#05 葛藤
【10月15日】
「ねぇちょっと止めて!」
曲の通し中に突然、クラリネットの同級生・
若中吹部では、普段のパート練の他に『学年練』という、その名の通り同学年だけで行う練習がある。
一年生は、パート練だとどうしても上級生頼りになってしまう部分がある。しかし、それだと上級生が引退したときに困ってしまう。
なので、今のうちから一年生だけで練習を進めたり、お互いに意見を言い合ったりする力を身につけることを目的とした練習なのである。
年功序列の関係で二年生に音楽室を譲ったため、一年生は大抵、三階の階段下の広場を使い、楽器順(チューニングで吹く順)に円状になって練習している。
「ホルンさぁ、遅れてたでしょ」
ちょうど対角線上にいる花音に、莉音は訝しげな目を向ける。何のことだか分からなくて、花音は『え?』と首をひねる。
「多分、ここじゃないかな」
花音の隣にいるお下げ髪の少女、トランペットの同級生・
「……え、ここって…」
莉音が『遅れてる』と言った箇所は、旋律や和音がとても複雑に絡み合っており、元々合奏でも合いづらかったところだ。
今だって、遅れていたのは花音だけではなかったはずだ。ほぼ全員がインテンポに合わせられておらず、全体的にズレが目立つ仕上がりで、みんな苦い顔をして吹いていたはず…
「莉音ちゃん、ここなら私もズレたよ」
様子を見かねた夏琴が、花音を庇うように手を挙げる。
「いや、ホルンが一番遅れてたよ」
しかし莉音の非難は止まらない。花音は初めこそ狼狽えていたが、どこか気まずそうに眉を顰めるみんなの表情を見て、ようやく気付く。
これ、わざと?
「りお、ちゃんと聴いてたし!合ってなかったんだから素直に認めなよ」
多分、莉音は他のみんなもズレていたのは分かった上で、あえて花音にだけ言っているのだと、花音は察した。
しかし自分もズレていたのは確かなので、何も言えない。口を噤んだ花音に、莉音は小馬鹿にしたように鼻で笑い、
「下手に吹かれるとみんなが困るんだけど。てか、やる気だけはあるように見せてるけど、実際は大して練習してないんじゃないの?」
っ、と何か言おうとして、でも出そうとした声は喉の途中で絡まって上手く出てこなかった。喉の奥がきゅっとする。
いや、わたしが合わせられなかったのは事実だけど、流石にこれは言い過ぎじゃ…
顔を歪ませながら俯いた花音に、一瞬で不穏な空気が漂った。夏琴が心配そうに花音の横顔を見つつ、『まぁまぁ』と宥めるように笑い、
「確かに莉音ちゃんは意識高くて上手いし、私もすごいって思ってるよ。でも、花音だって練習してないわけじゃないから…」
「そんなこと言ったって、合ってないものは合ってないじゃん。実際、篠宮さんよく合奏止めてるし」
「私はそれで、花音のことを迷惑だって思ったことはない。私だってあんまり出来ないし」
やんわりとした言い方ながらも、はっきりと自分の意見を伝える夏琴に押されたのか、莉音の顔が少し引き攣る。
「で、でも…」
莉音がまた何か反論しようと口を開きかけた、そのとき。
――――カシャッ
突然聞こえてきた、明らかに場に合わない不自然な音に、みんなが一斉に目を丸くする。
「ちょっとびーちゃん、何してっ―――うわっ!ちょ、急に楽器渡してこないで!」
耳にキンと響く高い声―――明音の声がして、花音はフルートの方を向く。
「あっ森田さん、こっち向いたらダメ!はい、もう一回争って!」
莉音は完全に表情を固着させたまま、響希のデジタルカメラを呆然と眺めている。花音は目を疑った。……え、何してんの?
