#08 犯人は…
針子が一定のテンポを刻む中、重厚感のある低音が鳴り響く。
チューバだった。いつも通りの真っ直ぐな音。『初心者の割にピッチ良い』で好評の響介が犯人の可能性は低いと予想していたが、やっぱり正しかったようだ。
花音も深く息を吸う。続いて、ユーフォニアムの柔らかい音が重なる。緊張からの唇の震えで、出だしが少しブレてしまった。
ピッチを合わせることは、初心者の花音には難しいことだった。自分では合っているつもりでも、『合っていない』と指摘されることがある。チューナを見たら全く合っていなかったこともある。
鳴らしている音がちゃんと合っているのか、自分ではよく分からなくて、花音はいつも不安になる。
しかし怖がりながら吹くと、大抵失敗してしまう。そしてまた注意される。完全な悪循環、負のループだ。
だから今も落ち着かなかったが、美鈴が首を縦に振っているのを見るに、ある程度はちゃんと合わせられているようだった。
あー、良かった。と花音が一安心した、その瞬間。
突然、耳がうだるような…ものすごい異質な音が、すぐ左から聞こえてきた。
異質な音、というよりも、壊れたラジオから流れてくる、砂嵐みたいな雑音みたいな…はっきり言ってしまえば、汚い音。思わず、吹くのを止めて耳を塞ぎたくなった。
「はーい、もう吹かなくていいよ。犯人分かったから」
美鈴が手を叩き、音が止む。
美鈴は顔に浮かべた笑みこそ崩さないものの、蛇に睨まれた蛙…もとい、蛙を睨む蛇のように、絶対に逃してやらないという気概を持っているように見えた。
静まり返った空気に、花音は固唾を呑む。先程まで自分でなければそれで良いみたいな考えだったのに。どうしよう、この空気、非常に気まずい。
そろりそろりと、花音は視線を左に寄せる。美鈴は満面の笑みを崩さないまま、しかし容赦のない声で、
「犯人は君だったみたいだね!大瀬祐揮くん」
その場にいる全員からヘイトを向けられる中、当の祐揮は何のこっちゃ分からない―――といった様子で、いつもの如くきょとんとしていた。
彼の手に握られている金色のトロンボーンは、壊れたラジオみたいな汚音が出ていたとは思えないほどに、キラキラ煌めいていた。
【♪♪♪】
「ねぇ、聞いてる?」
「……えっ」
すぐ隣から聞こえてきた厳しい声に、花音はハッとする。
「ごめんごめん、聞いてる聞いてる」
不審そうに眉をひそめる里律に、花音は誤魔化すように笑う。そうだ、今は下校中。それで、里律の話聞いてて…
「それで、タッキー先輩とまた何かあったの?」
「今日も楽器させてくれなかった」
里律は心底嫌そうに顔をしかめる。地面に転がっている石ころを、鬱憤を晴らすがごとく蹴り飛ばした。
「え、一時間半ずっと呼吸練習だけ?」
「一時間はずっとそうだった。で、あの人がずっと真横に立って、『それ違う』とかダメ出ししてくる」
花音は思わず引き笑いを浮かべる。地獄みたいな練習だな。呼吸練だけならまだしも、先輩からのダメ出し付きはキツイって…
「じゃあ残りの三十分は?」
「マウスピースとネック。テナーになったばっかだし」
里律はコンクールシーズンまではアルトサックスを担当していたが、二学期から敏腕奏者の転校生・
「
「始めてる。まだ譜読みの段階だけど。でもあの人が『今日は加藤さんに基礎を教えないとだから、他の人達だけでやって』とか言い出して」
「うわぁ…」
里律には直属の先輩が二人いるものの、どうも二年生の…例の新副部長とは、入部当初から折り合いが悪いそう。
というのも、奏多は『歩く楽器百科事典』と呼ばれるだけあって、かなり練習熱心なのだ。他の部員が休憩している間にも無心で練習し続け、口を開けば楽器について、音楽についての熱弁が始まる。まさに音楽を愛し、音楽に愛されているような人物だ。
それは他パートである花音から見ても明らかなのだが、どうも里律の話を聞く限りだと、パート練なんかの個人的空間ではその熱意が些か厄介な方向へ行くらしい。
「他のみんなは楽器やってんのにさ、うちだけ息スーハーしてるばっかり。真田先輩だったらこんなこと無かったのに」
「部長は普通に楽器させてくれたんだっけ?」
「うん。それに、よく褒めてくれたし。ダメ出しされてもキツイ言い方じゃなかった」
「部長は褒め上手って感じだよね」
「あの先輩が二年だったら良かったのに」
ずっと前だけ見て歩いていた里律が、ちらりと花音の顔を見る。少し不満げに唇を尖らせ、
「いいよねー、
んー。里律から送られる羨望の目に、花音は苦笑いを浮かべる。花音から見た美鈴は、勿論いい人ではあるが、優しいのかと問われると微妙なラインだ。まぁ、少なくとも口うるさい感じは無いが。
「真田先輩が引退してから余計酷くなった。明日も絶対またなんか言われる」
「うーん」
出来の悪い生徒だけ別の練習をさせたり、先輩が付きっきりで教えたりするということならありそうだが、里律はその『出来の悪い生徒』には該当しないだろう。合奏でもあまり注意されない方だし。
多分、『直属の後輩』という立場の宿命なのだ。先輩は後輩を選べるかもしれないが、後輩は先輩を選べない。花音は実際にその現場を見たわけでは無いのでなんとも言えないが、内心では里律に同情していた。
「一回、先生とかに相談してみたら?川本先生ならちゃんと聞いてくれるよ」
「やだよ」
「じゃあ、美鈴先輩からタッキー先輩に注意して貰うよう、わたしから頼んでみようか?美鈴先輩、気は強いから…」
「やだよ!勝手にそんなことしたら怒るから」
じゃあどうしろって言うねん!花音はやけになってそう叫びたくなったが、里津の気持ちも分かるような気がした。
自分の気持ちを誰かに伝えてみて、『それは違うんじゃない?』と否定されたり、過剰に心配をかけさせるかもしれないと思うと、怖くて怖くて堪らなくなるのだ。花音はかれこれ十年近くハブられているにも関わらず、両親にも教師にも相談したことがない。その理由がそれだ。
わたしが何を言ったとしても説得力無いだろうし、何か言う権利なんてないだろうな。そう思い、花音はあえて何も言わなかった。そんな花音の隣で、里津は大きなため息をつく。
「部活、行きたくない…」
ここ一か月ですっかり聞きなれた里津の口癖だ。この発言を聞くたび、花音はなんだか息がしずらくなる。
「そんなこと言わないでよ…」
本当に、そんなこと言わないで欲しかった。花音にとって部活は他の何よりも価値のある時間で、音楽室は仲間が待っている大切な居場所だ。
けど里津にとってはそうじゃない。里津は音楽室に『行きたくない』と言っている。それは、花音にとって目を背けたくなるような事実だった。
何も知らない外野から否定されたって、花音は気にしない。けど、その『仲間』の一員であり、尚且ついつも一緒に居る友人の口から聞くと、やっぱり心にくるものがある。
とはいえ、今落ち込むべきなのは花音ではないはず。だから『もうすぐ公民館祭りの曲練も始まるね!』と、友人の陰りのある表情を晴らすように笑って見せた。
これ以上、タッキー先輩が暴走しませんように。そう、密かに願いながら。
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