第7話 感情
もう1つを聞くきことがまだできていない、そうのように想思郎は考えていた。もう1つと言いながら、細かくいえば2つ。どうして気持ちを、地の底に突き落とすかのようなことを桜は言ってきたのか。そしてどうしてSNSの名前が異なっていて、同一人物だと気付けない状態だったのか。どちらかさえなければ、想思郎は当日約束を反故にすることはなかっただろう。起床した時点でもその時の負の感情は消えきっていなかったが、桜が話しかけてきたことで、やや薄れた。しかし、それに本人は気づいておらず、昨日持った感情を引きずり、想思郎は桜に対して疑心暗鬼になっていた。朝はああ言ったものの、その気持が膨れてくることで、はたして今もただ綺麗だからという理由だけではもう好きでいられるのだろうか。しばらく考える時間が必要だと感じていた。
一方で桜はその変化に気づいていたし、自身の感情の変化にも気づいていた。昨日の激しい感情は、普段の桜にはないものだった。その感情を引き出したのは、想思郎と彼を好いている自分の気持ち、そしてその想思郎に落胆させられた事柄。そのように就寝直前に導き出していた。その結果、今日は確実に話せるようにと早く家を出ていたし、昨日の感情を引きずることなくむしろそれ以上にやはり好きだという認識を強め、今朝も話しかけたのだった。
互いにそのような自分の気持ちについて考えていた昼休み、想思郎はメッセージを送った。
soushiro.fuji:ゆっくり話がしたいので、土曜までこの件については話をしないでおかないか?
「えっ!」
メッセージを見た桜は、一人で思わず声を上げてしまった。一部クラスメイトの視線がこちらを見るが、声の出元が桜だと判明すると、それぞれに戻っていった。
桜は、悲しいような助かったような気持ちになりつつ、もう一度メッセージを読んだ。先ほど確認した通りだった。
今朝の想思郎を考えると想像できない文面だった。
s.midou:それは、しばらくは一緒に下校しないということですか?
soushiro.fuji:下校はするし、会話も普通にするけど、今朝の件は話題に出さないでってこと。いい?
一番気になる点を質問し、返ってきた返答を見たことで、とりあえず一緒に帰れるなら良いかと思い、悲しくなった気持ちを持ち直して午後の授業に入ることができた。
二人はそれから三日ほど、勉強やテレビ番組に時事など、他愛のない会話ばかりを繰り返していた。そうはいっても会話は弾むことで、結局互いを意識し合う結果となっていた。
想思郎の中にあった桜に対する負の感情も、その数日でほぼ忘れてしまっていた。
そんな水曜日の夜。
「なぁ姉貴……聞きたいことあるんだけど……」
食事と風呂を終えた想思郎は、二階へ上がろうと階段半ばまで登っていた綾音を呼び止めた。
「なに?すぐ終わる話?」
「どう……かなあ……?」
曖昧な想思郎の返事を受け、ふぅんと相槌を入れてから綾音はリビングに戻り、椅子へ腰掛けた。
「姉貴ってさあ……、いやちょっと恥ずかしいな……」
「遠慮しないでいいって、なんでもこの姉がなんでも答えよう!」
そういうなら……と、改めて口を開く。
「姉貴って、恋、したことある……?」
「――――っ⁉️」
まさかの質問に綾音は、ゲホゲホと盛大にむせかえした。
「何、急に?」
「あー……、いやあ……。ちょっと聞いてみたいというか、確認したいというか……。恋するって、どういう状態を指すのか、具体的に知りたい……というか……。その…………」
終始ぼそぼそと発せられた言葉を聞いて、綾音はなるほどと思った。
「あんた、桜ちゃんに恋したの?」
「それが分かってれば、わざわざ聞いてないかなあ」
言いながら、大成功じゃんとか思ってた綾音の心のうちに対し、その返答はなんとも情けないものだった。
当の本人も、自分のこともわからないのかと思っていたが、初めてなのだからしかたない。
それを察した綾音は、かつての自分を思い出した。