「あー、いいね!『腹黒な女王様キャラが、気弱いじめられっ子を理不尽に攻撃するシーン』。定番だけど、現実じゃ滅多に見れないからね」
「は?」
「やっぱこういうのが写真映えするんだよねー」
響希は目をキラキラと輝かせながら、再びカメラを構える。
邪気の一切ないその純粋な瞳に、莉音からピキッと血管が浮き出る音がした。周りのみんなは、揃いも揃ってポカンと口を開けている。
「ちょ、空気読みな―――」
「ほらほら、腹黒女の性悪っぷり、もっと見せてよ!うへへ、これは稀なシャッターチャンスだよ!」
明音の制止も虚しく、響希の暴走は止まらない。
えっ、これ大丈夫そ?花音は響希に絡まれている莉音に恐る恐る目線を寄せると、彼女は眉間に皺を寄せたまま俯き、怒りを堪えているように体を震わせていた。
『ほらほら~』と挑発しながら、響希は遠慮なくズリズリと莉音に近寄る。
「……だ、れ、が…」
プチン、と何かが切れるような音がした。
「誰が腹黒女だとゴラァァァ!そのカメラ寄こせやぁぁぁ!」
莉音は顔を真っ赤にして激昂し、響希のカメラに向かって手を伸ばす。ほら怒った…と、フルートを二本持ちさせられている明音がガクッと首を下げる。
しかし響希はそれをものともしない様子で、莉音の手を軽々しくかわす。
「やーだね、せっかく傑作が撮れたのに」
へへへっ、と響希は悪戯っぽく笑い、トカゲのような速さで逃げる。『待てやこのチビがぁぁぁ!』と、莉音も響希に続く。
そのまま廊下を何周か追いかけっこをしていたふたりは、やがてどこかへ消えていった。
険悪な雰囲気からの唐突のギャグシーン、あまりの落差に、残されたみんなの間には大爆笑が起きた。
『勘弁してよ、仲介するの私なんだから』と、明音がぐったりとした様子で二人を連れ戻しに追いかける。
「…やっぱり私、この部好きだなぁ。絶対、いじめとか起きないって確信できるし」
笑いすぎて目に浮かんだ涙を拭いながら、夏琴がそう零した。起きないというか、起こそうと思っても起こせないのだろうな。花音は苦笑しつつも、内心ではかなりほっとしていた。
【10月17日】
「で、あんたはいつまで迷っとん?」
美鈴の呆れたような声に、花音は苦く笑う。吹雪の『ホルンかユーフォ、どっちか選べ』宣告から、もう一週間近くが経っている。
「先生もこれ以上は待てんでしょ。え、花音はどうしたいん?周りのこととかは考えんでいいけんさ」
里津や夏琴にされるのは馴れても、美鈴に呼び捨てにされるのはやっぱり少し慣れなかった。
夏琴が花音を呼び捨てにしているのを見かねた美鈴が、『自分もそう呼んでいい?』と言ってこうなったのだが、美鈴が呼び捨てにしているのは後輩の中だと花音だけで、そこは少し疑問に感じていた。
けど、不思議と嫌な気はしていない。むしろ直属の後輩だからと特別扱いされている気がして、誇らしささえ感じていた。
「じゃあ率直に聞く、ホルンとユーフォ、どっち好き?」
「いや…正直、どっちでも良くて…」
「そこはお世辞でもホルンって言えよっ!」
美鈴が不満そうに唇を尖らせる。美鈴には大変申し訳ないのだが、本当に花音はどっちでも良かったのだ。
もしこれが仮にトランペットだったのなら、花音は二言目には『はいやります!いや!是非!やらせてください!』と食いついていただろう。
しかし実際には『ユーフォニアム』とかいう、部員の誰にも振り分けられずに余っていた謎の楽器。
詳しく調べたところ、ユーフォニアムはホルンと同じ中低音楽器に分類されるそう。もはや宿命と言うべきなのか、そこまで主旋律をバリバリ吹くわけでもなく、オブリガートや伴奏などの裏方がメイン。
その道を極めている奏者に聞かれたら抹殺されそうな話だが、花音からしてみれば『またか』という感情で、どうせそこまでホルンと変わらないのだろうな、と飽き飽きした気分だった。
