一瞬の沈黙。次にみんながとった反応は千差万別だった。「えぇ?!」と声をあげて仰天する者。声はあまり出さず目だけ見張り驚く者。特に何の反応も寄越さない者。


「えー!? 生徒会!?」

「いや違うの! ほんとはそんな興味なかった! けど、学年主任の先生に『やるよね?』ってめっちゃ圧かけられて、咄嗟に『はい』って返事したらこんなことに……」


 やなこった、と美鈴は困ったように笑う。いわゆる推薦ってやつか。花音には到底縁もなさそうな話だ。そんなはずはないのに、花音は先輩の顔が先程までと比べて遠く感じた。


「もしかして、美鈴先輩が部長にならなかったのって……」


 舞香が目を大きく見開いて手を叩く。その瞬間、周りの一年生が「あぁ〜!」と声を上げた。その声があまりに揃っていたものだから、美鈴が勢いよく吹き出した。


「おかしいなって思ってたんですよ。てっきり美鈴先輩が部長になるのものなのかと……」

「それな、私もそう思ってた!」

「先輩が一番向いてそうじゃないすか」

「わたしも……」


 揃いも揃って頷くみんなに合わせ、花音も同意する。確かに、花音も初めはそう思っていた。


 新体制になる前から、美鈴は持ち前のリーダーシップや面倒見の良さを活かし、既に部内でも目立つ存在だった。彼女が部長として皆の前に立っている姿は容易に想像ができる。


 逆に、彼女以外の二年生がそこに上手く当てはまることはなかった。なお、花音が考える一番当てはまらない人物は、実際に選ばれた新部長だったが。

 

「ありがとね。まぁそれはともかく、確かに生徒会入ってる人は部長から外すっていう決まりはあるよ。ただでさえ忙しいのに、部活でも役職あったら可哀想じゃん? 沙楽先輩だって最初は副部長じゃなかったけど、元々の副部長が辞めたから代わりに」

「え、初耳!」

「じゃなきゃ、あんな素晴らしい御方が部長やってないのおかしいもん」


 途端に、美鈴の瞳がキラキラと輝く。沙楽の直属の後輩である莉音もそうだか、美鈴も莉音に負けないレベルで沙楽のファンだ。


 こんなしっかり者の先輩を、ただの無邪気な可愛らしい一年生へと変貌させてしまうのだから、つくづく沙楽は恐ろしい人間だと、花音は臆している。


「だから、11月下旬の生徒会の選挙が終わるまでは色々やることあって放課後潰れるし、仮に選ばれたらこの先、来れなくなる日も増えるかも……」


 そういえば、沙楽もよく生徒会の会議やらなんやらで練習に来なかったり、遅れて来る日が多かった。今では当たり前のように毎日来て練習を仕切っている美鈴も、今後は……


 みんなは黙り込み、俯く。室内には不安の影が落ちた。ムードメーカー的な存在の夏琴でさえ、今は深刻そうに考え込んでいる。


 ちら、と花音は視線を下ろすと、祐揮は楽譜とにらめっこしながら、トロンボーンのスライドを動かしていた。ポジション確認、だっただろうか。


 いつも寝てばかりいる祐揮だが、流石に今は真剣な瞳で、目の前の音符と対峙している。……相変わらずポロシャツのボタンは全て外れ、寝癖は立っているが。

 

『あの坂の向こう』ではトロンボーンソロが多いということで、八分音符パラダイスの花音は、ソロをたくさん吹ける祐揮のことが羨ましいと思っていた。


 しかし現状の彼の技量では、それはプレッシャーや不安要素でしかないだろう。必死に音程を合わせようとしている祐揮を見ていると、目立てるのも楽しいだけじゃないのだと思い知った。

 

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