「恋心なあ。実際、そんな気持ちになったのは1回なんだよねえ。あ、酒持ってきてくれる?大きい方のビール2缶でいいや」
何が「で」いいのか。それだけあれば充分ではないだろうか。
想思郎がそんな事を思いながら持ってきた缶を、ありがとうと受取り、綾音は続けた。
「あれは大学の頃の話でね。よく話をする先輩がいて、気がついた頃にはその人のことばかり考えてたなあ。なにか別のことしていても、気がついたらその相手のことばかりを考えてしまう。私はそういう状態だったなあ。何度か遊びに行ったりもしたし、告白もされて即快諾したよ」
そこまで言った綾音は手にしたビール缶を開けて、一気にあおる。
「翌日には、子供ができたからなかったことにしてくれって言われたけどな。わけわかんねえ!じゃあ最初から告るんじゃないわよ!ああ、思い出したらまたイライラしてきた、明日一発殴ってやろうかしら。告った翌日に前の彼女の妊娠が発覚とか知ったこっちゃないわよ、ねえ?」
そう言って2つめの缶に手をかける。
「俺に同意もとめられてもな……。あれ?……今も交流ある人なの?」
「……ああ、私の上司で桜ちゃんの父親よ、名字は違うけど」
「そうなんだ。な、なんだか辛いこと話させたみたいで、ごめん」
ついでに知っているかもしれないと、想思郎は聞いてみることにした。
「ところでなんで名字が違うか知ってる?離婚……?」
「…………。単に離婚なら私から再アタックしたんだけどね……。うーん、どこまで私が話しちゃっていいものかな。よその家族のプライベートな話だから、私が勝手にあんたに伝えていいか悩むわ」
そこまでして聞くべきではないと、想思郎は話を止めた。どうせ桜に聞くつもりであったのだから、今別にしる必要はないと考えたからだ。
「もういい?2本も一気に飲んだたら眠くなっちゃった。でも、飲まずには話せないのよねこれ」
「ああ、うん、ありがとう。水かお茶飲んどきなよ、明日に響くよ」
失恋に近い話だったし、当時も相当辛かったんだろるなと思った想思郎は、感謝を伝えて会話を切った。
自分も部屋に戻ったあと、勉強を始めた想思郎だったが、いまいち集中できない。先程の綾音の「気がついたらその相手のことばかりを考えてしまう」という言葉がまるで引き金になったかのように、その言葉通りの状態に陥っていた。
その言葉が頭の中でちらつくことで、「相手」を具体的に思い浮かべてしまい、気がつくと桜のことを考えている。
それは声を掛ける前の、ただ綺麗な女性という印象の彼女。登下校をともにし始め、想像以上に話をしかけてくれる彼女。SNSで話題が合い、会話が弾んでいた相手。激しい感情をあらわにし、そのまま言葉にしてぶつけてくる彼女。色々な桜の姿を思い出し、元はそれぞれ別であったはずのその姿が混じり合い、1つの個となり想思郎の中で膨れ上がっていく。好意という感情となって。
一度膨れ上がったその塊は心の中を大きく占め、隙を見つけては想思郎の思考に入り込んでくるようになっていた。
「聞くんじゃなかった……、いや、でも……」
聞かなければ、こんな状況にはならなかったのではないか。
しかし、聞かなければ、気づくことができなかったのではないか。
それでも、明確な理由なんてでてこない。どれだけ心の中でその存在が大きな塊として居座ったとしても、それは心の中という曖昧で、自身の感じるイメージでしかない。
月曜の時点で想思郎が期間をとったのは、桜に対して持っていた負の感情と好きな理由を整理するためだった。しかし今となっては心の中で大きく膨れたその感情によって、ほんの少し残っていた負の感情は消え去り、膨れた感情を論理的に置き換えようと必死になっていた。
しかしいくら考えたところで、その感情自体が思考を邪魔し考え直すという、連鎖に陥っていた。
結局のところ、勉強は全く手につかなかった。
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