だから正直、花音はホルンでもユーフォでもどっちでも良かった。いや、全くどうでも良いと思っている訳ではないのだか、そこに大きなこだわりは無かった。
花音が一番気がかりだったのは、人間関係面…もとい、チームのメンバーのことだった。
花音は、木管のメンバーが苦手だった。
いや、なにも木管のメンバー全員が苦手という訳ではない。もっと言えば、クラリネットの同級生に苦手意識を覚えていた。
もともとあの二人…莉音と紫音から、あまり好かれていないのは知っていた。だけどそれはあくまで『そんなに仲良くはない』程度で、特に明確な悪意を向けられていたわけではなかった。
それが酷くなったのは、夏休み明け頃から。花音が挨拶しても一切返さないし、花音が何か喋ったりすると、後ろからクスクスと嘲笑うような声が聞こえてくるのだ。
初めは気のせいかと思っていたが、何度も繰り返されるうちに嫌でも察してきた。できれば気のせいであってほしかったけれど。
おそらくだが原因は、夏のコンクールの舞台裏での、クラリネットの二つ上の先輩とのあのやりとりだと推測している。
元副部長・沙楽は、後輩たちから圧倒的な人気を誇る、マドンナ的な存在だ。当然、直属の後輩である二人も沙楽のことを心から慕っている。
だから、パートが違うにも関わらず、沙楽から気にかけられていた(ように見えた)花音を敵視した、と。
だが、花音から言わせてみればそれは誤解だった。
沙楽はできるだけ部員全員に平等に接するように心がけているのだと思う。舞台裏のあれだって、まぁ言われた時はひどく驚いたが、あとから冷静に思い返してみると、あれも単なる沙楽の『マドンナ』行為の一環だろう、と思い直した。
みんなを元気づけている最中に、たまたま花音が視界に入ったから、的な理由ではないだろうか。
しかし、それでもあの二人は気に食わなかった。花音の立場的な弱さを考慮してみると、全然ありえそうな話ではある。
特に沙楽のことを強く尊敬している上、負けず嫌いな性格の莉音はかなり露骨で、先日の学年練のようなことは、前から何度かあった。
吹雪からは『木管七重奏』としか聞いていないため具体的な編成は不明だが、クラリネットが入っている可能性は非常に高い。
二週間に一度あるかないかの学年練であの有様だ。しかも木管と打楽器オンリーなら、なにかと庇ってくれる夏琴もいないし、響希はまあ…ただ良さげな被写体を見つけて舞い上がっていただけだろう。その行為が結果的に花音を救うことになり、響希には感謝しているが。
とにかく、そんな状況の中であの二人と同じチームになってしまうことを考えると、心の底からゾッとするし、そこは出来るだけ避けたいところ。
しかし、それを理由にして『じゃあ金管のチームに行きます』というのも、なんか違うような気がするのだ。
なんだか嫌なことから逃げているみたいで、花音の性に合わない。そんな安易な動機で楽器を決めるなんて、金管のみんなにもユーフォにも失礼な話だろう。
だからといって木管に入っても空気悪くするだけだろうし、こんな風にうだうだと悩んで決めきれない自分に対しての嫌悪感もあって、花音は八方塞がりだった。
「うーん…」
手に腰を当て、美鈴は困ったように周りをぐるりと見渡す。すると突然『あ、』とハッとしたように目を見開いた。
「じゃあさ、一回やってみる?ユーフォ」
美鈴は親指で楽器棚を指す。その先には、長方形の楽器ケースが置いてあった。ホルンとは違い、角にあまり丸みを帯びていない、ほぼ四角形の。
「なんでいままで気づかんかったんじゃろ。吹いてみんと始まらんのに」
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