一年目 十一月

#10 初めての喧嘩①

【11月2日】


「じゃあ次、トトロ通します」

 

 吹雪の指示と共に、各所から楽譜ファイルを捲る音がした。待ってました! と花音は内心でグッとポーズを決める。


 花音は吹奏楽曲なら大体なんでも好きだが、やはりその中でも「好みの曲」とそうでない曲は存在する。


 十一月の第三週の日曜日、若の宮公民館で開催される地域恒例行事「若の宮公民館祭り」。若の宮中学校吹奏楽部は毎年のようにステージ部門での出演依頼を受けている。


 文化祭以降久々の本番が間近に迫った吹奏楽部は、さっそくこの日も合奏練習をしていた。


 今回演奏する曲の中で花音が一イチオシしているのは、かの有名なジブリ作品『となりのトトロ』の劇中で登場する曲を集めた『となりのトトロメドレー』だ。


 イチオシしている理由として、単純にジブリ曲特有の柔らかな雰囲気が好きなのと、珍しいことにホルンが目立つ編曲だからだ。特に曲と曲の間の、ホルンのみのワンブリッジがかっこいい。


 久々握るホルンを高々と構え、気合い万全・準備万端の花音だったが、合奏は初っ端から停滞した。


「最初のとこ、アルトだけで吹いて。二本とも」


 ちょうどホルンが目立つ箇所の直前で演奏は止められ、花音は名残惜しさを我慢しつつ楽器を膝の上に置く。吹雪の指揮棒が向けられたのはサックスパート。


 アルトサックスは目立つ楽器のため捕まりがちではあるが、この曲の最初の部分はフルートがメインメロディーで、アルトサックスはその掛け合い的な役割を担っているため、花音は珍しく感じた。


「一本ずつ頂戴。一番から」


 指揮棒のテンポに合わせ、1stの有愛アリアが吹き始める。感情が目一杯込められた、柔からくて優しい対旋律オブリガート


 なんだか、本当にトトロが目の前に現れたみたい。見上げるほど大きくてふわふわしたあの生き物に、ぎゅっとふんわり抱きしめられたみたいな――――そんな温かさと安心感が、花音の体中を包みこむ。


 強豪校出身なだけあって、有愛アリアの演奏はやっぱり他と比べて群を抜いている。彼女が吹くアルトサックスの情緒たっぷりな美しい音色に、花音はいつも聴き惚れてしまう。


 続いて、2ndの里律が吹き始める。音程も正確で、テンポも遅れていない。特に悪いところは見られない演奏。だが先程の有愛の演奏に比べると単調…というか、至ってシンプルな仕上がりだった。


 吹奏楽部に入って半年が経ち、花音はいわゆる『上手い人』とそうじゃない人の演奏の違いが分かるようになってきた。


 同じ楽器で同じ旋律、同じ音を吹いていても、面白いことに人によって全然違う。初めの頃は、同じ楽器なら誰がどう吹いても同じように聴こえていたのだが、やっぱり半年もこの世界にいるとそういう感覚が掴めるようになる。


「嶋田さんは今のままでいいけど、加藤さんはもうちょっと感情込めて吹いてほしいな。トトロは知ってるよね?あの可愛らしい世界観をイメージして」


 吹雪も全く同じことを感じていたようで、もう一回、と指揮棒を上げる。里津は特に表情を変えず、吹雪の指示にひたすら従っていた。


 その後も何度か同じフレーズを吹き続けたものの、結局、最後まで里津の演奏にトトロは現れることはなかった。



【♪♪♪】


「君、やる気ないの?」


 ビクリ、と花音の肩を震わせたのは、合奏終了後の片づけの時間だった。一瞬、自分に対して言われたのかと勢いよく振り返ったが、周囲には誰もいなかった。


 水道の蛇口をキュッと捻って水を止め、洗い立てで濡れたマウスピースをハンカチに包み、しんと静かな廊下をぐるりと見渡す。すぐ目の前、三年三組の教室から、どことなく不穏な空気が漂っていた。


 三年三組はサックスパートの練習場所だ。今日の合奏での出来事を思い出し、嫌な予感がした。花音は恐る恐る忍び足で教室のドアに近づくと、小窓から教室内を覗く。


「今日の合奏も何あれ、ここに『amabileアマービレ』って書いてあるの見えない? 練習のときも同じこと言ったよね、聞いてなかったの?」


 楽譜ファイルを片手に厳しい口調で叱咤しているのは、例の副部長・奏多だった。開かれた楽譜はトトロで、「ここ」と指している箇所はおそらくだが合奏でアルトサックスが捕まった冒頭部分だ。楽譜を乱暴に突き出された里津が、力なく俯いていた。


「加藤さんの演奏は音楽じゃない。一年だからって、ただ吹くだけでいいと思ってるの?」

「……」

「思ってるの!?」


 黙りこくったまま反応を示さない里津に、奏多が激しく詰め寄る。強く指を差しすぎたせいで、ファイルの透明のポケットに皺が寄っている。


「思ってないです」

「思ってるようにしか見えないんだよ。普段から返事も挨拶の声も小さいし、そんなんじゃいつまで経っても上達しないよ」


 すみません。と謝罪する声はいつものように平坦だったが、その中に微かな震えが含まれていたのを花音は聴き逃さなかった。

  

 奏多はファイルを里津に突き返すと、バリトンサックスのケースを持って教室の扉に手をかけた。そのとき、ちょうど教室のすぐ外にいた花音と鉢合った。


 奏多は睨めつけるように花音を見下ろす。奏多は元々高身長な上に目つきが悪いため、普段から目が合うと何とも言えぬ威圧を感じてしまう。


 勝手に盗み聞きしていたことを咎められるのかと思い、ごくりと固唾を呑んだが、奏多は花音には何も言わなかった。


 片付けが早く終わったパートは他のパートの教室の片付けを手伝うことになっているため、花音をその要員だと思ったのかもしれない。当の花音はまだ自分の楽器さえ片付けていないが。


 奏多が去り、その場は一気に静まった。教室のど真ん中で突っ立ったまま微動だにしない里律の元へ、花音はそっと近寄る。


 里律は静かに入ってきた花音の姿に気がついたが、すぐにまた視線を下ろす。彼女の、顎のラインで均一に切られた髪の毛の先っぽが、痛々しく垂れ下がる。


「だ、大丈夫……?」


 大丈夫な訳が無いだろう。言ってから、花音はすぐに後悔した。けど他に掛ける言葉も見つからない。


 前から奏多との関係に悩んでいた里律は、練習中や後はどことなく暗い影が落ちていたものの、流石にここまで落ち込んでいる姿は初めてだ。


 どうしたらいいのか分からなくて、花音はただただ狼狽えるばかりだった。俯いたままの友人と視線を合わせようと、下から覗き込むようにして様子を伺っていると、


「うち……」


 俯いたまま、里律が呟く。彼女のこんなに弱々しい声を聞くのは初めてだ。これまでにないほど嫌な胸騒ぎがして、花音は息を呑む。


「うち、部活辞める」


 ウチ、ブカツヤメル。大して難しい言葉ではないはずなのに、まるで外国の初めて聞く言語みたいに、頭の中ですぐには変換できなかった。

 

「……え?なん…」


 なんで?と聞こうとして、花音は慌てて言葉を呑み込む。理由なんて明確すぎる。聞かなくても分かること。けど、それでも受け止められなかった。いや、のだ。


「や、やっぱりさ、先生に言おうよ。先輩の指導が辛いんですって」

「言いたくないって前にも言った」

「でも、辞めるだなんて、そんな」


 針を止めていたネジが壊れて、突然208のテンポで動き始めたメトロノームのように、焦った花音の口からは次々と言葉が飛び出す。


「ほら、あの先輩だって里律ちゃんのためを思って言ってるだけかもしれないじゃん!まぁ、確かに言い方は怖いけどさ、根は悪い先輩じゃないと思うし。里律ちゃんも、もうちょっとタッキー先輩と打ち解け合おうとするとかさ」


 何か言わなきゃ。とにかく引き止めなきゃ。その衝動に駆られるあまり、花音は思いつくだけの言葉を必死に並べ立てた。


 だから、放った言葉の意味までちゃんと考えていなかった。


「それに、嫌なことは嫌だってちゃんと言ったほうがいいと思うよ!何も言わずに我慢したまま諦めちゃうなんて、勿体ないよ。せっかくここまで頑張っきたんだからさ、これからも頑張ろうよ。里律ちゃんが吹部から居なくなるなんて、わたし嫌だ……」

「だからそういうの辞めてって言ってんじゃん!」


 突然、里律が大声で叫んだ。花音はビクリと肩をすくめる。里律はようやく顔を上げ、目の前で言葉を失っている花音を鋭く睨みつけ、


「さっきからしつこいんだって。うちが部活辞めたから何?別に花音には関係ないでしょ」

 

 完全に怒りの表情一色になった里律に激しく詰め寄られ、花音は思わず後ずさる。


 今、目の前でこちらに激しい敵意を向けているのは、いじめてくる山下やました愛梨あいりでもその取り巻きでもない。数時間前まで仲睦まじく話していたクラスメイト。ついさっきまで音を合わせた音楽仲間。れっきとした、友達。 


 その事実が、花音には信じられなかった。目を見開いたまま、ただただ呆然としていた。


「花音に何が分かるの?先輩に怒られたこともないくせに。いいよねそっちは、みんな仲良しでさ」


 数秒の間の後、里律は再び視線を下ろす。花音はハッとした。吐き捨てられた冷ややかな言葉が、声が、震えていた。固く握りしめられた手も、怒りのまま上がっている肩も。今度は微動というレベルではなくて、はっきりと。


「うちの気持ちなんて、分かるわけ……」

  

 里律は泣いていた。肩をすくめて、両手で目元を覆いながら、涙を見せないように。でも、その姿から漏れる痛々しい嗚咽は、はっきりと花音の耳まで届いていた。


 花音は一歩、友人に近づく。臆病に震える手を恐る恐る伸ばしたが、放っといて!と里律はその手を振り払った。


 そのまま花音から背を向けると、顔を手で隠したまま、走って教室から去っていった。


 その足音が遠くなり、やがて消えた。再びその場には静寂が訪れる。


 ピカッ、と金色に光った何か。花音はゆっくりと視線を下ろす。椅子の上で、片付けられていないアルトサックスが密かに佇んでいた。


 友人に向けた手は、宙ぶらりんのまま。ひとり取り残された少女は、ずっとその金色の光を見ていた。





【使用曲参考URL】


となりのトトロメドレー(WindsScore)→https://youtu.be/xHkqtnkDANc?si=C2DzApGr0BNLN8xK

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎週 木曜日 02:00 予定は変更される可能性があります

あの音が響く先で 第二曲 秋葵猫丸 @nekomaru1115

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